「娘に似てるから」
骨折して辞めるまで勤めていた会社の、変なおじさんの事をふわふわと思い出している。
スタッフ達の頂点に立ってた御局的な女性上司と散々なやり合いをして、喫煙所でメソっていた時、普段どうりに彼はひょいと顔を出して隣で煙草を吸い出した。
「私と喋ってると此処での立場が悪くなりますよ」と言ったが、特に気にして居なさそうだったのでそのままにした。「これ、娘」とスマホを見せるとこの世の人間とは思えないような超絶な美女が映っていて、しばしの絶句ののち「女優さんとかですか?」と陳腐な質問をした。モデルだよ、全然日本には居ないの。今はブラジルにいる、と彼は答えた。そもそも彼自身、こんな街外れの福祉施設でひっそりと事務仕事をしているには見えない風貌の人だった。毎日でかい外車で出勤し、まあまあの歳と聞いていたがジムでも通っているのだろう、筋肉質で健康的な身体付きをしていたし、明るく髪を染めて居た。
「昨日、娘と電話をした。夜の街で意気投合して一緒に飲んだ男が、次の日道端で誰かに殴られて死んでた、って。日本に居るとわからなくなる、こんなにも命が軽々しい現実のことを、って。」
何と答えれば良いのかよく分からなかった。確かにそういうのはあるかもしれないですね、と適当な返事をした。
「貴女の真面目さを知ってる、だから此処に居ない方がいいと僕は思う」と言われた。わたしには、わたしが辿ってきた理由があるんです、働き続ける理由があるんですよ、と煙草をもみ消す。
去り際に「娘に似てるんだよね」と言われた。「そんなとんでもない美人に重ねられたら困ります」と答えた。
変なおじさんだった。
彼の話の意図も目的も、いまだに分からない。
仕事の記憶はあまりにも抜け落ちているのに、こんな会話が何故、いま、こんなにも、ありありと思い出されるのだろう。
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