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人に造られたヒトについて

 諸器官ごとに分解された人体を想像するとき、私は血潮滴る肉の断片よりも、機械部品のようなものを連想してしまう。解剖学の知見が乏しいのもあるけれど、人間の身体に血肉が備わっているという実感もまた、私には乏しい。

 幼少期に特別なきっかけがあったようには思われない。田舎育ちなこともあり、幼少期は外で遊び回り、生傷の絶えない日々を送っていた。臆病で、痛みにも幾分か過敏なほうであったから、よく泣く子供であった。(猫を除く)動物や虫が苦手で、どちらかというと花や草木の方が好きだった。同世代の都会育ちの人々と比較すれば、自然や動植物といった生命に触れる体験には恵まれていたと思う。

 ならば機械などの無機物に対してはどうであろうか。父が木彫りの職人であったから、一般家庭にはない工具や刃物類に囲まれていた点は特殊だろう。しかし、現在に至るまで、機械一般に対する特別な執着を私は持たない。

 人の死で最初に記憶にあるのは父方の祖父の死だ。鼻の穴に綿を詰められた祖父の顔が、何だか可笑しかったことと、別れ際に触れた掌が、驚くほどに冷たかったことを覚えている。それから父を含め、幾人もの死体の頬や手に触れる機会もあったが、肌の温かい死者は一人もいなかった。

 リルケは「昔は、人々は自らの死を、あたかも果實がその核を持つやうに、自らの中に持つてゐることを知つてゐたものだつた—或はそれを豫覺してゐたものだつた(ライナー・マリア・リルケ「『マルテ・ロオリッツ・ブリッゲの手記』から」堀辰雄訳、青空文庫)」と書いているけれども、幼少期に立ち会った肉親の死は、突如として私の目の前に現れた。当時の私にとって、それは荘厳なものというよりは、不可解で不条理な現象だった。大人になった現在ですら、十分に理解しているとはいえないし、感情的にも納得してはいない。

 メアリ・シェリー『フランケンシュタイン』の主人公であるヴィクター・フランケンシュタインもまた、人の死というものを素直に受け止められない青年だったのではないか。

 ヴィクターは数多ある自然科学の分野の中で、なぜ「生命の根源」の研究に没頭したのか。ケネス・ブラナーがメガホンを取った九四年のリメイク版映画では、母親の死を契機としてヴィクターが医学を志すプロットを採用している。個人的な感情に引きずられている感は否めないけれども、私もこの解釈の方向性には同意したい。

 原作の話に立ち戻ると、ヴィクターが怪物を生み出すことになるインゴルシュタットの大学へ留学する直前、彼は猩紅熱で母親を亡くしている。「母は亡くなった、でもわたしたちにはまだ果たすべき義務がある(メアリ・シェリー『フランケンシュタイン』森下弓子訳、創元推理文庫、57ページ)」という決意を胸に彼は旅立った。そこで尊敬することのできる恩師と邂逅し、彼は熱心に学問に打ち込むことになる。

 ヴィクター・フランケンシュタインの大望は、やがて生命を創造する技術として身を結び、彼は人間の創造に着手する。『フランケンシュタイン』には「あるいは現代のプロメテウス」という副題がついているが、ヴィクターは神ではない。人間だ。彼の被造物も人間の死体を材料に作られた。故に、フランケンシュタインの怪物の心身も、どうしようもないほど人間の元型を留めている。醜い容貌で生み出されたがため被ることとなった受難や苦悩も、造物主に対する非難や抗議の声も、残忍な形でなされる復讐も、あまりに人間的だ。

 この物語が悲劇的なものとなる要因として、フランケンシュタインの怪物に知性が備わっていた点を真っ先に挙げることができる。私はここに造物主もまた、どうしようもないほど人間であったことを付け加えたい。「われわれは未完成の、中途半端な生き物です(前掲書、37ページ)」と冒頭でヴィクターは語っているが、彼は優れた知性と行動力を備えているにもかかわらず、惨憺たる自身の運命を嘆く被造物に対して、一時は同情の念すら抱いてしまうほどに「中途半端な生き物」だった。彼は同時代の人間が持つ倫理・道徳のような軛を引きちぎったマッドサイエンティストであると同時に、友人や家族、隣人、恋人を愛する一人の人間だった。自身の作り上げてしまった存在を恐れつつ、彼は人間に相対する時と同様の態度で被造物の話に耳を傾けてしまう。人間であるヴィクターの慟哭や祈りは、たとえどのような状況であっても、自身の造物主には決して届かないというのに。

 現実の科学者は、ヴィクターほど人間的ではない。フランシス・ラーソン『首切りの歴史』には、人体標本の素材を収集するため、北米やオーストラリアの先住民族の墓地を掘り返した黎明期の人類学者達や、生来的犯罪人説を提唱し、犯罪者の身体的な特徴の統計を収集したチェーザレ・ロンブローゾといった人物が紹介されている。彼らに共通しているのは、身体的な特徴によって、人間の優劣や精神の傾向を測定しようとしたことである。彼らは研究対象となる先住民を、自分たちと同様に知性を備えた存在と捉えていなかった。むしろ、区別するための科学的な根拠を、死体や身体の断片に求めたといってもよい。彼らは実在した人間だ。周囲の人間を愛し、善良な市民として生活を送っていたものが大半だろう。しかし、ヴィクターのような意味では「中途半端な生き物」ではなかった。ある時代、ある地点において彼らは上位に立つ人間であり、下位にいるとみなした人間達を研究の対象とした。果たして対話の意志があっただろうか。現代に及んでなお、ヨーロッパの博物館から先住民族の末裔達に、頭骨標本が返還されている状況を見るに、大いに疑問だ。

 ヴィクターと彼の被造物はたしかに決裂した。しかし、それは対話の結果である。慚愧の念に苛まれながらも、彼らは憎み合う道を選択した。二人の復讐と悲劇に彩られた旅程は、人間的な感情に突き動かされたものではなかったか。故に、彼らは人として死ぬことができたのだと私は信じたい。

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