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櫻坂46「条件反射で泣けてくる」

思ったのは、この歌詞は当て書きではないよなということ。

10代から20代の年齢の女性が歌うにしては、違和感がある。

それは、歌詞がおかしい・不自然だとかそんなことが言いたいわけではない。

あくまで、歌い手である彼女たちが、彼女たちの視点から見たり感じたであろう世界とするには苦しいのではないか、という意味だ。

もちろん、アイドルが歌う作品として破綻していないし、十分に成立している。

とは言え、違和感は残る。

具体的には、口調、一人称・二人称、歌詞の内容などが挙げられるが、これらは若い女性というよりも、中年の男性にこそ似つかわしいものだろう。

そして、その中年男性というカテゴリーは、作詞者・秋元康にも当てはまる。

いったいこの歌詞の主観の持ち主は誰なのか、以下に見ていきたい。

         *

秋元は自身の作詞における基本的なスタンスについて述べている。
「すでにあるもの、持っているものを歌詞にしているのかもしれないです」2022年3月20日放送「関ジャム 完全燃SHOW」(テレビ朝日)

「すでにあるもの、持っているもの」とは、歌い手にすでに備わっているもの・歌い手が持っているものという意味であろう。それらを踏まえて歌詞を書いているということだ。

冒頭で「当て書き」と書いたのも、このような作詞方法を採用していることから、そう呼んで差し支えないと判断した。

そもそも「当て書き」とは、演劇において人へ脚本・役を「当て」て書くことだ。この場合、作品の中で主観を持つのは役であり、その脚本・役を「当て」られた人ではない。しかし、その脚本・役と人とに重なるものがあり、かつその重なりが書き手によって意図されたものであれば、その脚本は「当て書き」であると言えるだろう。

あらためて、この歌詞は「当て書き」と言えるのか。

アイドルの歌として不自然とは言えないという点からすれば ①『「当て書き」である』が、櫻坂46のような若い女性の外に、より適当な視点・主観の持ち主がいるという点からすると、②『なお「当て書き」ではあるものの、「当て書き」の枠に収まりきらない』、もしくは③『「当て書き」ではない』という3通りの解釈が可能だろう。

③『「当て書き」ではない』とすれば、彼女たちが歌うということが全く想定されずに歌詞が書かれたということになる。この作品がどういう経緯で作品として成ったのか、その詳細は分からないので、この可能性も排除はしない。

② 『なお「当て書き」ではあるものの、「当て書き」の枠に収まりきらない』だと、あまりに冗長なので ②を部分的には③『「当て書き」ではない』ものであるとし、今後は②・③をまとめて④『「当て書き」から外れる』と書く。(②と③をその程度は違うが、どちらも「当て書き」から外れている状態とみなすということ)

以上で見たように、この歌詞は①『「当て書き」である』、もしくは④『「当て書き」から外れる』である。

①『「当て書き」である』ならば、特にこれ以上何も言うことはなくなるので、以下は④『「当て書き」から外れる』を考える。

先に、櫻坂46よりもこの歌詞の主観として相応しいのは中年男性ではないかと書いたが、そうと限るには根拠として弱いので、それを『「櫻坂46」ではない人』と改めたい(中年男性がより相応しいとは変わらず思っている)。

さらに、その『「櫻坂46」ではない人』が秋元康ではない他の人であるならば、それは『「櫻坂46」ではない人』かつ『「秋元康」ではない人』と表現できる。

その『「櫻坂46」ではない人』かつ『「秋元康」ではない人』がこの歌詞の主観であるケースとして、次の2つの場合が考えられる。⑤「この歌詞にある出来事を実際に経験した実在する特定の人」がその人である場合、⑥ ⑤ではない場合(つまり『「その人」≠ 「櫻坂46」∩「秋元康」∩ ⑤』、∩は積集合)。
はなしが複雑になってしまうのだが、その人が複数人いることも考えられて、その場合は ⑤と⑥ の組み合わせになる。

特定の人とは言ったものの、それが誰であるかは分からない。

最後に、秋元康自身がこの歌詞の主観の持ち主である場合だ。作詞者自身が歌詞における主観であり、かつ誰が歌い手であるか想定されずに書かれたならば、やはりその歌詞は「当て書き」とは言えないだろう。

秋元が歌詞にあるような恋愛を実際に経験したのかどうかは分からない。だが、その可能性を否定する材料も今のところ見当たらない。

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次に、歌詞の一部を見ていきたい(以下の太字は歌詞からの引用)。

黄昏の坂の途中
日が暮れるにつれて、風景がその輪郭を失いつつある。そして、今あるのは「坂の途中」という不安定な場所である。

地平線へと誰かの背中が消えてくから
遠く離れた場所で、かつての恋人かもしれないが、判然とはしない誰かがいなくなる。何を失いつつあるのか、それも定かではないのだろうか。

不安を帯びた暗さがあり、終わりをも予感させる描写だ。

この歌は失恋の歌なのだが、より深刻なのは、その喪失が二重三重のものであることだ。

最初の喪失は、「手を繋いだり キスもしたし ケンカもしたし 無視だってした」恋人との別れ。

次は、「新しい恋も違う恋もいっぱいしたし頑張って来た」が「今さら気づいたって 後悔したって 後の祭り 十番祭り」。この過去を振り返っての「後悔」が二番目の喪失であり、それは「喪失の喪失」である。

さらに、「ピーコックで買い物して 浪花家でたい焼き食べて 同じコース辿っちゃうなんて切ないね」。これは二番目の喪失であるが、この「ピーコック」麻布十番店が閉店したのが2016年9月11日、「条件反射で泣けてくる」の楽曲リリースが2022年8月3日、とおよそ6年の隔たりがあり、この「後悔」自体もその時点からの回想であるということが分かる。つまりそれは「喪失の喪失の喪失」である。

「喪失の喪失の喪失」、永遠に続いていくかのような喪失の連なり。このような構造が、その深刻をさらに亢進させて行く。

「そこ曲がったら、櫻坂?」な、けやき坂通り

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