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第二十七話

 まだ身体が熱い。お凛に会釈され、伊蔵はついその場から走って逃げ出してしまったが、あのお凛の澄んだ美しい瞳に、自分という存在が確かに映し出されたのだと思うと、言いようのない高揚感に身も心も包まれる。

 お凛を初めて目にしたのは、胡蝶が光楽といなくなり、お吉が忘八達に二人追わせ見つけ出さんと躍起になっていた日。伊蔵は、適当に探すふりだけをして一人玉楼に残っていた。なぜならもうとっくに、二人が亡くなっていることを知っていたから。そして殺したのは、紛れもなく伊蔵だった。

 しかし伊蔵は、なぜ二人を殺さなくてはいけなかったのかは知らない。自分の役目はただ、命じられた通りの場所で二人を待ち伏せし、問答無用で殺すこと。後のことは任せろと、見知らぬ男達が二人の死体を運び、伊蔵は何食わぬ顔で玉楼に戻った。

 伊蔵は忘八として玉楼に雇われているが、彼の主人はあくまでも四郎兵衛会所の四郎であり、お吉もそのことは承知している。
 四郎兵衛会所は、表向き女の逃亡を見張る番所だ。だが、吉原の闇の仕事も請け負っており、伊蔵がその内容を他人に漏らすことも、詮索することも一切ない。余計なことを知ろうとすれば、殺されるだけと分かっているからだ。

 夢に敗れ、死ぬ勇気も持てず流れ着いたこの場所は、伊蔵にとって地獄でしかなかった。好きでもない年増の女を食扶持のために抱き、なんの恨みもない人間を追い詰め、命令があれば時に殺す。そんな鬼畜になり下がった自分の人生に、伊蔵はもう、生きている意味を見いだせない。

 でもあの日、玉楼の中庭に佇むお凛の姿を初めて見た時、その美しさに伊蔵の心は震えた。冷たく凍てついた心が息を吹き返し、再び生きている喜びを感じることができた。大げさでもなんでもなく、お凛は自分にとって、この掃き溜めに現れた天女のような存在だったのだ。どんなに恋焦がれても、獣に成り下がった自分には、決して触れることのできない美しい天女。

(それにしても、まさかこの俺が、ここまで落ちぶれるとはな…)

 家督は長男が継ぐのが絶対の世の中、御家人の三男坊として生まれた伊蔵が身を立てるには、分家するか婿養子にでもなるしかない。幼い頃から喧嘩っ早く、頭に血が上ると抑えがきかない伊蔵の将来を両親は心配したが、幸いなことに、道場に通いだすや伊蔵は剣術の才能を発揮した。

 松岡流の門下で修行に励み、18になる頃には、師以外伊蔵に敵うものはいないと言わしめるほどの実力者となった伊蔵は、さらに研鑽を積み名を上げようと、江戸の三大道場の一つ、北進流の山口道場に入門する。

 そこでも並々ならぬ頭角を現した伊蔵であったが、山口道場の師範代の一人、五千石の大身旗本、神谷正嗣の次男、義嗣に勝ったことから、伊蔵の運命は暗転する。自尊心が強く執念深いこの男は、伊蔵を貶める機会を虎視眈々と狙っていたのだ。

 あれは忘れもしない、長かった冬が終わり桜が芽吹き始めた頃、数いる門弟達の中、最年少で免許皆伝となった伊蔵は、道場の仲間達と久しぶりに飲みに出かけた。上機嫌で羽目を外し、足元が覚束ない千鳥足で1人帰路に向かう途中、突然、覆面頭巾をした3人の男達に問答無用で襲われる。

 酔いが回っていた伊蔵は、素早く刀を抜くことができず、その一瞬の隙をついた一人の男の剣先が伊蔵の目をかすめ、見たこともない量の血が噴き出す。だが伊蔵は怯まなかった。自らの肌を伝う血を目にした途端酔いは醒め、伊蔵は刀を抜き男の腕を切りつける。

「逃げろ!」

 伊蔵の覚醒に気づいたのか、腕を切りつけられた男が叫び一目散に逃げていく。その声は、どこかで聞いたことのある声だった。

「待て!」

 なんとか追いかけ捕まえようとするも、出血による目眩が今更のように起こり動けなくなる。たまたま通りかかった人間に助けられたが、伊蔵はその日、片目の視力を失ったのだ。

 伊蔵は襲撃犯を憎み、自分の運命を嘆き呪ったが、伊蔵の才能を買っていた道場主の羽左衞門は伊蔵を見捨てず、医者の進言で、皆より早く稽古を切り上げるようになったものの、伊蔵は怪我の回復と共に道場に復帰する。

 だが、狂い出した歯車は、ここで止まってはくれなかった。ある日、伊蔵がいつものように稽古を終え家に向かって歩いていると、1人の男が突然伊蔵に話しかけてくる。

「いやはや伊蔵さんはさすがですな。片目を失ってもまだ諦めず道場へ来続けるとは」

 男が、神谷義嗣の取り巻きの一人であることは知っていたが、特に親しく話したことはなく、伊蔵は無視して立ち去ろうとした。しかし伊蔵はふと足を止め男を振り返る。聞き覚えのある声に不快感を覚えると同時に、全身が総毛立つような感覚が、伊蔵の記憶を蘇えらせたのだ。

「どうかしましたか?」
『逃げろ!』

 伊蔵は猛然と男に歩み寄り、男の着物の袖を捲り上げる。思った通り、男の腕には、自分があの日切り付けた刀傷が確かに残っていた。

「な、何をするんだ!」

  怯える男の胸ぐらを掴み、伊蔵は怒声を浴びせる。

「おまえ!なぜ俺を襲った!」
「ひ!違う!俺じゃない」
「ふざけるな!お前の声とこの傷が動かぬ証拠だろうが!舐めた真似しやがって、今すぐこの場でブッ殺してやる!」
「まっ!待ってくれ!俺は頼まれただけなんだ」

 鬼の形相で殴りかかろうとした伊蔵だったが、男の言葉に腕を止めた。

「頼まれただと?」
「ち、違う…」
「何が違うだ!誰に頼まれたか言え!言わなきゃいますぐこの場で殺してやる!」
「やめてくれ!言う!言うから!義嗣様だ!あの人に、あんたを再起不能にすれば10両やると言われた。失敗した腹いせに、今もあんたに嫌がらせしてこいって…」

 目的の名前を聞き、伊蔵は男の腹を強く蹴り上げる。

「ぐはっ…」
「この卑怯者が!」

 伊蔵は烈火の如く怒り狂い、まだ稽古が続いている道場へと向かう。頭に血が上りきり、自分を制御できなくなった伊蔵は、止める仲間達を振り切り、義嗣を半殺しとも言えるほど殴り続けた。そしてこの時を境に、伊蔵の人生は終わった。暴力沙汰を起こした伊蔵は道場を破門され、実質、剣客の世界で生きていくことは不可能となったのだ。

 生きていく希望を一瞬にして失った伊蔵は酒に溺れ、賭場に入り浸るようになる。博打で金も底をつき、いっその事自害しようとも試みたが、情けない事に、刀で自分を刺す勇気もない。
 そんな伊蔵に、金になる仕事があると声をかけてきたのが、賭場で知り合った彦右衛門という男。言われるがまま彦右衛門についていき、連れてこられたのが、吉原の四郎兵衛会所だった。

「俺は何年も前からここの手伝いをしてるんだが、腕の立つ男を探してるってんで四郎さんにお前のことを話したら、ぜひ会いたと言い出してな」

  彦右衛門に紹介された四郎という男は、 小柄ではあるが独特な凄みがあった。只者ではないと感じながらも、舐められまいと四郎を睨む伊蔵の顔を、四郎は値踏みでもするようにジッと見つめる。

「ふーん、中々男前じゃねえか、目元に傷はあるがそれもまたよし」

 そう言いながら、男が突然伊蔵の目元の傷を撫で、伊蔵は思わず寒気を覚える。

「大丈夫大丈夫、俺は陰間もいくがお前みてえのはさすがに無理だ。ただ見てくれがいいってのはここじゃ中々役にたつ、あんたみたいに厳つい男前にメチャクチャにされたいスケべな女も結構いてな。これで腕が立つってんじゃ言うことなしだ」
「ちょっと待ってくれ、俺はまだ引き受けるとは…」

 言葉を言い終わらぬうちに、伊蔵は彦右衛門に背後から身動きできないよう羽交い締めにされ、四郎が伊蔵の顔の前に小刀を突きつける。

「ここまで来てそれはねえんじゃないか?伊蔵さんよ。あんたがやってきた剣術ってのは所詮は型だ。
実際人間の急所がどこにあって、どこを刺せば楽に逝けるか、逆に中々死ねず苦しみ続けるか、今すぐここであんたに試して教えてやってもいいんだぜ?どうせ表に、あんたの生きてける場所はないだろう?」

 この男が纏う、底知れぬ冷酷さと殺気、相手に有無を言わせぬ威圧感。伊蔵にはもう、この男に支配され従うという選択肢しかなかった。

「…わかった。あんたの言う通りにする」

 この出会いこそ、晴れがましく前途洋洋だった剣客から、人々に蔑まされる亡八に成り下がった伊蔵の、第二の人生の始まりだったのだ。




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