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第十四話(*性表現がありますのでご注意ください)
海は久しぶりに母の夢を見ていた。きっとあの男がくる日なのだろう。鏡の前で鼻歌を歌いながら、さも嬉しそうに髪を梳かしている。上機嫌な母と裏腹に、海はいつも、その男が来る日は憂鬱になった。いつか男に、母を連れていかれてしまうのではないかと不安だったのだ。
襖の前で立っている海に気がついた母は、優しく微笑み海に手招きをする。
「どうしたの?そんなところにいないでこっちへおいで、今日は海のお父さんが来る日なんだから、海もお父さんに立派なところ見せないと」
そう言って、海に近づき抱き寄せようとする母の手を振り払い、海はその部屋から逃げ出した。
年に何回かしかやってこない男。そのくせ、現われた思ったら、いとも簡単に海から母親を奪い独り占めする。その男が泊った夜には、必ず聞こえてくる母の嬌声。何度もその男の名を呼び続ける母の声に、海はたまらず耳を塞ぐ。この声の意味を知ったのは、いったいいくつの時だったか。
気が付くと海は、今度は広い部屋の真ん中に一人寝かされていた。
『妾の子のくせに』
『卑しい遊女の子のくせに』
身体中が軋み、熱くて苦しくて意識を手放したくなるほど辛い状態だというのに、周りの人間が自分に向ける悪意のある言葉だけは、どこからかはっきりと聞こえてくる。と、突然、海の額に冷たい掌の感触がはしった。
(ここで目を開けては駄目だ)
覚えのある恐怖が蘇り、海は必死に目を瞑る。
「海」
しかし、聞こえてきたのは、死んだはずの母の声。あの女の声ではない。恐る恐る目蓋を上げると、そこにいたのは、若く美しいままの母だった。いつもの夢と違う展開に、海は驚き目を見開く。
「ごめんね…」
そう言って海の額を撫でる母に、海は黙って首を振る。なにがごめんなのか、海にはわからなかった。ただ、このまま目を覚ましたくないという思いに駆られ涙が溢れる。
(現実も、この夢と同じだったらよかったのに。もしもあの時目を開いた先に、母がいてくれたら…)
目覚めると、真っ暗だった夜の闇はほんのりと薄まり、朝の気配が少しずつ訪れようとしていた。
(昨日の夜、俺はどこにいたんだっけ?)
ゆっくりと身体を起こし部屋の中を見回した海は、自分の隣で安らかな寝息を立てて眠っている女がいることに気づく。女の寝顔を見下ろしているうちに、起き抜けであやふやだった記憶が鮮明によみがえってきた。
昨晩菊乃に切りかかられ、恐ろしさのあまり必死になって逃げ出したこと、たまたま飛び込んだこの部屋で、この女に出会ったこと。しかし、その女の寝顔は、海の記憶の中の女よりもずっと幼く見えた。海はそっと手を伸ばし、女の髪を優しく撫でる。
「…ちゃん」
「え?」
何かを呟く女に、起こしてしまったかと、撫でていた手を引っ込めたが、女は目を開けてはいない。女は口元を少し綻ばせ、幸せそうに微笑みながら言った。
「母ちゃん…」
それは不思議な感覚だった。昨日の夜、あんなにも妖艶に自分を誘った女が、今はまるで幼い子供のように母親を呼んでいる。
「母ちゃんはここにはいねーよ」
海はなぜか泣きたくなるほど動揺し、そんな自分の気持ちをごまかすように、眠っている女に返事をする。だが、先程まで幸せそうに微笑んでいた女の目蓋から突然涙が溢れおち、海は言葉を失った。
綻んでいたはずの口元はキュッと結ばれ、女は、何かを耐えるように、苦しげな表情を浮かべている。海は女のそばに身体を横たえると、女を抱き寄せその背中を優しく摩った。
どのくらいそうしていただろう。女の目覚めそうな雰囲気を感じとった海は、女から離れ様子を伺う。女は徐ろに目を開き、ぼーっと天井を見上げていたが、唐突に慌てたそぶりで身体を起こし、イタッと言って動きを止めた。そんな女の一つ一つの行動が子供っぽくて可愛くて、海はつい頬を緩めてしまう。
「大丈夫か?」
声をかけると、女はビクっと身体を震わせ、恐る恐る海の方を振り返る。驚いたように目を見開き海を見つめるその顔は、見る見る紅くなっていった。
気持ちをそのまま映し出すように、くるくると変わる女の素直な表情に心が和む。海がその女の腕を掴んで自分の胸に引き寄せると、女の華奢な身体は抵抗することなく海の腕の中におさまった。
「おまえ、初めてだっただろう?」
海がその女の耳に唇を寄せて、わざとからかうように囁くと、女は、ただでさえ紅く染まっていた頬をさらに紅くして小さな声で反論する。
「ち、ちがうもん、私だって玉楼の遊女の端くれだから、客くらい取ったことあるし…」
「嘘付け、おまえ本当は18歳じゃないだろう。いきなりすごい色っぽい顔で誘ってきたから、てっきり客を取ってる留袖新造かと思ったけど、おまえもしかしてまだ禿?」
「ち、違うもん、もうすぐ新造出しだし…」
小さな声で、何やらもじもじ言っているが、そんな姿も可愛くて、海は、女が新造だろうが禿だろうがどうでもよくなってしまった。
「まあいっか」
言いながら、海は女の細い腰をさらに引き寄せ身体を密着させる。
「え?」
よく聞こえなかったのか、女はキョトンとした表情で海を見上げてくる。
「可愛かったからまあいいやって言ったの」
そう伝えると、女は心底嬉しそうに海を見つめ、その素直な反応もまた、たまらなく可愛いと思った。
「おまえ、名前はなんていうの?」
海は女を抱きしめたまま、昨日の夜聞けなかった女の名前を尋ねる。
「私は梅、あなたは?」
「そっか、俺自分の名前もまだ言ってなかったんだよな、俺は海だよ」
「カイ…」
「そう、海って書いて、カイ」
海がそう言うと、梅は小さな声で海と呟く。そして、今度は自分から海の腰に手をまわし、隙間がなくなるほど身体をくっつけ、海の胸に耳をあててきた。そのまま気持ち良さそうに目を瞑る女の姿は、まるで小さな子供のようで、海は赤子をあやすように、梅の髪を優しく撫でてやる。
と、突然、海は胸の辺りに熱い雫を感じて梅を見下ろす。目線の先には、海の胸に耳をあてたまま涙を流す梅の姿があった。思ってもみなかった梅の反応に、海は狼狽する。
「どうした?」
海の問いかけに、梅はなんでもないと首を振り、もう一度目を瞑って海の胸に頬をあてる。その姿はたまらないほどいじらしく、愛しく思えた。
さっきも今も、なぜ梅が涙を流したのか、海にはわからない。だがきっと梅の中には、海の知ることのない悲しみがあるのだろう。せめて今だけはそれを取り除いてやりたくて、海は梅をきつく抱きしめたまま、子守唄でも聴かせてやるように、小さな声で唄を歌いだす。
幼い頃、眠れずにぐずる海に、母がいつも優しく歌ってくれた唄。幼かった海に、その歌詞の意味などわかるはずもなかったが、母の歌声はいつもとても心地よく、その唄を聴くと、海はいつも安心して眠りにつくことができた。
梅は海の胸に頬をあてたまま、ただ黙って聴き入っていたが、しばらくすると小さな声で、悲しい唄だねと囁いた。梅の言葉に、海は思わず苦笑いをする。歌詞の意味など深く考えずに歌った海は少し後悔しながら、歌の名前を尋ねてくる梅に、実は俺も知らねえんだと答える。
「俺の母親が、俺が小さい頃子守唄がわりによく歌ってたんだよ」
「海のお母さんてどんな人なの?」
「まあまあ綺麗だったよ、もう死んじまったけど」「ごめん…」
謝る梅に、海は全然と首を振った。思えば、女に自分の母親について話すのは初めてかもしれない。海にとって、他人に母親について聞かれるのは、苦痛でしかなかった。海がなにを言っても、どうせそいつらは、勝手に海の母親を汚し、所詮は遊女じゃないかと見下す。
だが、梅に母親について聞かれた時、海はちっとも嫌ではなかった。それどころか、母のことに興味を持ってくれたことが嬉しくて、海はめずらしく饒舌に母について語りだす。
「そうそう、俺の母親も梅と同じ遊女だったんだ。花魁ではないけど、結構人気あったらしい。親父に妾として身請けされて、その時に流行ってた歌がこれなんだってさ。心中物の浄瑠璃で歌われてた唄で、その頃あまりにも心中が多かったから幕府が上演を禁止して、この唄を歌うことも禁止されたんだって。それを子守唄がわりに歌ってたんだから、俺の母親も変わった女だよな」
海の話を黙って聞いていた梅は、小さく首を振り言った。
「お母さんは変わってなんかいないよ、私、この唄好きだよ」
好きだという言葉が嬉しくて、海は自然と微笑み梅を見つめる。しかし、梅は笑っていなかった。
「多分、海のお母さんは、この唄の中の女の人みたいに、海のお父さんのこと本当に大好きだったんだよ。一緒に死にたいって思うくらい、好きだったんじゃないかな…」
真剣な表情で自分を見つめてくる梅の熱っぽい瞳に動揺した海は、わざと揶揄うように軽口を叩く。
「へー、まだ禿のくせに随分大人なこと言うね」
「禿じゃないもん!子供扱いしないで!」
海の言葉に、梅は顔を真っ赤にし反論する。小さな子供のようにムキになる梅が可愛くて、海は更に揶揄おうとしたが、梅の目から涙が零れ落ちていることに気がつき言葉を詰まらせる。梅が泣くのを見たのは、これで何度めだろう。今までの涙と違い、今回は明らかに海が流させた涙だった。
「ごめん」
梅の頬を伝う涙を拭ってやりながら、海は梅を見つめ謝ったが、梅は海の指を振り払うと、小さく鼻をすすりながら、ぷいと横をむいて海から目をそらしてしまった。
海は許しをこうように、横を向く梅の首筋に唇を落とす。触れた部分から感じる梅の熱と肌の匂いは、おさまっていたはずの海の身体の熱を、再び上げていく。
「もう一回、抱いていい?」
拒否されるのを覚悟で口にした言葉。でも梅は、首を横には振らなかった。逸らしていた目をもう一度海に向けると、その頬を少し紅らめながら、海の目をただ真っ直ぐと見つめ小さく頷く。
「おまえ、本当に可愛いな」
言いながら梅の唇にそっと口付けをし、その顔を見下ろすと、今度はなぜか、少し怒ったような潤んだ瞳で海を睨んでいる。
「やっぱりやだ?」
遠慮がちに尋ねる海の首に腕を回し、梅は願うように言った。
「海、おまえじゃなくて、名前を呼んで」
「うめ…」
海は優しく女の名前を呼び、二人は再び深く繋がる。海の与える刺激に揺られながら、愛し気に自分を見つめる梅の瞳をもっと見ていたくて、海は何度も梅の名前を呼んだ。
そのたびに梅も海の名を呼び、海は、昨日より深くこの女を知れた気がして嬉しかった。果てた後、海が力尽きたように梅の胸にもたれかかると、今度は梅が、海の頭を優しく撫でてくる。
「なんか俺、情けなくねーか」
海の言葉に、梅は海の頭を撫でたまま、そんなことないと答えた。梅の裸の胸から聞こえてくる少し早めの心臓の音はとても心地よく、汗ばんだ肌から伝わる体温は温かい。海は梅の胸に顔を埋めたまま、静かに目を閉じる。
(このままこの女と、ずっとここに隠れているのも悪くないかもしれない)
そんな現実離れした考えが、海の頭をよぎった。
外からざわざわと人の声が聞こえたような気がして、海はゆっくりと目を開ける。ふと天井を見上げると、窓からは眩しいほどの光が射し込んでいた。
「やばい、もうみんな起きてきたか?」
慌てて身体を起こす海の声に、まだ眠っているようだった梅も弾けるように起き上がる。少し目を瞑っていただけのつもりが、どうやらあの後長い時間眠ってしまっていたらしい。
「私、戻らなきゃ、外の様子見て、誰にも見つかりそうになかったら呼びにくるから。海、ここに隠れていられる?」
「俺は大丈夫。それよりおまえこそ大丈夫か?もし見つかってこんなことがバレたら…」
心配する海に、梅は大丈夫とだと首をふり、そのまま脱ぎ捨ててあった着物を羽織って肌けた着物を帯でしめる。
「梅ちゃん!梅ちゃん!」
と、外から突然梅の名を呼ぶ女の声が聞こえてきて、梅は慌てて引き戸にむかう。そして、一瞬だけ名残惜しそうに振り返り海を見やった後、すぐに戸を開け廊下に飛び出して行ってしまった。
「梅…」
先ほどまでの睦み合いが嘘であったかのように、あっけなく梅の姿は消え、引き戸を閉める鈍い音が、海一人になった狭い部屋に小さく響く。海は、梅の出て行った引き戸に耳を当て外の様子を伺った。
外からは、梅の声に混じって、もう一人の女の声が聞こえてくる。どうやら誰かが足抜けしたらしく、その女はかなり動揺しているようだった。とにかく、今この部屋から出て行くのは到底無理そうだと判断し、海は引き戸から離れ、さっきまで梅と寝ていた窓の下に腰を下ろす。
梅がいた時は全く気が付かなかったが、その部屋には所々にお札が貼ってあり、暗く寂しい薄気味の悪い部屋だった。小さな窓からさしこんでいる光は眩しいほどだというのに、決して部屋全体を照らすことはなく、まるで、この部屋が光から断絶されていることを主張しているようにすら思える。
朝ですら薄暗いこの部屋に、梅はなぜ昨夜一人でいたんだろうか?
(あいつも、居場所がねえのかな…)
目に浮かぶのは、涙目で海の名を呼び縋り付く梅の姿。子供のように無垢な表情を見せたかと思えば、抱いてくださいと、妖艶な女の顔で海に願った。
もしかしたら梅も、自分と同じなのかもしれない。ここで暮らしながらも、本当はどこか遠くへ、逃げ出したかったのかもしれない。
(俺と同じ…)
そこで海は、自ら考えるのを辞め目を瞑る。自分には居場所がない。そんなこと、ずっとわかっていたことだった。今更悲しくなるほど、もう子供ではない。海は、自分の身体を抱きしめるように膝を抱え目を閉じた。
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