再び、「才能なし」とは言うけれど…
以前、TBSのバラエティー番組「プレバト‼︎」の人気企画「俳句の才能査定ランキング」内で評者の夏井いつき先生が下す「才能なし」評価は妥当なのか?という疑問を呈したことがありました。
前回は詳しく説明しませんでしたので、それではどうして「才能なし」ではないのか十分に伝わらないと思い、改めて以下にその理由を述べたいと思います。
まずは、
夏の朝あせって歯ブラシ鼻の中(風間トオル)
いくら焦っているからといって「そんなことある?」という気がしますが、本当だとしたら何より痛そう。しかし、そんな凡夫の小心などよそに、この人物の動作はいかにも大胆なものです。このセコくなさ、鷹揚さは得難いものではないでしょうか。もちろん滑稽味もありますが、そこに留まらない構えの大きさも感じられます。
次に、
夏の日の思い出にがしかき氷(長嶋一茂)
一見なんてことのない句なのですが、その意味するところが分かると驚かされます。かき氷を食べた詠み手は「にがし」と感じていますが、これは考えてみるとおかしなことです。なぜなら、かき氷を食べてその冷たさに頭が痛くなることはあっても、その味を苦いと感じることはないからです。ではなぜ、詠み手はそのような特異な感覚を得るのか。それは「思い出」に苛まれるからです。具体的に何があったのかは分かりませんが、味覚をも狂わせるその深い懊悩に戦慄すら覚えます。
そして、
春うらら大仏さんもるるるるる(小島瑠璃子)
この句に関しては、何が駄目なのか皆目見当がつきません。
以上の三句は以前にも引用したものですが、続いてそれ以降に放送されたものからも取り上げたいと思います。
これらの句は「才能なし」ではないのですが、その詩趣に比して不当に評価が低いと思われたものです。
稲妻やタートルネック子に着せる(犬山紙子)
稲光りを受け気温の低下に不安を覚えた母親が、我が子にタートルネックを着せるという内容です。
番組内でも指摘されていましたが、確かに一読してすぐに「タートルネック」が肌着であるとは伝わりにくい。しかし説明を聞けばすぐに了解できますし、むしろその少し高い襟のディテールがあるからこそ、母の子に対する細やかな愛情が表現できているのです。
またこの「タートルネック」は詠み手の実際の経験なしには出てこない言葉でもあります。現に本人に説明されるまで、それが肌着であることに、スタジオの誰も気づかなかったことからも推測されます。つまり借りてきたものではない、ほんとうに生きられた言葉であるということです。
そしてその問題点がややこしいのが
打ちまくる大谷生姜擦る私(皆藤愛子)
です。
この句は「金秋戦2022」(2022年10月13日放送)で発表されたものですが、お題「大谷翔平」の難しさもあり、参加者皆が作句に苦戦するタイトル戦となりました。
ちなみに一位に輝いたのはFUJIWARA藤本さんの句で
大きく振りかぶって秋爽の只中に
です。
「秋爽」というのがやや落ちつき過ぎたきらいもありますが、さすがだなと思わされます。
脱線しましたが、皆藤さんの句です。
打ちまくる大谷生姜擦る私
この句を添削したものが
今日も打つオオタニ私は生姜擦る
最下位の評価を受けたこの句ですが、その理由がお題「大谷翔平」と季語「生姜」のバランスの問題(1)と「打ちまくる大谷」がシーズンを通した時間なのか、その日・その試合の「大谷」なのか曖昧であること(2)だそうです。
まずは問題点の(2)『「打ちまくる大谷」の時間スケール(物さし)が曖昧(シーズンを通した時間なのか、その日・その試合の「大谷」なのか)であること』について考えてみたいと思います。
句に詠まれた情景は、
「私」は目の前の「生姜」を「擦」りつつ、テレビに映し出された「大谷」が「打ちまくる」様を見ている。
あるいはいったん映像から視線を外し、引き続き「生姜」を「擦」りながら、頭の中に「打ちまくる大谷」を思い浮かべている。
といったところでしょうか。
確認したいのは、この「打ちまくる大谷」は「生姜擦る私」に認識されているということです。
つまり「打ちまくる大谷」は、主観である「生姜擦る私」に認識された事象であり、それゆえ主観的な存在であると言えます。
とは言え「打ちまくる大谷」は、自身が自身の主観を持つ主体でもあるので、他者の主観に依らずとも存在し得る客観的な存在でもあります。
つまり「打ちまくる大谷」は、主観的な存在であり、客観的な存在でもあるのです。
さて問題点の(2)『「打ちまくる大谷」の時間スケールが曖昧であること』ですが、このような問題意識は「打ちまくる大谷」を客観的な存在であり、主観的な存在ではないとする理解から生まれるのだと思います。
「打ちまくる大谷」を客観的な存在であり、主観的な存在ではないとするからこそ、「打ちまくる大谷」と「生姜する私」の時間スケールは揃っていなければならない(2-A)、また「打ちまくる大谷」の時間スケールは曖昧であってはならない(2-B)という発想が生まれるのです。
※問題点(2)を(2-A)(2-B)の2つに分けました。
確かに、そのように理解した場合には齟齬が生じるのかもしれません。しかしこの句における「打ちまくる大谷」は主観的な存在でもあるので、このような批判は当たりません。
(2-A)『「打ちまくる大谷」と「生姜する私」の時間スケールは揃っていなければならない』ですが、認識している主体と認識されている対象の時間スケールは同じでなければならないということはありません。なぜなら認識する主体は自らの時間スケールと異なる時間スケールを持つ対象を認識することができるからです。
そして(2-B)『「打ちまくる大谷」の時間スケールは曖昧であってはならない』ですが、「打ちまくる大谷」の時間スケールは曖昧であっても構いません。なぜなら認識する主体は時間スケールが曖昧な対象も認識することができるからです。
リマインドする意味で、当該句を再掲します。
打ちまくる大谷生姜擦る私
詠み手の企みの深いところは、「私」の「生姜」を「擦る」という行為にあります。
「生姜」を「擦る」という行為は、手元や自らの肉体をコントロールすることへの集中や注意を必要とします。
集中・注意することで「私」の意識の行き届く範囲は狭く限定され、結果として集中・注意する対象でないものは「私」の意識から遠ざけられます。
この句においては、客観的な存在としての「打ちまくる大谷」がそれに当たります。
一方「生姜する私」の想念の中の「打ちまくる大谷」、つまり主観的な「打ちまくる大谷」はかえってその存在を大きくします。
このように句中に因果関係が無理なく収められているので、我々は「打ちまくる大谷」を主観的なものとして自然に了解することができます。
さらにこの句がアクロバティックなのは、「打ちまくる大谷」の多義的な読みを可能にしていることです。
先に「打ちまくる大谷」は「主観的な存在であり、客観的な存在でもある」と述べましたが、読み手がどう読むかに従って「打ちまくる大谷」は、その在り方を主観的なものにも客観的なものにも変化させます。
まるで騙し絵かのようにどう見るかによってその相貌を変えるのです。例えば『ルビンの壺』の「壺」と「2人の人物の横顔」がそうであるように。
しかも、主観的なものとして見た場合は、客観的なものとして見ることは難しく、またその逆も然りである点も「騙し絵」のアナロジーが当てはまります。
ここで再び問題点の(2)に戻るのですが、確かに「打ちまくる大谷」を客観的なものとして見た場合には違和感を覚えます。
ただしこの違和感も、「打ちまくる大谷」を主観的なものとして見るよう読み手を促すトリガー(引き金)としての役割を担っていると考えれば、句の中で十分に機能しているでしょう。
ではなぜ、夏井先生は「打ちまくる大谷」を客観的であり主観的ではないとするのか。それはやはり「写生」という言葉にとらわれているからではないでしょうか。
『俳句における「写生」とは何か?』という問いは私の手にあまるので深くは踏み込みませんが、例えば正岡子規はこう述べています。
「されば生は客観に重きを置く者にても無之候。」(「正岡子規『歌よみに与ふる書』岩波文庫」、「六(む)たび歌よみに与ふる書」より)。つまり子規は必ずしも客観的であることを絶対とは考えていなかったということです。
「写生」というと、主観を排し客観的に描写することを旨とするかのように見做されていますが、果たして本当にそうなのか改めて考える必要がありそうです。
一つ付け加えれば、添削の際に夏井先生がよく使っていた(いる?)「映像」という言葉も同じ発想から生まれたものだと思われます。
事物を客観的に描写したものが俳句であるのだから、それは「映像」として扱えるはずだということでしょう。
そうだとすれば、この「映像」もあまり適当な表現とは言えません。
たとえそのような意味・文脈で使われていないとしても、俳句を写真や絵画、もしくは映画などの「映像」作品と同様に扱うことはそもそも無理がありますし、たとえ扱えるとしても自ずから限界があります。
最後に問題点の(1)『お題「大谷翔平」と季語「生姜」のバランスの問題』ですが、『時代錯誤の「台所俳句」批判ですか、無粋ですね』と言えば十分です。
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