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京都公演覚え書き その⑥ 音響効果、いまむかし(後編)

「効果音」の意図

本稿の前編・中編では「観客へ演者の声・効果音・劇中音楽をスムーズに届けること」を主題に、京都公演の音響環境と音響機器について記しました。最後の後編では「演出上必要な効果音・劇中音楽を鳴らすこと」を主題に記します。この主題は芝居屋ゆいまのの那須塩原市図書館「みるる」公演から一貫しています。
「読み語り『父と暮せば』」を上演するにあたり、まず初めに脚本上、どんな音が記載されているか拾い上げました。
すると①遠雷、②落雷、③雨 が背景音として記載されています。
①遠雷は時間軸が長めで、②落雷は単発で2~3度鳴ります。落雷の背景音として遠雷が存在すれば、突然の落雷は“晴天の霹靂”になりません。また、遠雷の音量をフェードアウトさせる(徐々にゼロに近づける)ことで、雷雲が遠ざかっていくことを表せます。
③雨の音。「雨の強弱」「同時に風が吹いているのか」「風が吹いているとしたら強いのか弱いのか」によって雨の音色が大きく変わります。この脚本では美津江の心情とリンクするかのように雨が降り出します。したがって、風を伴わない、しとしと降る雨の音がこの物語には相応しいと判断しました。

1990年ごろ岩手県花巻市にて

脚本には登場人物が立てる音として、④美津江が下駄を鳴らす音、⑤美津江がキャベツを刻む音、⑥竹造が炒り子(いりこ)を摺り鉢(すりばち)で摺る音、⑦竹造が雨漏りのしずくを丼(どんぶり)や茶碗で受ける音 が記されています。
そして、⑧オート三輪のエンジン音 が第4場(最終場面)のト書き数ケ所に描かれています。このオート三輪の助手席には、舞台上に一度たりとも姿を見せない木下青年が乗っていることになっていて、エンジン音だけで青年の存在を観客に知らしめます。
もしこの作品が映画やテレビドラマであれば、④も⑤も⑥も⑦も⑧も映像に重ねてその音を鳴らすことでしょう。しかし生身の演者が立つ舞台は異なります。それらの音をご丁寧にスピーカーから流すと、これらの音にそれぞれ何か特別な意味があるように観客に感じさせてしまうおそれがあります。
というのも、生活音というのは日常生活にあふれているからです。生活音の大半は、耳に届いていても何が音を立てているのか意識にのぼりません。
登場人物がいるのは「バラックに毛が生えた程度の簡易住宅」ですから、街の喧騒も室内にまで聞こえてきたことでしょう。耳をすませば、通りを行く人々の声、荷馬車の音、物売りの声などさまざまな音が聞こえてきたにちがいありません。それらの音はト書きにいちいち書かれていません。
脚本のト書きに書かれているからといって、ト書きに書かれた音だけを舞台で鳴らすのは、却って鑑賞の邪魔になります。静寂の中でスピーカーから出た音を聴いた観客が「この音を鳴らすことに何か意図があるのだろうか」と音が鳴るたびに、作り手の意図を考えさせるきっかけを与えかねないからです。
どの場面にどのような効果音を鳴らすかを考えるうえで最も大切なポイントは、観客の鑑賞の邪魔をしないかどうかと観客の想像力を助けるかどうか、つまり「効果」を得られるのかの2点に集約できます。
いわゆる生活音は、日常においてほとんどが背景音です。意図的に鳴らそうとして鳴らす生活音はほとんどありません。
芝居屋ゆいまのの公演では、④⑤⑥を省略し、雨音にかぶせるように⑦だけ微かにスピーカーから鳴らすことをすぐに決めました。童唄を口ずさみながら雨漏りを器に受ける竹造のどこかひょうきんな姿を「ポチャン…ポチャン…」という音で強調することによって、重い物語にわずかでも息抜きできるシーンを設けることを意図しました。

最後まで悩んだのが⑧オート三輪のエンジン音をト書きどおりに流すかどうかです。この音は上述のとおり第4場の冒頭で木下青年の存在を観客に想像させる音として描かれ、エンディング場面のト書きにも記されています。この音をどう扱ったのかは、芝居屋ゆいまのの公演を鑑賞した人にだけ知っていただきたいので、ここでは記載しません。

劇中音楽の意図

次に“劇中音楽”はどうでしょう。
a.第1場の冒頭のト書き『音楽と闇とが客席をゆっくりと包み込む』

b.第2場の冒頭のト書き『音楽の中から、三十ワットの電球にかぼそく照らし出された八帖間』

c.第3場の冒頭のト書き『音楽の中で雨が降っている』

d.第3場の冒頭のト書き『竹造、童唄のようなもので囃しながら』

e.第4場の冒頭のト書き『音楽がおわるとすぐにオート三輪のエンジンの音が』

f.第4場の中盤のト書き『美津江(調子高く)「あかいめだまのさそり、ひろげた鷲のつばさ、あおいめだまの小いぬ…」』

上記のうち、dとfは劇中歌というほどの歌ではありません。朗々と歌うようなものでなく、ついつい口をついて出たような位置づけのため音響効果として援護したり強調したりする必要はなく、演者のなすがままにしました。
上記a,b,c,eの音楽の選択には時間を要しました。どのような楽曲なのか、脚本には一切書かれていません。4つの場面とも同じ楽曲なのか、それぞれ異なるのか。長調なのか短調なのか、リズムは早いのか遅いのか。どんな楽器が使われているのか。有名な楽曲なのか聞いたことのない楽曲なのか…。
幕間に流れるため、観客はそのとき流れる音楽がいやおうなしに耳に入ってきます。
当然のことながらわたくしたちは日常生活で何かをしたり考えたり休んだりするたびに音楽が流れるようなことはありません。この芝居は父と娘の会話にリアリティを持たせることが最も重要です。音楽の種類・タイミング・音量が少しでもズレるとリアリティを大きく損なって不自然さが際立つおそれがあります。
a,b,c,eの音楽をどう扱ったのかについても、芝居屋ゆいまのの公演を鑑賞した人にだけ知っていただきたいので、ここではハッキリと記載しません。上記fの『星めぐりの歌』を効果的に用いたとだけ書いておきます。

2024年1月 新花巻駅のホームにて

正解がない音響「効果」

どの場面にどのような“効果音”や“劇中音楽”を鳴らすかは、音響機器が進展しても正解が見つかるものではありません。“効果音”や“劇中音楽”は繊細な違いで観客の心情を大きく変化させるものです。聴く者の心情の変化をデジタル信号で数値化しフィードバック補正して、演出上の正解を導き出せるようなものでは決してないからです。作者・演出家・演者それぞれの企みが少しでも変われば作品のたたずまいが大きく変わるのと同じことです。
むしろ正解がないことが音響「効果」の難しさであり、いまもむかしも、きっとこれからも変わらない醍醐味であるといってよいでしょう。

1990年ごろ岩手県花巻市にて

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