3歳児の親が考察する、これからの時代を乗り越えるために選びたいアニメとは

最近、キッズ向けのアニメが、善悪の二項対立の世界観の戦闘系から、課題解決系に移行してるなぁと、毎朝3歳児の息子とNetflixを見ながら考察しているおざりんです。

息子が生まれて親になり、僕が届けられる教育とはなんなんだろうと考えるようになりました。(そもそも教育って言葉があんまり好きではないですが、ひとまず話を進めるために便宜的に使ってます)

幼児期の子どもに大きく影響を与えるのが親とのコミュニケーションにあり、そこが最重要項目なのですが、それはまた別のエントリーに譲るとして、今回はその影響を与えるアニメについて書こうと思います。

子どもが好きな自分に起きた価値観の変容

僕は昔から子どもと遊ぶのが好きな人間で、よく戦闘ごっこでやられ役をしてました。特に男の子は「〇〇パーンチ!」「〇〇キーック!!」ってありがちですよね。それに対して「うわーやられた!」とか「やったなー」と子どもが喜ぶリアクションをする自分が普通でした。

でも対話の場に関わるようになってから、パンチを繰り出す子どもたちと遊んでいると違和感を感じるようになり、それを探求していくと「世界を善悪で二分する価値観」に行き着くんですよね。やっつけることがカッコいい「ヒーロー像」に憧れるのは僕も経てきたものなので、否定はしないけど、少し残念さを感じる自分がいます。

善悪の二項対立の価値観のアニメは古い?

「〇〇パーンチ!」を引き起こす要因は言わずもがな、アニメ(や絵本など)の影響です。

日本の戦隊モノやア○パ○マンのような価値観は古い価値観になってしまったのではと思うようになりました。

その道の専門家ではないので、あくまでも自分の知る範囲の世界での考えですが、ヒーローものの原点は、戦後の価値観が色濃く残る昭和時代の「月光仮面」や「鉄人28号」とかから受け継がれていて、基本的には戦後の価値観をひきづっているんじゃなかろうかと思うんです。

その系譜を受け継ぐ戦隊もの系は「明確な悪がいて、弱い誰かを助ける」という一見美しいものが流れてはいるけど、果たして本当に世界は善と悪に二分することができるのでしょうか。

退治された鬼の子どもは何を感じたのか

日本に代表される物語「桃太郎」。ここにも善悪の二項対立の価値観が潜んでいます。

桃太郎は鬼退治を成し遂げ、村ではヒーローになる。でも退治された鬼の子どもは桃太郎を狂気と捉えるでしょう。カメラの視点を鬼の世界に切り替えると、正義(桃太郎)はヒーローにもなるし悪にもなりえます。

本来、桃太郎の目的は「村に平和をもたらす」ことにあり、それを実現する手段の一つが鬼退治でした。でもその手段によって、痛めつけられた鬼の子どもにはひどいトラウマを同時に生んでしまった。(かもしない)

世界を善悪の二項対立で分断する価値判断はとても危ういように思います。

現代における桃太郎は、どんなストーリーになりえるか

では、鬼退治ではない手段で桃太郎を描くとしたらどんなストーリーになるんでしょうか?

「鬼と対話する」「略奪をなくすために、村の貧困率を解消する」みたいなことが描けるかもしれない。(子どもは面白くないwww)

ここまで書いてみて「そういえば…」と思い調べてみるとこんな取り組みもあるみたいです。

現代は、SDGsのように、これまで部分最適を追求することで生まれた副産物(課題)を、大人が勝手に引いてきた境界を乗り越えて手を取り合い、一人一人が世界を変えていかなくてはならない時代です。

上意下達のピラミッド型の組織構造から、自律分散協調型の組織運営も求められるなってきて、そこに善悪で世界を分断する二項対立の価値観はそぐわないんではないかなと僕は思うんです。

対話における共感力や自己内省力を鍛えることが重要だと思うんですが、まだそれに紐づくようなアニメはないものの、冒頭に書いたように二項対立の世界観ではない新しいタイプの構造を持ったアニメが出てきました。

善悪思考から課題解決思考へ

最近、息子がハマっているパウ・パトロール(最近日本でも放送されてるみたい)のストーリーを観ていて、ストーリーを分析してみると、課題解決の側面があるなと気づきました。

基本のストーリー構成は
①街で困りごとが発生
②パウ・パトロールのリーダーケントに連絡が入る
③パウ・パトロール隊員(専用の乗り物を持ち、それぞれ専門性を持った6匹のイヌ達で構成されている)の中からケントという少年が課題に対して最適と思われるメンバーをアサイン
④現場に到着、一筋縄では解決せず新たな問題発生
⑤ケントがスマホのようなデバイスで新たなメンバーを招聘
⑥一人一人(一匹一匹)の得意を組み合わせて解決

みたいな流れ。

アサインする中心人物がいて、割とフラットな関係性の組織で課題解決のプロジェクト型であるのは今っぽい。完全な自律分散協働型ではないけど。

ヒーローズ・ジャーニーの定番の型(一度は逆境が立ちはだかり、それを乗り越える構成)はアンパンマンとかと同じで、違いは明確な悪が存在してそれをやっつけるのではなく、発生した困りごとを解決するところ。

他にもロボカーポリーってアニメも同じ構造です。(どんだけ観てんねんw)

アニメが子どもの全てを決めるのではない。でも選択はできる。

親である僕はもちろん仮面ライダーや戦隊モノ系で育ってきていて、今の自分の価値観には全く反映されてないから、子どものころに観るものから与えられる価値観はそこまで大きくないのかもしれません。

でも、息子のふるまいを見ていると、パンチは繰り出さないし(暴力の手段は選ばない)、二項対立の世界ではない、何かしらのものが蓄積されているように思います。

Netflixやyoutubeのように日本語訳さえあれば世界中のアニメを選択ができる時代に、親が何を選択するのかは重要な分岐点になるかもしれません。

僕は、悪を退治する正義みたいなものにカッコ良さを感じる価値観よりも、困っている誰か(動植物も含めて)をあらゆる手段を講じて、解決するのがこれからのヒーロー像のような気もするし、そういうものを選んでいきたいと思います。

アニメだだ流し教育には気をつけなきゃならないんだけど、アニメを観せる手段をとるとき、そちらを選択するのが自分に出来ることなのかなと。

ここまで書いといてなんですが、親が見せたい、もしくは子どもが見たいものを見せたら(見たら)良いと思ってるので、戦隊モノを見せたい人は見せたら良いと思っています。

このnoteを読んだ親世代のみなさんが、一度立ち止まって、自分が子どもに与えたいものは何か?について考えるきかっけになれば幸いです。

(初エントリーで、冗長な内容になってしまいましたが、最後までお読みいただきありがとうございました!)

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