お祈り

私はとくに何も宗教を信じていない。
でも、多くの日本人がそうであるように、神社に行けば神様に願い事をするし、お守りを買ってつけてみたりするし、誰かのお葬式にいけば、ちゃんと数珠を握りしめて合掌したり焼香したりする。
むかし通った保育園はお寺が運営していたので、仏教的な行事もあったし、朝夕お釈迦様にごあいさつしていた(と、思う)。

息子は、キリスト教の幼稚園に通っている。とはいえ、隣に教会があるわけでもなく、何かしらのキリスト教団体との関わりなどもなさそうで、「なんちゃって」だと私は思っている。先生たちは普通の服装だし、ホールに十字架がかかげてあるほかは、外観も内装も普通の幼稚園でしかない。プロテスタントだと、こんなもんだったりするんだろうか?
それでも毎朝、教室で讃美歌を歌い、お祈りを捧げる。お弁当を食べる前にもお祈り。行事の開会式にもお祈り。
息子は、キリスト教についてとくに何も知らない。たぶん、何に祈りを捧げているのかよくわかってないけど、胸の前で手を組み、目を閉じて、アーメンと言うように教えられたから、その通りにやっている。

日本人で、ほんとうに本気で純粋に「私はキリスト教徒です」という人は、ほんの10万人単位であるとか聞いたことがある。(キリスト教から派生した諸々の新興宗教のことは知らないが)
それなのに、クリスマスは国民的行事だし、結婚式はチャペルでというのがありふれている。
私はキリスト教徒だ、と言う人を、私は友人のうちで聞いたことがない。キリスト教の学校を出ていて、ちゃんと聖書の勉強もしたとかいう人はそれなりにいると思うけど、洗礼を受けてますとか、週末やクリスマスには教会にとか、そこまでの人は思いあたらない。
大学のとき「僕、キリスト教徒だから」と言って、胸元にロザリオのネックレスをかけていた男子がいたけど…。
でも、友人の結婚式に行けば、往々にしてそこにはチャペルがあって、牧師だか神父だかが出てきて、誓いの言葉を唱える。私も、讃美歌だか聖歌だかをなんとなく周りに合わせて歌い、おとなしくアーメンと言う。
なんとなく、形式的で、うそざむい。と思いながらも従ってきた。
日本人って、柔軟だなあ、とも思う。

先日、近所の大型スーパー、有体にいえばイオンに、息子と出かけたときのこと。
サービスカウンターの横に、大きくて透明な募金箱が、鎖で厳重にくくりつけられていた。
2024年1月。能登半島地震の募金。
日本赤十字へ直接振り込むのが一番よいとTwitterで見て、そうしようと思っていながら、つい、口座番号を確認して振り込むそのひと手間が面倒くさく、いつまでもウダウダしているしょーもない人間なので、ここはもうイオンさんを信じて頼んでしまえ、ということで財布を取り出した。
「石川の困ってる人に少しだけどお金を送ろう」と言うと、息子が「お金を入れたい」というので、息子にお金を握らせ、募金箱に届くように抱き上げた。
募金箱の小さな入口からお金を落とし入れたのを確認して、息子を下ろした。
「おうちが崩れて困っている人が、早く普通の生活に戻れますように」
と私が言うと、息子がおもむろに、胸の前で手を組み、目をギュッとつぶって「お祈り」をはじめた。
幼稚園教育のたまものだ。
しぐさはまさしくキリスト教式のお祈りだが、やっていることは日本式の神社でお賽銭を入れてお願いをするのにも似ていた。

形なんか、なんだっていいのだ。
お祈りでも、合掌でも、五体投地でも、なんなら五郎丸ポーズ(古い?)でも。
そこには、共通して、人の幸せを祈り、救いを求め、平和を願う気持ちがある。

あるいは、形が先で、気持ちや理屈は後からついてくるのが、躾というものかもしれない。
まずはわけがわからなくても、お祈りのポーズをする、祈りの言葉をとなえる。くりかえしやっているうちに、だんだんと、その中にこめられる気持ちに気づき、人が人を想うという感情が育つ。形と気持ちが、行動と理屈が、連動するようになっていく。そういうものなんだと思う。

別に息子にキリスト教徒になってほしいわけでも、ほしくないわけでもないけど、なんでもいいからひとつの形を通して、人としての大切な気持ちや、それに伴う行動は、身につけていってもらいたいな、とあらためて思った。

息子のお祈りの中に宿った気持ちが、被災地の方々にも届きますように。

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