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第十八話

 その男が視界に入ってき瞬間、万緑の中に、薄紫の花を撓に咲かせた藤の木が突然現れたかのように際立って映し出される。周りの喧騒が全て遮断され、華子は瞬きすら忘れ男を一心に見つめる。
 幼い頃、父に泣きながら欲した唯一の記憶。忘れかけていた、身体の内から湧き上がる切望。 

 
 「華子、よく来たね、少し見ぬまにまた美しくなったのではないか?」

 斎藤家に着くなり、先に来ていた父親が、愛しげに目を細め華子を出迎えた。

「私が見立てた西陣織の帯がよく似合っている。出会った頃のおまえの母にそっくりだ」
「父上、ありがとうございます」

 久しぶりに会う父親は、優しい表情の中にも並々ならぬ権力者の貫禄があり、華子の心に、親子の親しみと畏敬の念を同時に抱かせる。

「華子は道場に入るのも、試合を見るのも初めてだな」
「はい」
「もし気分が悪くなるようなら遠慮なく言いなさい、女性には少し乱暴に見えて辛いかもしれない」
「大丈夫、父上は心配しすぎです」

 相変わらず過保護気味な父に苦笑で答えながら、華子は、二人のために用意された道場の一角に座る。初めて入る未知の世界。幼い頃、父親に聴いて憧れていた光景が、今目の前にある。剣術の稽古をする男達の熱気と迫力は想像以上で、華子は久々の高揚感に心を踊らせた。

 幼い頃、自分も習いたいと、どんなに泣いて頼んでも、女は美しく淑やかに、男に守られてこそ幸せなのだと言い聞かされ叶うことはなかったが、思えばなぜあの時自分は、剣術を習いたいと思ったのだろう?
 忘れていた何かが心を掠め、微かな痛みのように華子の胸を刺激する。まだ物心もついていない幼かった自分が、強く求めたもの…

「慎之介は相変わらずいい動きをしている、なあ華子、見てごらん」

 父親の言葉に、それかけていた意識が戻される。父の指し示すほうを見やると、一際長身で端正な顔をしている慎之介が、門弟と手合わせをしているところだった。まだ試合は始まっておらず、お互い本気で戦っているのではないのだろうが、相手の男より慎之介のほうが遥かに実力が上なのは、素人の華子にすら伝わってくる。

 こうして見ると確かに慎之介はいい男だ。でもきっと自分はこの男では満足できない。本能でわかっていた。だが、たとえそうだとしても、どうすることもできないということも、華子は痛いほど理解していた。

 自分は、父の権力という強大なものに守られて、その中に黙って身を置いておけばいいのだ。華子にあらゆるものを与え、心を満たしてくれる男は父しかいないのだから。父が与えてくれるものを、華子はただ嬉しそうに微笑み、素直に受け取ればいい。結婚相手も同じこと…

 と、突然周囲がざわつき始め、いよいよ試合が始まるのかと華子は姿勢をただしたが、何やら様子がおかしい。

「海が帰ってきたようだ」
「図々しい、あの男に試合をする権利などあるのか?」

 不穏な空気を感じ、隣に座る父に目を向けたが、複雑な表情で首を振るだけで、華子に何も答えようとしない。

「みんな黙れ!来たぞ」

 声につられ、皆が注目する方へ華子も顔を向けると、斎藤家の当主慎一郎であろう、父とはまた違う趣のある男の後ろから、慎之介と同い年くらいの若い男が入ってくる。浪人のような総髪に、小袖を着流した出たちは到底立派なものではないというのに、華子はその男から目を離せなくなった。

(なんて、美しい男だろう)

 いや、美しいだけではない。華子はすぐにわかった。この男がきっと、千草の話してい妾腹の子だ。男の纏っている独特の空気に、自分と似た匂いを感じ、華子はその男に強く惹きつけられる。

 時の流れが止まったように、ただ一心に男を見つめていると、男が華子の存在に気付き、無表情だった男の目が大きく見開かれ、二人の視線が絡み合う。

「これから、武学館の次期当主を決める試合を始める!」

 慎一郎の言葉に静まりかえる門弟達。
 だが、華子の心は狂ったように激しく脈打ち続ける。本能が告げていた。自分が欲しいのは、この男なのだと…


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