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この人を、見よ。

プロテスタント教会でよく歌われた讃美歌に『まぶねのなかに』という歌があります。
カトリック教会で歌われているのかどうかは知りません。
由木康作詞、安部正義作曲。日本人による讃美歌です。
1番から4番までありますが、4番が印象に残ります。
「この人を見よ」という言葉を2回も使っているからです。

「この人を見よ」とは、ヨハネの福音書19章のはじめの方にある言葉で、新共同訳聖書では「見よ、この男だ」になります。
ユダヤの人々がイエスキリストをキリストと認めず、十字架にかけて殺そうとしている途中のシーンで、茨の冠を無理やりかぶせられ、紫の服を着せられてきたイエスを、皆の前に引っ張り出してピラト総督(ユダヤの人々を支配していたローマの総督)が叫ぶところです。
ラテン語では「エッケ・ホモ」と言うのだと習ってきましたが、カトリックにきてみて、「エクチェ・ホモ」が正しい発音らしいと初めて知りました。
ピラトはローマ人なので、確かにラテン語を話したのでしょう。

「見よ、この男だ」という言葉にはどのような気持ちが込められているか、本当のところはわかりません。
ただ、ピラトはイエスキリストの十字架刑には乗り気ではなかったはずです。
聖書の中で「この男にはなんの罪も見出せない」と悩んでいるから。
それでも群衆があまりにも十字架だと叫び続けるので、その場で手を洗い、「俺には関係ない!」と宣言し、「お前らが勝手に殺せばいい、俺にはその責任はない」とイエスキリストをユダヤの人々へ引き渡しました。
かくして旧約聖書の預言通り、イエスキリストは十字架で苦しみを受け、亡くなって葬られ、黄泉にくだり、足かけ三日の後に死者の中から復活したのでした。
大事なのはご復活なのですが、そこに至るまでの十字架の苦しみと死が、どうしても体験しなければならないことだったのです。

幼い頃から私は「この人を見よ」という言葉を聞いて育ちました。
『まぶねのなかに』を歌って育ちました。
いま、中年も後期になってきましたが、やはり「この人を見よ」という言葉が耳から離れないのです。
ふとした瞬間にメロディがよみがえり、頭の中で(この人を見よ…)と考え込むことがあったりします。
なぜこんなに考え込んでしまうのだろうと首を傾げるのですが、「この人を見よ」というみことばがいかに深い意味を持つのか、もっともっとわかれよ、と呼ばれているのかもしれません。

「見よ」という言葉は聖書にたくさん出てきて、若い頃に参加していた『メサイア』の合唱曲やソロの曲にも多く登場しました(英語でBehold)。
『メサイア』で「Behold」が出てきたら、「ここは『見よ!』だからな、よくよく心して歌え」と指導されたものでした。
一番厳しく指導された曲は「見よ、神の子羊(世の罪を取り除く神の子羊)」という重々しいコーラス曲だったことを思い起こします。
それくらい、「見よ」という言葉は重要なのかもしれない。
「見よ、神の子羊」も「この人を見よ」も、イエスキリストを見なさい、との宣言だから。
ラテン語の「エクチェ」もギリシャ語の「イドゥー」も英語の「ビホールド」も、みんなとても強い言葉なのだろうなと思いました。(ギリシャ語はいま調べました)

最近特に耳と頭に響くことの多い「見よ」という言葉、日々の祈りの中にしっかりと組み入れて、黙想していきたいと思います。