ルパン対複製人間 感想

タイトルになっている「複製人間」がマモーのことであるのは間違いないだろうが、これはこの映画がつまるところ“ルパンとマモー”という二人の男の対決を描いていることを示している。
 両者の人生観は対照的だ。「永遠」を指向するマモーと、「現在」を生きるルパン。しかしそれ以上に、二人の間には決定的な溝がある様な気がしてならない。そう考えたときふと頭に思い浮かんだのは、映画『アマデウス』のモーツァルトとサリエリだ。
 サリエリは神の愛のみならず、自らが想いを寄せる女の愛を奪ったモーツァルトに激しい嫉妬と復讐心を抱く。サリエリのこの姿が、どこか『複製人間』のマモーと重なる。『複製人間』は簡潔に言ってしまえば、ルパンとマモーが峰不二子という一人の美女を奪い合う物語だ。マモーはその戦いに敗れ、不二子から拒絶されてしまう。そればかりでなく、マモーはルパンの“天才性”に敗北する。作中では、ルパンの精神が神の域に達していることが明らかにされ、ルパンの天才性が明確に示される。一方のマモーの方はどうか。
 彼は確かに超人めいた力を持つ人物として描かれるが、結局の所それらはまやかしであったことが後半に露見する。1万年という長きにわたる歳月知識を溜め込み、あまたの天才の複製を側に置いたマモーだが、彼自身は実のところ単なる凡人だったのではあるまいか。だからこそ天才や美しいものに憧れ、“永遠”に恋い焦がれる。ルパンやモーツァルトがそうだが、本当の天才というものはどこか刹那的だ。一瞬の火花のように自分の人生を瞬かせる。マモーはそうした天才の生き方とは対極にあるようである。彼の永遠趣味は凡人めいており、才能は無いが金持ちの有力者が抱く誇大妄想と大差ない。クローン技術を太古の昔に編み出し、莫大な富と権力を手にはしたが、技術と小手先の才に秀でいるだけで内実はただ一人の凡人に過ぎなかった。
 そんな彼がクローン技術で自分の複製を作り続ける様は象徴的である。肥大化し続けるマモーの自意識の映し鏡のように、マモーは自らを複製し続けることで文字通りに肥大化していく。そして結局は、ラストに登場する巨大な脳のような姿にまで膨張してしまったのである。あそこまでいくと最早人間ではなく、ルパンが言ったように化け物である。
 あのマモーの姿が現代社会に対する痛烈な皮肉であることは間違いないだろう。一人一人は凡庸な人間であるにもかかわらず、発達した科学技術を使用することで“神の真似事”であるクローン技術まで手に入れた現代人。そんな現代人の異様なまでに肥大化した姿は、狂人マモーの姿そのものである。
 作中では二人のアメリカ人が登場する。一人は粗暴な米軍人ゴードン、もう一人は頭脳派の大統領補佐官だ。あの二人は日本人が抱くアメリカ人観の巧妙な戯画化である。一方では強大な軍事力を背景に無理難題を押しつけ、もう一方では冷徹な合理主義で仲間をも切り捨てる。それが正しい米国観であるか否かはさておいて、日本人から観た米国という意味では映画『シン・ゴジラ』にも通じるものがある。大統領補佐官が作中で言い放つセリフがある。「本当の神は我々であるということを知るだろう」。神を演じるマモーを念頭に置いてのものだが、米国という国が、ひいては現代社会が、己を神と考えるまでに肥大化してしまっていることを意味している。恐ろしいのはマモーであるが、我々が実生活において生きているこの世界そのものが、マモー同様に恐ろしい“怪物”と化してしまっているのである。 
 人間の身であるにも関わらず神になろうとし天高く舞い上がるマモーの姿は、天に近づきすぎて倒壊させられたバベルの塔を想起させる。それを阻止したルパンは神の現し身か。神が地上に使わしたモーツァルトさながら、精神が神の域に達しているルパンが行きすぎた人間の蛮行に鉄槌を下す。ルパンに神の代行役まで見出すのはそれこそ行き過ぎかもしれないが、そういう見方も角度によっては許される気もする。
 かくてマモーはルパンに敗れたわけだが、1万年もの永きにわたって知識と技術を習得し努力を重ねた人間が、ルパンというある日突然現れた一人の天才によって葬られるのは哀れの念を禁じ得ない。そこにはやはりサリエリの哀愁を感じてしまう。マモーは1万年という時間をかけてもルパンに勝てなかった。一方で、ルパンにとっては人生の中の些細な一コマであるに過ぎない。彼にとってマモーとの対決は大事件でもなんでもなく、彼の人生を彩る数々の事件の一つに過ぎないのだ。そこには哀愁もあるが、ある種の清々しさもある。

「盗まれたものを取り返しに行く」と言ったルパン。彼が盗られたものとはなんだったのか。これには色んな意見があるようだが、俺は“ルパンが生きる世界”であったように思う。『ルパン三世』とは常に現代社会に対するアンチテーゼである。そんなルパンでさえ存在できない様な社会をマモーは造ろうとしていた。そんなマモーの“複製”がいつ何時この現代社会に現れないとも限らない。いや、もう現れているのかもしれないのだ。“ルパン対複製人間”この勝負は、実はまだ終わっていない。マモーの“複製人間”はそこかしこで現れている。そんな存在と戦うため、今日もルパンは現代社会に存在し続けている。ルパン三世ある限り、彼が負けることはない。
 だが彼が完全に消えてしまうということは恐らくないだろう。
 “神出鬼没の大泥棒”
 それがルパン三世なのだから。

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