罪悪感の似合う人

芝居をやっている。年に何度か、金にならない舞台に出演しては決して多いとは言えない観客から拍手をいただいている。たまに映像や、イベント的なもので演技をしたりもする。どちらにせよ、知名度なんてものとは縁遠い活動状態ではある。

「夢を追いかけていていいわねぇ」「やりたいことがあって羨ましい」。そんなことを言われることがよくある。でも、良いことをしているという感覚は少しもない。

生前の父からは「頼むからやめてくれ」と懇願された。母も弟も未だに就職情報を送ってきたり、この先どうするのかと聞いてきたりする。怒られる。そんな風に家族に迷惑をかけながらやっているのだから、良いことであるわけがない。ある種の罪悪感を抱えてやっている。それでもやめずにいるのは、これが無くなったら自分に生きる理由が無くなると分かっているから。誰かのためでなく、自分のためにやっているからなんだと思う。お客さんが楽しんでくれるのは副産物といってもいいのかも。でもお客さんからの反応がないと萎んじゃうし、コロンブスの卵かも。

逆に、自分のやっていることは正しいんだ、素晴らしいんだと信じている人には嫌悪感を覚える。いや、信じるのはいいか。大々的に口外しちゃう人。宗教とかマルチ商法みたいで気持ち悪い。そんな良いものなら自分だけで楽しめばいいのに。「これとっても良いからあなたにもきっと合うと思って」。ありがとう。ありがとうね。でもお節介だな。人から勧められたものなんて、人はなかなか手を出さないよ。出会いのタイミングってものもある。例えば、知人から山下達郎の『アルチザン』をプレゼントされたのだけど、ずっと聴かずに放置していた。それから5年ほどして、何かのきっかけでたまたま引っ張り出して聴いてみたら、自分史上に残る名盤になった。少し、話が逸れてる。

「あなたは罪悪感の似合う人だから」と言われたことがある。なんだかわかってしまう自分がいる。悩み続け、迷い続けながらやるしかないんだろう。その時その時で出た答えらしきものに飛び込んでは、次はまた全然違う答えを出すのかもしれないし、毎回おなじことで悩み、毎回おなじ答えを出していくのかもしれない。そうやって一生を終えるのだとしたら、それはそれで悪くないと思える。新卒で入った会社を辞めたのは、このままじゃ自分の人生に責任を持てないと思ったからだった。今なら、たとえどこかでのたれ死んだとしても受け入れるよ。

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