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SPY×FAMILYの心理的安全性を考える

SPY×FAMILY(スパイファミリー)が大好きで、10月からのアニメが早く始まらないかなと思って日々過ごしている。私だけでなく、多くの人に人気なのはどういう部分なのだろうかと考えてみた。

アニメ内の心理的安全性

以前、ある大学教授が「鬼滅の刃、流行ってますよね。あれは心理的安全性が保たれているのが人気なんですよ」と当然のように言っていて、私は驚いた。

心理的安全性とは、ビジネス用語で、職場において個人が発言したり行動することに安心感を持っている状態のこと。みんなが安全性を感じている職場であれば、良いアイデアが生まれ、不正なども防げる良い状態になる。

「主人公は家族を大切にしているし大切にされている。最近の人は家庭にすら心理的安全性を感じなくなってしまったから、ああいうのがウケるんですよ」とも言っていた。

教授が雑談として言ったその言葉が、ずっと頭の中に残っていた。

SPY×FAMILYも同じ?

SPY×FAMILYも同じように心理的安全性がウケているのかなと思った。

ロイド、ヨル、アーニャの3人はお互いの利益のために家族になる。それぞれが正体を隠しているので他2人に対しても必要以上に探りは入れない。そして、お互いの行動に対して非難せず尊重し合っている。まさに心理的安全性に必要な要素だし、まるで会社での同僚との関係のようにも思える。

ヨルの行動

何と言っても、ヨルは子どものアーニャのことを『アーニャさん』とさん付けで呼ぶ。ロイドとアーニャを本物の親子と思っていて嫁入りした形になるので、ある意味、気を遣っているのは当然の流れだし、ヨルが所作が丁寧な人物であることなども関係しているが、ヨルがアーニャに呼びかけるたび、相手を尊重している様子がうかがえる。

アーニャが「一人で顔を洗える」と自慢したときには「すごいですね!」と褒める。ヨルがアーニャを馬鹿にしたり無下に子ども扱いする場面は無い。

ロイドの行動

ロイドは「任務達成のためなら(何でもやらねば)」と考えている描写がよくあるが、あまりアーニャの行動を強制しない。

アーニャは実の子どもという設定だし、学校で優秀に振舞ってもらわないといけないので、もう少しスパルタ教育があっても良いのではないかと思うが、無理に勉強や運動をさせたりしていない。ヨルが一度牽制したのはあるが、対策を取ることなくテストで赤点を取らせてしまう。優秀な家庭教師を雇う等、赤点を取る前に防ぐ方法は何でもあったはずなのに。本人の努力を信頼してのことだろうか。

もう一点私が気になっているのがアーニャの言葉遣いだ。「もし不合格になってしまったら全ての準備が水の泡に…」と言えるほどの『超』重要な親子面接の直前、アーニャは「だいじょぶます」と言っていた。「大丈夫です」というのは日常でかなりよく使う言葉であり、面接試験の中でも使う可能性のある言葉なのに、なぜ矯正しなかったのか。面接試験の模範回答を暗記させる中でロイドが訂正しなかったことに疑問がある。
その後もアーニャの言い間違いはたくさんあり、読者としては可愛いなと思うが、なぜそれを放置しているのか、ロイドが完璧なスパイとして描かれていたことに矛盾するのではないかといつも思う。
(アーニャの言い間違いは可愛らしく、読者のウケも良い。むしろ、ロイドが親バカで可愛さのあまり放っておいている設定にしてしまった方がプラスになるというアニメ上の設定が一番の理由かなとは思う)

心理的安全性を感じる点としては、駄目な行動を責めないという点もある。アーニャが掃除をすると言って水の入ったバケツをひっくり返しても、本の整理をすると言って読書をしてしまっても、ロイドはアーニャを𠮟らない。

アーニャの行動

アーニャは子どもなので自由に振舞っている。他人同士なのに家族のように自由に振舞えるというのが、ロイドとヨルの行動の結果、得られている安心感から…かもしれない。

アーニャ自身の好奇心が理由ではあるものの、ロイドがスパイでありヨルが殺し屋であることをアーニャは否定しない。否定していたら物語が始まらないので必然であるのだが、その気持ちが根幹にあることが、3人が安定していることに繋がっていると思う。

現代っぽい

これは私の意見だが、心理的安全性という面でもそうだが、現代の人にウケる家族だなと思う。『家族』だが必要以上に探ったり縛られることが無く、適度に距離がある状態である。しかし、経験や感情は十分に共有できるので冷めた家族ではない。

親戚(ユーリ)や家族で共通の知り合い(フランキー)は家族に悪い影響を与えない。ご近所トラブルも無い。(悪いうわさがあってもイケメンフェイスであっさり解決できる)

家族であることのデメリットが無い理想の状態を描いていると思う。アニメなので、理想を描いているのは当然だと思うが、このような状態を理想だと感じるのは現代っぽい感性なのではないかと思っているが、どうだろうか。