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ゆるしの秘跡、初めての

(ゆるしの秘跡についての覚書です。とても個人的で、本来ゆるしの秘跡のことをネットで書くのはふさわしくありません。少しぼやかして書きますので、意味不鮮明なところがあります。どうか読み流してください)


いよいよ今月終わりに迫ってきた堅信式。
今日は最後の準備会、ゆるしの秘跡の日でした。

昨年新緑の頃に改宗式をしていただいて以来、なかなかゆるしの秘跡を受けるという決意はできませんでした。
だから今日は初めての体験です。
ゆるしの秘跡、いわゆる「告解」は、プロテスタント教会には存在しないものでした。
洗礼を受けて40年近くになりますが、受けたことのないものは少しばかり抵抗がありました。
神父様が「ゆるし」を授けてくださる儀式のようですが、神様ではない人間である神父様がゆるす、ということが、正直よくわかっていませんでした。
この一年間たくさんの本を読んでゆるしの秘跡の勉強をしてみましたが、やはりどうやって何を言ったらいいのかわからず、勇気が出ませんでした。
堅信準備会の最後の日は全ての時間をゆるしの秘跡にあてられていて、普段の告解室とは違うオープンなホールでできる、そして時間的にもゆとりがあるとのことで、思い切って参加して参りました。

大きなホールの中にいくつかの仕切りが作られていて、待っている私たちからは中の様子はわからないようになっています。
それぞれの仕切りの中に、順に神父様たちが入っていかれます。
早くから並んでいた私はすぐに呼ばれ、指示された仕切りの中に入りました。
中にいらっしゃったのは宣教師の高齢の神父様でした。
高齢でいらっしゃいますが、とてもお元気なお方です。
完璧な日本語をお話しになりますが、実は少し不安がありました。
初めてのゆるしの秘跡は日本人の神父様の方が安心…と勝手に思っていたのです。
細かい言葉やニュアンス、空気感、そのような小さな事柄にこだわりがあったからです。

結果的に、それは勘違いでした。
私は自分自身の重い罪を必死で短くお伝えしました。
罪かどうかもわからずに、いえむしろ罪ではなく、相手の罪で傷つけられたのは私の方だという困った考えを心に抱きながら、それでも必死でお伝えしました。
要するに、結局のところ、私は自分の罪ではなく相手の犯した罪を言い立てようとしていたのです。
しかし神父様は私自身の罪をきちんと見抜いてくださいました。
私に必要な、適切な助言をくださったのです。
神父様には今まで見たこともないほどの強さと威厳がありました。
まさに「キリストの代理」でした。
無駄口も文句も出す隙はありません。
悔い改めの祈りを唱えている間、涙が溢れて溢れて大変でした。
そして、ゆるしのお祈りをしていただき、「ここを出たら主の祈りをゆっくり一回だけ唱えてください」とお言葉をいただいて、小さな聖堂でお祈りしてきました。
初めてのゆるしの秘跡があの神父様でよかったと、心からの納得と感謝を抱えて帰宅したのです。

今日のゆるしの秘跡で、私は腑に落ちました。
神様があの人のことを救われるかどうかは、私が憎んだり許さなかったりすることとは一切関係のないことなのです。
救いは一人ひとりの事柄。
私とあの人とは、救いという事柄においては別々なのです。
酷い目に遭ったからあの人を救わないで地獄に落としてくれと神様にお願いしても、神様は私だけの味方をしてくださるわけではありません。
私は今日、ようやく「あの人と私は関係がない」というステップを踏むことができました。
実はこれはとても大きなステップで、いつまでも、何十年も私は心の傷にこだわっていたので、まずはこの強烈なこだわりから解放される必要がありました。
「関係がないのだ」と腑に落ちることで、第一のステップに進むことができたのです。
私が許さなくても、あの人は救われる(かもしれない)。だって、私とは関係がないのだから。
それでいいのだ、それが正しいのだと思うことができるようになりました。

堅信式の前にきちんとゆるしの秘跡を受けることができて、本当に感謝しました。
とても恵みに満ちた時間となりました。
ほんの5分程度の時間でしたが、始まる前と終わった後では、心の置きどころが全く異なっています。
神様がお導きくださったのだと、心からありがたく思うばかりです。

病身で長時間の堅信式は少々自信がないですが、なんとか守られますようにと祈っています。
今日はそのために、良い準備ができました。