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単独行での初涸沢(残雪期) 中編

上高地のバスターミナルから出発地となる河童橋まで徒歩10分程度。林道と川沿いから選べるコースは、清涼感を求めて林道を選択。天然のマイナスイオンを全身に浴びて河童橋に辿り着くと、開けた視界の先には雄大な穂高連峰が突如として現れた。これからこの壮大な山々の圏谷に本当に辿り着けるのか俄かに信じ難いほどのスケール感だ。
余談ではあるが、この河童橋はかの有名な小説家である芥川龍之介が晩年に発表した名著『河童』で、上高地などの情景と共に描写されたことでも広く知られている。そうした過去の歴史的な偉人達が訪れたという場所に立ち会ったとき、時代を超えて積み重ねられた時間の尊さをつい感じてしまうのだ。人や建物は変わっていっても、自然は太古から変わらず存在し続けている。特に日本人は有限であるものやいつか廃れていく儚さを美しいと捉える傾向があるが、不変的である自然の在り方はやはり素晴らしい。人間もきっと無為自然であるべきなのだ。そんな思案に余る思いを胸に、記念すべき一歩を踏み込む。

ちなみに涸沢までは主に以下の登山ルートが基本の順路となる。

河童橋→明神→徳沢→横尾→本谷橋→涸沢

河童橋から明神まではコースタイムで約60分。綺麗に舗装された平坦な林道を軽快に進んでいく。この辺りはハイキングコースやキャンプ場としても人気で、登山以外の目的で訪れる人も少なくない。また早朝の冷え込みも心配していたほどでなく、晴天の影響で過ごしやすい気候だったのが幸いだ。顔を上げて木々や青空を眺めたり、足元で健気に咲くニリンソウやタラノメに目を向けたり、五感で上高地の魅力を存分に堪能。そんな風に自然との触れ合いに夢中になっていると、下山中の人々とすれ違い始める。登山ではある種のマナーでもあるすれ違い様の挨拶も街中であればありえない光景だ。都会で暮らしているとつい忘れてしまいがちな大切なことを、山は優しく気付かせてくれる。

予定よりも15分ほど早く明神エリアに到着し、体力は有り余っているため休憩を挟まずに次の目的地を目指すことに。少しずつ山道らしい様相となってきたが、依然として道のりはフラットなまま。豊かな景観を楽しみ、写真を撮りながら歩を進めるほどの余裕もまだ健在。そして徳沢までの道中、透き通るような梓川の清流に遭遇し、思わず目を奪われ暫く言葉を失ってしまった。まさに、この自然が織りなす神秘的な景観こそが、日本屈指の山岳景勝地と呼ばれる所以なのだろう。

そして順調にルートを歩み進め、徳沢に到着。ここは、涸沢や奥穂高岳以外にも蝶ヶ岳、常念岳、槍ヶ岳などへの登山基地となっている「徳沢ロッジ」やキャンプ場が併設されているエリアだ。他の登山者同様に休憩を挟み、自然からのエネルギーをチャージ。登山を開始してから初めてサックを下ろすと、バランスを崩して一瞬よろけるような体勢に。今回のサックの重量はおよそ12kg。決して重過ぎるわけではないはずだが、慣れない肩への重みが予想以上に負荷となっていたことが顕著に現れたらしい。しかし体力や精神面での不安は感じなかったため、事前のリサーチ通り昼過ぎでの涸沢到着を目標に設定。ちなみに徳沢園名物であるカレーには後ろ髪を引かれつつも、下山時に立ち寄ることを誓い、先を急ぐことに。

次の目的地は、登山道までのアプローチ最終地点となる横尾。立派な吊橋が目印となり、ハイキングやキャンプを目的とする人々はここをゴールとする場合もある。上高地を楽しむ人々すべての休息場だ。徳沢からのコースタイムは約60分ほど。急ぎ足にならぬようマイペースに進んでいくが、陽射しの照り返しや蓄積された負荷によって徐々に体力が消耗。たっぷり60分を使ってようやく辿り着いた頃には、肩で息をするほどの息切れ状態に。話には聞いていたが、やはり涸沢は登山道までのアプローチが長い。横尾までにしっかりと体力を温存しておくはずが、体感では既に限界がチラつく程の疲労感。やや先行き不安だが、まだメンタルは余裕アリ。胸中でなんとか己を鼓舞しながら、休憩を挟みいざ再出発。

想定通り横尾からのコースはいよいよ本格的な山道に。通常のコースが工事中だったため、やや遠回りとなる迂回路から次の目的地を目指す。険しさも増し、一気に登り道になるコースに比例するように足腰への負荷も加速。先ほどまでの下山者との挨拶や自然を楽しむ余裕も薄れていくなかで、必死に楽観思考へマインドコントロール。何故なら、まだ"登山"は始まったばかりなのだから。
新緑の木々に覆われた山道はヒンヤリと気温も低下し、登山には最適なコンディション。天候に恵まれた幸運を味方にさらに歩みを進める。体感でも標高の違いを感じられた頃からいよいよ道端に雪が現れ始める。雪道前に慣れておきたい思惑もあり、過去の山行では出番のなかったトレッキングポールをこの辺りで投入。おかげで驚くほど歩行が楽になり、フラフラになった体幹を正してようやく本谷橋へ。

この時点での標高は1780m。本来なら小川が流れ、雪がなければ高さ5mほどの小さな吊橋があるはずが、残雪期は写真の通り積雪で橋はかかっていない状態に。おかげで、こうした異なる地形のコントラストが生まれ、表情豊かな自然のあるべき姿を描き出してくれる。
そしてここからは本格的な雪道となるため、調達し立てのアイゼンを装着。ただし今回装備したアイゼンは軽アイゼンと呼ばれるスパイクシューズタイプ。いわゆる軽度な雪道などで使用されるもので、残雪期の涸沢登山なら正式なアイゼンを利用するのが適切だ。しかし、この状況下ではどうすることもできず、周りの登山者に比べ頼りない相棒へこれからの運命を託すことに。
加えて4時間近く歩き続けたことによる疲労がピーク手前まで達しており、心身ともに限界寸前。これからが本番であるというのに、果たして本当に辿り着けるのか。さらに体力面もさることながら、昨日観たニュースでの滑落という二文字が頭を散らつき、不安が蔓延。
必死に前向きな言葉を自らに投げかけ、決死の覚悟で歩みを進める。涸沢カールが見える場所までは、一切の気の緩みを許さぬ不安定な雪道なのだ。一歩足を踏み外せば奈落の底へと転がり落ちる急斜面でのトラバースは、アイゼンワークもままならぬ初心者にとっては至難の業。ピッケルを持たず挑んだ者であれば尚更だ。これまでの道のり以上に慎重に、そして冷静に。研ぎ澄まされた五感と身体を頼りに渡り切った後に見えた景色は、スキー場のゲレンデで見たことのあるそれとは全く異なる荒々しい白銀世界だった。

この一見緩やかに思える急登を延々進むと、今回の最終目的地となる涸沢カールに辿り着く。はるか彼方先に見える建物こそ、すべての岳人が憧れる「涸沢ヒュッテ」だ。しかし、涸沢は見えてからが長い。炎天下の陽を直射日光で受け止めながら、限界寸前の足を無理矢理押し進める。何度立ち止まったか覚えていないほど、ショートブレイクを挟みながら進み、いよいよ「涸沢ヒュッテ」が目前に。この時の原動力となったのは、もちろん全方位に広がる絶景のパノラマだ。苦しさの絶頂にいながらも、限りあるこの瞬間、そしてこのロケーションを楽しめない登山にきっと意味はない。今振り返ってみると、こうした葛藤の連続も日常でなかなか感じることのない感覚だったのかもしれない。

河童橋を出発してから実に7時間。長かった往路の終着点に遂に到達。達成感や感動に浸るよりも先に安堵からくる疲労に力尽きる身体。そして、かつて傾倒していたスポーツでも感じたことのあるような、無気力とは異なる独特の心地良さは筆舌に尽くし難い。周辺では登山者たちによる喜びの声が次々に聞こえてきて、共通の目的を持った者たちの共感が涸沢全体を包み込むようだった。そうした感慨に耽るのも束の間、テント泊である者は日が暮れる前に宿の設営に取り掛かるのが掟だ。受付でテント泊の申請を済ませてスコップをレンタル。雪上キャンプならではの雪壁や敷板作りを行い、明らかにアンダースペックである夏用テントを設置。この軟弱なルックスも、幾度となく旅を共にすると愛着が湧いてくるから不思議だ。

テントに限らず、今回はULを考慮したためにシェラフも夏用をセレクト。氷点下の夜を越すための命綱は日常使いする防寒着のみ。さすがに安易だったかと後悔し、一難去ってまた一難である状況に頭を悩ましつつも、登山中にほとんど行動食を摂らなかったことによる空腹が限界値に。「涸沢ヒュッテ」の食堂で定番となるおでんの盛り合わせと生ビールを注文。ともに1000円でありながら、この場所で頂ける喜びと貴重な物資による料理に感謝しながら実食。語彙力を失った月並みな表現しか出てこないが、何故山の上ではどんな食べ物も美味しいのか。貧しい時に食べる吉野家が美味であるように、食の有り難みとは相対的であることを改めて実感した瞬間だった。

空腹が満たされ、美景を望みながら喫煙所での至福な一服も堪能。涸沢登山を決行して間違いがなかったことを再確認し、夕暮れまで周辺を散策。
テントや山小屋、食堂など登山を終えた人々が思い思いに過ごしていく様は、ただ眺めているだけでも幸せだ。緊張と緩和、あるいは苦行の先に待ち構える幸福は、いつだって人に生きる価値を与えてくれる。大いなる危険を伴う山に、人々が魅了され続ける由縁はきっとそんなところにもあるのだろう。
そして慣れないGoProでの撮影をひとしきり終えたところで、あっという間に日が沈み始める。夜明け前の星空やモルゲンロートを目撃するためにもこの日は早めの就寝を予定。夕暮れと共に急速的に気温が下がり続ける涸沢での夜を無事に過ごせるのか。一抹の不安が拭い切れないが、ひとまずは疲労困憊の身体がきっと快眠へと導いてくれるはず。目が覚めたらどんな世界が待っているのか。センチメンタルジャーニーな登山紀行はいよいよ最終章に。To be continued.

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