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『未来へ繋ぐ災害対策』出版記念シンポジウム報告 その6

昨年末に刊行された『未来へ繋ぐ災害対策』の出版記念シンポジウムが12月26日に行われました。シンポジウムでは、工藤尚悟先生(国際教養大学)、三上直之先生(北海道大学)、武藤香織先生(東京大学医科学研究所)、矢守克也先生(京都大学防災研究所)から書評コメントをいただき、執筆者がリプライを行い、最後に全体で総合討論を行いました。

シンポジウムでの議論の様子を6回の記事に分けてお伝えいたします(最終回)。

総合討論1:専門家の立ち位置の難しさ

――矢守先生、ありがとうございました。では、執筆者からの再度のリプライということで、今おそらく大きく三つの論点があげられたと思います。1点目は、専門家の立ち位置やモードの切り替えについて、2点目は現状を打破するための突破口や糸口について、3点目は命を守ることとよく生きるということのトレードオフについてです。まず専門家の立ち位置、モードの切り替えについて、もし高原先生からコメントがあれば追加でいただければと思いましたが、いかがでしょうか。

高原:工藤先生がおっしゃった、内側の人たちから「解像度の高い言葉で言ってくれてありがとう」と言われたというのは、やっぱり本当にそうだなと思っています。だから、言葉の純度を上げるとか、磨くとか、あるいは抽象度をいい感じにするというのは、どんな分野であっても専門家のある種の必須の特技として求められているのかなと思っていました。ただ、専門家だけが言葉を洗練させたり仕上げるというだけではおそらくできなくて、いろいろなところからいろいろな仕方で対話の言葉というのがだんだん集まってきて、絡まってくるのかなというように想像しています。そういう対話の言葉が生まれてくる回路というか、ルートというのか、水脈というのか、そういうものってどんなものがあるのだろうか。それに対して専門家は自分の得意な方法以外にどんな聞き方とか、受け止め方というのができるのかということを考えていたところでした。なんのお答えにもなっていないのですが。

――他にこの点について、先ほど専門家の不確実性について発言されていた藤原先生から追加のコメントをいただければと思いましたが、いかがでしょうか。

藤原:専門家の持つ認識論的な不確実さみたいなものが社会にどの程度受け入れられるものなのかというのは、いま一番私も課題として考えているところです。受け入れてもらえなければ、専門家も本当に難しい社会的な問題に関わることができなくなってしまうのではないのかと感じています。というのも、12年前の東日本大震災の後に、社会に出て、自分の考え方をしっかりと述べる地震学、地球科学の専門家は減っています。それは、やはり何かをしゃべるということの社会的な影響とか、それが個人レベルにもたらす不利益とか、そういったこともいろいろあって、行政のお膳立てのもとにいろいろな段取りがついた発言のみが社会の中に出ていっているというのが現状なんじゃないのかなと思います。こういう状況が続くと、社会の健全性というか、それをどんどん失わせて、短期的にはいろいろなものが回る面で利益もあるのかわからないですけども、長期的に見たときの大きな不利益をこうむる社会になっているのではないかという気がするんです。専門家と社会とのあり方で、認識論的な不確実さというようなものを専門家が抱えていたら、専門家にはあまり価値がないというような判断をする社会ではなくて、その部分を共有して一緒に考えられる場をいかにつくるか。それは理想論なのかわからないですけども、それがなんとかできないのか。そこを一つの希望として持ちたいなというように感じています。

――藤原先生、ありがとうございました。ここで秋光先生からチャットで追加のコメントをいただきましたので、紹介いたします。

「専門性が高まるほど『簡単に説明』することが難しいですし、不確実性も高まります。しかし、このことを非専門家に伝えることは非常に大きなエネルギーを要します。このエネルギーを節約するためにも、社会に迎合しがちかもしれません。現在は『わかりやすく説明できることが一流』という雰囲気があると思います。わかりやすく説明できないと研究費を獲得できません。」

総合討論2:巻き込まれることが突破口・糸口になるのか

――続いて三上先生から、巻き込まれるということが突破口や糸口になるのではないかというご指摘をいただきましたけども、この点について寺本先生からご発言をいただければと思いますが、いかがでしょうか。

寺本:たとえば私は、今回本書のプロジェクトに参加することで災害のことを深く考えはじめたところなんですけれども、今日また皆さんとお話しさせていただくという状況に巻き込まれたおかげで、引き続きこの問題について考えなければならないという、使命感とまではいかないですけど、責任感のようなものを感じています。武藤先生も倫理の専門家ではないとおっしゃっていましたが、おそらく現場では倫理的な問題を考える必要が出てきて、自分があまりやったことがないようなことを、やらなければならなかったりするわけですよね。巻き込まれることで、新しいことをする糸口になる。先ほど質問にあった、倫理的な基準とか介入みたいなものはありうるのかということですけど、現場にいる武藤先生や仲間の皆さんがそういったことをされていたんじゃないかと思うんです。巻き込まれたからこそ、何かしなければならないと思い、新しい取り組みをする糸口になったのではないでしょうか。

あとは、もう一つ、巻き込まれることと関連して言えば、友だちを呼んでくる、友達を巻き込むというのが重要かなと思います。つまり、自分は元々はこんなことをやってこなかったんだけど、やらざるをえなくなった。自分の知り合いにできそうな人がいる。そういう助けてくれる人を誰か連れてこよう、というのが協働を盛り上げることにつながるのではないかと思います。

――ありがとうございます。巻き込んだほうの立場と申しますか、松岡先生からもしコメントをいただければと思いましたが、いかがでしょうか。

松岡:私自身は専門家・科学者・学者のあり方というのは、多様なあり方でよいと思っています。純粋に好奇心に基づき、キュリオシティ・ドリブン(curiosity driven)で科学をやるという方も非常に貴重ですし、科学を社会の中で有効に使っていくという社会課題にチャレンジをするという科学のあり方も重要だと思っています。大事なのは、それぞれの個性を活かして、ディビジョン・オブ・レイバー(分業:division of labor)をうまくすることだと思います。ディビジョン・オブ・レイバーというのは、アダム・スミスの国富論でよく議論しますけども、協業があっての分業なので、分業だけでは社会はうまく回らないのです。協業を踏まえた分業をしっかり考える必要があります。

アカデミズム、研究者、専門家の中で、境界知作業者としてやっていくような人もいれば、好奇心のみで突っ走っていく方もいるという多様性を、日本の今の科学・学術の世界はうまく許容できていない。しかし、そうした多様性を認めていくことが重要です。そのうえで、それぞれの専門家が他者を理解していく、つまり「他者の靴を履く」というエンパシー能力を身につけていくことができれば、協業に基づく分業ができるし、それは専門家や学者だけではなくて、社会そのものがそういうエンパシー能力を身につけていく必要があると思います。豊かな民主主義社会は、さまざまなところで、ミクロであれ、マクロであれ、そういうことがおこなわれている。協業に基づく分業によって豊かな民主主義社会が形成されることを理解することが重要です。しかし残念ながら、お互いをしっかり理解するエンパシー能力が、今の日本の学術界では決定的に欠けているように思います。そのため、境界知作業者になるとなんとなくアカデミズムからこぼれてしまったような扱いを受ける日本の学界状況を、なんとかしたいなと思います。その際、先ほどの寺本さんや工藤さんが言及された「巻き込まれる」と「巻き込む」の関係で申し上げると、「巻き込まれる」ことの重要性だけでなく、「巻き込む」役割を果たす境界知作業者、すなわち科学と政治と社会の協働による「対話の場」=「学びの場」を創るプロデューサーを真剣に育成していくことも重要ではないかと考えています。

総合討論3:弱い立場にいる人といかに対話すべきか

――では続いて、武藤先生、矢守先生からもいただいた、命を守ることと生きることをおろそかにしないことのトレードオフの問題について、感染症災害を扱った第3章をご執筆いただいた寿楽先生からもコメントをいただければと思ったのですが、いかがでしょうか。

寿楽:難しいのは、私の知り合いで、スコット・ノールズ(Scott Knowles)という科学史のアメリカ人の先生がいます。ハリケーン・カトリーナとか3.11とか、災害の研究をずっとやっているのですが、彼がスロー・ディザスター(slow disaster)という、「緩慢な災害」というんでしょうか、そういう考え方を議論しています。そして、何月何日に発生しましたと言えるような目に見えてわかる災害が、すでに生じていたスロー・ディザスターにかぶさって起きると、スロー・ディザスターの一番被害の厳しいところをより露わにしてしまうといった議論をしています。彼は、貧困というのは最も遅くて最もひどいスロー・ディザスターであるみたいなことを言っています。災害が最初に起こった段階で、すでにスロー・ディザスターみたいなもので痛めつけられている人がいるわけです。あるいは、もうちょっと突発的に生じる自然災害のようなものでも、ある災害から十分回復しないままに次の災害がやってきて、これもまた弱い立場にいる人が一番深刻な被害を受けてしまう。そういう問題をどう考えるかというのは、協働とか対話とかを考えるときには非常に重たいところだなと思います。

先ほど矢守先生から、アガンベンのゾーエーとビオスの話がありましたが、すでにゾーエーの水準で生き死にを考えなきゃいけないくらいに追い込まれている人にとっては、対話して、より良いビオスを目指すにはどうしたらいいかを決めましょうみたいな議論は笑止千万というか、その前にまずちゃんと生きられるようにしてくれって、議論が当然そこへ引き戻されてしまうんです。そこに、さらに今の不確実性の話で、これをみんなで引き受けて向き合っていこうといっても――原子力とかでよく見ますけども、今更、何を言い出すんだよと。そこはお前たちがちゃんとやってくれるという話だから、こういう技術なり、施設なり、受け入れてきたのであって、専門家にもわからないことがあるので一緒に考えましょうとか、その議論に従って決めたいとかって言って、専門家が不確実性のところを、確実なことを言って手放そうとすると、それは後になって約束を違えるような話だと受け止められて、非常に激しい倫理的な反発を食らうみたいなことってあると思うんです。

先ほど秋光先生のコメントにあった研究費の話とかもまんざらでもないと思いますが、こういうところがソーシャル・コンパクトというか、こういうことはこうやって済ますことになっている。それが正統であって、そこから外れるのは規範に反するのでよくないみたいなものが非常に強いように思います。他方で、スロー・ディザスターが進行していろいろな部分を弱くしているというのは、こういう条件の中で今われわれの話しているようなことを議論しなきゃいけないというのが非常につらいなというところです。悲観的なことを言う係になっていますので、すみませんが、そういうことでよろしくお願いします。

寺本:バランスをとって、少しポジティブな話もしたいと思います。ビオスというかたちで生きている人たちが、ゾーエーというかたちでしか生きられない人たちに配慮することが、善いあり方であり、本当の意味でのビオス的なあり方だと思います。それは正義を実現するという生き方と言い換えることができるかもしれません。正義という考え方や態度が、ビオスの中にもともと入っていると私は思います。たとえば、感染症の拡大のせいで、友だちが遠くから来ても会えないといったときに、オンラインでもいいし、距離をとってもいいから、仲良く会話はするという、ちょうど中間の方法を考えることもできますが、ビオスを生きる可能性のある人たちにこそそうした適切なあり方を考え、率先して実践する責任があると思います。もちろん、ここでは抽象的であいまいな言い方しかできませんし、それを現実の場面で具体的に行動に移すことはとても難しいでしょうが、二項対立は二項対立として受け入れながらも、その一方で、できるだけ正しいあり方を追求し、実行するということは、ビオスを生きることのできる余裕のある人たちの役割だと言うことはできそうです

おわりに

――ありがとうございました。それでは、時間的におそらく最後の発言の機会になってしまいますが、コメンテーターの先生方から言い足りなかったことなどがありましたら、ご発言いただければと思います。工藤先生からよろしくお願いいたします。

工藤:今日私、この時間の中での一番のテイクアウェイは、境界知作業者が大きく登場する余地が生じる幅を社会の中にどうつくるのかという寿楽先生のお話だったかなと思いました。これはたぶん学術の世界でも、これまで専門性を深めた者が学位を得るのだというところから、そもそも大学院の教育からそういうふうになってきた。境界知作業者に必要とされるスキルとかコンピテンスみたいなものをどうやって大学の中で醸成していくのか。また、社会の中で専門家として活動している人たちが、とくに認識論的な不確実性をつまびらかにしながら社会と対話するような環境をどのようにつくっていけるのかそのとき、専門家はどこに立っているのか。今日お話をひととおり皆さんから伺って、非常に知的な刺激を受けた一番のポイントでした。今日はありがとうございました。

――工藤先生、ありがとうございました。では続きまして三上先生、よろしくお願いいたします。

三上:皆さん、ありがとうございました。いま工藤先生のお話にもありましたけども、すごく刺激に富んだ、有意義なディスカッションに参加させていただいて、本当にありがとうございました。充実した議論だったなと思います。司会の進行が素晴らしく、すごくいい形でコーディネートしていただいたのが非常に大きかったと思います。

最初に工藤先生から、ファシリテーターに何が求められるかファシリテーターに必要なスキルとか態度はどういうものかという投げかけがありました。私も市民会議の熟議の場などで、自分自身がファシリテーターを務めたり、ファシリテーターの人たちと協働してその場をつくったりということを普段からやっていますので、この問いについて考えていたのですが、まさに今日のこの研究会の司会進行の中に、大事なことがたくさん含まれていたのではないかということを感じています。ファシリテーターに必要なスキルや態度としては、第一に、話の内容に対する深い理解、これがまず必須になると思うのですが、それと同時に、参加している人に寄り添いながら、共感を持って聞くという姿勢も大事です。一方で、大事なところでは、的確な言葉遣い、しかも平易な言葉遣いで交通整理をしていくこともファシリテーターの大事な役割です。今日の司会進行を拝見しながら、こうした大事な役割を忠実に果たされていると思いました。

先ほど寿楽さんが、自分は悲観的なことを言う係だと言われていましたが、同じ科学技術論や社会学の研究者として、私からはちょっとポジティブなことを申し上げると、今日のこの書評会自体が、この本のテーマとされている対話の場とか学びの場ということの大切さや可能性を感じさせていただける、そういう2時間半だったと思います。どうもありがとうございました。

――三上先生、本当にありがとうございました。大変恐縮です。続きまして武藤先生、よろしくお願いいたします。

武藤:今日お集まりの先生方、皆さん共同作業をされていた方もいると思うのですが、私のように外からやってきた方から見ても、すごく参画しやすい議論のファシリテートをしていただきまして、ありがとうございました。それから、本当はもっと議論をしたかった点として、専門家の間での断絶における対話の可能性をどうするかというのがあります。地震の分野がそういう状況に置かれているということを先ほどお話が出てきたと思います。感染症も今ちょっとそうなりつつあります。そういう中で、たぶん境界知作業者的な人は専門家グループの中にも必要なのかどうなのかなということを考えまして。その点を課題としながら、また明日からのコロナ対策に励みたいと思います。どうもありがとうございます。

――武藤先生、ありがとうございました。矢守先生、よろしくお願いいたします。

矢守:ありがとうございました。私も再び、武藤先生同様、執筆のためにこれまで議論を重ねられてこられた皆さまとは違って、この前の打ち合わせのときを除くと初めて議論に加えていただいたのですが、あたたかく迎えていただいて、非常にありがたく思っております。

たくさんお返ししたいことはあるのですが、先ほど寿楽先生が「スロー」というキーワードでおっしゃったことについて申し上げたいと思います。コロナに関して「境界なき災害」(『自然災害科学』第39 巻第 2 号)という論文を、コロナ感染症が広がりはじめた1年後くらいに書いたことがあります。境界(バウンダリー)は三つあるのですが、そのうちの一つが時間、もう一つが空間、最後が役割になります。

時間に関しては寿楽先生がおっしゃっていただいたとおりです。趣旨は、コロナという新しいカタストロフが狭い意味での災害研究に突きつけたのは、これまでの災害研究が自明にしてきた三つの境界がどれも雲消霧散してしまうようなディザスターがあるんだという、そういう趣旨の拙稿でした。たとえば災害マネジメントモデルなどといって、準備があって、対応があって、復旧があって、復興があってというのは、もしかしたら時代遅れになりつつあるのかもしれない。あるいはスローに、いつの間にか始まっていて、いつの間にか癒えていたりするわけですから、そもそもそういうフェーズ分けということ自身があまり意味を持たないようなカタストロフもこれから相手にしていかないといけないと。

それから、災害研究はどれもこれもとにかくゾーンという言葉に象徴されるエリアとか、危険ゾーンとか、それから津波なんとかエリアとか、とにかく空間を分けることでマネジメントしようというのが基本的なスタンスとしてありました。コロナに関して、あるいはある種の感染症に対しては、最初のうちこそ危ないゾーンと危なくないゾーンを分けるということで対応しようとしてきましたけれども(今でも水際対策という言葉が使われていますけれども)、誰しも感じていることは、そういうゾーニングというのはきわめて難しくて、究極的にはできないという、そういう教訓だったと思います。

最後の役割については、これも今日何度も議論に出てきたように、コロナ禍が明るみにしたことの一つは、コロナの専門家は世の中にいない、そのことに尽きると思います。各種分業されたところにいっぱい専門家はいらっしゃるんですけれども、コロナ(禍)の専門家はいないということが、世の中に衆目一致するところとなって、究極的には地震についても豪雨災害についても、これまでも該当してきたことですが、それがコロナ禍によって明確な形で突きつけられたというように感じていて、寿楽先生からスローというコンセプトをいち早く提起されていた先生がいらっしゃると聞いて、大変そのことにも刺激を受け、勉強になりました。以上です。ありがとうございました。

――矢守先生、ありがとうございました。本日コメンテーターを務めていただいた4先生、本当にありがとうございました。最後に、松岡先生から閉会のお言葉をいただきたいと思います。よろしくお願いいたします。

松岡:今日は工藤先生、三上先生、武藤先生、矢守先生、誠にありがとうございました。執筆者の方々、秋光先生、藤原先生、高原先生、寺本先生、寿楽先生もありがとうございました。

いろいろな論点があって、当然ながら今日の2時間半で全ての議論ができるわけではありません。とくに境界知作業者については、議論をもっとしないといけないと感じています。矢守先生もおっしゃったように、境界知作業者のコアコンピテンスとして、エンパシー能力だけでよいのかという議論は当然あると思います。また、寿楽さんや工藤さんが提起された境界知作業者が活躍できる空間をどのように拡大していくのかも、残された大きな論点です。ただ、ご存じの方も多いと思いますが、今の科学技術・イノベーション計画では、総合知がこれからの日本のイノベーションを起こしていくときに非常に重要だと言っています。科学技術の知識だけではなく、人文社会の知識も含めた総合的な知識、この総合知には、地域知、ローカルナレッジも含めた実践知とか、いろいろなものを含めた、まさに総合知を言っています。

今年、何回か科学技術振興機構(JST)の関係で、この総合知の議論に参加しました。統合知のようなものが必要だし、それがないと日本のイノベーションが進まないという共通認識は、今の政府・官僚のレベルでも形成されているとことを私自身は非常に強く感じています。この総合知の議論は、境界知というものとすごく近いところにあります。しかし、一方で、当然のことですけれども、科学が進む、学問が進むということは、細分化、分断化していく、あるいはピースミールになっていくメカニズムが働きます。ただ、科学が進めば進むほど、どうやって総合していくのか、あるいは分断化・細分化されたところをどうやって繋いでいくのかという境界知の役割も同時に増してくるという関係なんだろうと思います。その両方のメカニズムをどうやってさまざまな形、ボトムアップも含めてうまくやり、協業に基づく分業を創っていくのかが、科学技術のあり方、大学のあり方、アカデミズムのあり方、あるいは社会のあり方を決めていくと思います。両方のメカニズムをうまく調整(alignment)をしていくという社会的能力が、今の日本社会ではうまく発揮できていないことが問題です。その結果が「失われた30年」ということになっているし、災害対策をとっても、いろいろな形の工夫はされるものの、大きなイノベーションが起きるというところまではいけていないんだろうと思います。

当然ながら、話をし、詰めていき、工夫をし、実践をしていくべき課題はたくさんありますが、今日はお忙しいところ、皆さん集まっていただき、大変よい議論ができたと思います。しかし、こうした議論は一過性のもので終わってしまっては、思考も実践も深まっていかないので、ぜひこれを機会にいろいろな分野で、普段付き合わないような専門家の方々も含めて、今後もこうした議論の「場」づくりをおこなっていきたいと思います。

「対話の場」=「学びの場」の中で専門家自身、学者自身が変わっていく。また、行政の政策担当者、政治家も含めて変わっていく。さらに、市民・住民も変わっていく、そういうことをどういう形で続けていけるのか、つくっていけるのかが大きな課題です。今日参加された皆さんは、同じことを考えていることがわかり、われわれは孤独ではなく、さまざまな分野で多くの仲間がいる、同志がいることがよくわかりました。最初に言いましたけども、志を同じくするというのは結論を同じくする必要はまったくないと私は思っています。むしろ、どのように物事を考えたたり、どのようにプロセスをつくっていくのかが重要です。そこのところで想いが同じになれば、それは志を同じくするということになる。こうした意味での志を同じくする人々(同志)をうまく繋ぎ、ネットワークにし、拡大再生産するようなことを考え、実践していきたいと思っています。

これからも、さまざまな形で皆さんと議論をさせていただきたいと思います。ぜひよろしくお願いします。今日はどうもありがとうございました。

(2022年12月26日収録。今回のシンポジウムのダイジェスト版が『書斎の窓』5・6月号に掲載予定です)

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