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政治史の書き方,読み方,使い方 vol.2 ――『日本政治史講義』の場合 【中】


◆教科書の新しいあり方を示す

瀧井 私も今まで出てきた感想と重なり合いますが,この『日本政治史講義』は,視覚とかビジュアルの面で工夫がされていて,メリハリと言いますか,対談的な要素も取り入れられていて,教科書の新しいあり方を積極的に示されようとしたものだと思いました。とくに,対談の部分は読ませる内容で,面白かったです。

 あと,やはり現代史という部分は,おそらく今の若い人とかも飛びついてくるのではないかと思います。若い人も,田中角栄,竹下登,中曽根康弘,小泉純一郎といった,ちょっと名前を聞いたことがある人が出てきたら,彼らがこういうことを考えていたんだと思って,そういうところから関心を持つのではないかと思いました。

 実際に,自分の職場で若い人たちとやっている自主ゼミみたいなところで,この『日本政治史講義』を読んでみたんです。そこに参加している若い人たちの専門は,政治史の人もいますけど,文学とか思想史とか,政治史以外の人が多いのですが,そういう人たちが読んでも,「小泉さんってこんなことを考えていたんだ」といった意見が出てきました。そのほか,とくに安倍晋三については,「安倍さんって右翼だよね」というイメージだけでみんな考えていたのが,いやそうではなくて,安倍はリアリスティックな観点から保守的なナショナリズムと関係を持ちつつも,むしろそれを封じ込めていたと書かれていて,非常に政治学の分析の面白さやイメージを,みんな勉強したと思います。このように,『日本政治史講義』は現代的な観点から歴史をとらえるというスタイルの教科書だったと理解しました。それに比べれば,私たちの『日本政治史』のほうはどちらかと言うと歴史というところから出発して現代につなげていこうという観点が勝っていた本だったなと思います。

 あと,一つ気になっていることがあって,政治史というのは他の国にもあるのかということです。通常,歴史学というのは政治史として成立しています。歴史学=政治史で,いわゆる近代史学史の流れの中では,そういう政治史偏重の歴史学をあらためましょうという中で,いろいろな構造史だとか,社会史,日常史,女性史だとかが派生してきました。たとえばドイツの歴史学を見ていて,王道としては歴史学=政治史という線があるのだと思います。ドイツ語で政治史というのは,たぶんあるとは思いますが,おそらくこなれた言葉としてはないと思いますし,他の国でも似たような状況なのかなと思います。

 政治史が独立して存在していることは,もしかしたら日本の特殊性なのかもしれません。政治史が大学の講義科目の中で厳然としてある。そういう中で政治史の存在理由をどういうふうに考えるのかが,今後,考えてみる価値のある課題ではないかなと思いました。

 そしてもう一つ思っているのは,ジェンダーの観点がないことです。私たちの本も含めてですが,書いている人が全員男性です。村井さんががんばってやってくれたけれども,ジェンダー・バランスがいろいろと言われている中で,その要素が二つとも希薄なのではないかと思います。

牧原 今のジェンダーの話については,この前,「創発プロジェクト」で行ったWeb書評会の中で苅部直先生からも指摘されました(「『日本政治史講義』Web書評会 第2部Part4 『活字』『メディアの変遷』が政治と政治家にどう影響してきたのか」〈御厨政談 第五回〉)。

 ジェンダーに関することで言えば,たぶんここ十年で変わったのだと思います。この教科書を準備するのは2010年代の初めだったので【本書のもととなった放送大学の印刷教材が刊行されたのは2013年ーー編集部注】,ジェンダー構成について今ほど厳しく言われていなかったと思います。それがいいかどうかは別として,今,執筆するとしたら,おそらく意図的に入れたと思います。ジェンダーの要素はおっしゃる通りで,瀧井さんたちが『日本政治史』を書かれた2010年代のジェンダーに対する急速な変化,とくに表の部分での変化が大きいと感じています。

 日本の大学の特に学部は,アングロサクソン系の大学の学部と比べると,専門的であり,かつ法学部の中に政治学があるという性格も強いです。それが政治史の基礎になっていると思います。法学部にあると,確かに科目名を変えにくいです。「民法」という科目名が変わらないのと同じような感覚がありますね。私が専門とする行政学も,「行政学」という名前の講義はアングロサクソン諸国では今ではほとんどありません。しかしながら,日本では「行政学」という講義名を残しています。この伝統志向の強さが政治史という言葉,あるいはこの概念の中にかなり反映されていると思います。こうしたことは,法学部を出て初めて感じることではありますが。

 ただ,ドイツでは歴史学の中で政治史が王道であるというお話がありましたが,もう一つ,政治学ということを考えたときの政治史の重要性は,非アングロサクソン諸国においては大きいのではないかと私は思います。ドイツもそうだと思いますが,歴史的な要因を重視しないと,政治現象を説明できないことが多い。データと理論の強みは,世論調査と選挙や議員の投票行動に強く当てはまりますが,やはり質的な分析は不可欠です。清水さんがおやりになっている政と官の関係や,政友会,自民党といった政党の系列について,質的な分析がまだまだ不足しています。何と言っても,「全体性」ですね。日本の政治と社会における全体性を意識したときに,「政治史」という科目がないと,やはり日本の政治現象はわからないと私は思っています。

 対話編の部分に関しては,かつて自分でも架空の対談をつくってみて気づいたことがあります。プラトンの「対話篇」がそうですが,強引に自分の論旨に引っ張るものを対談だと言い切る妙な知的伝統があるんですね。そうした架空の対談は,概ね不自然です。これに対して,実際に行った対談を文章にしてみると,論旨の流れが自然になっていることを強く感じました。

 もっともそれには準備が欠かせません。対談するとなると,相手が御厨先生だとそれはそれで大変です。御厨先生に合わせながら違うことを言い,なおかつ,対談を続けながらも相手を退屈させないように言うことも必要ですからね。

 さらに,収録は,原則として一発収録です。だからこそ,会話の流れはスムーズであることを心がけました。

 やっているうちに,呼吸や間というものがわかってきます。御厨先生もきちんと締めるために,対話の相手に対して,「ちゃんとわかって振ってほしい」とか「サインを出して振ってほしい」とか,あるいは「時間がないから,ここは自分で意見を言わずに収めるつもりだった」とか,心中いろいろと考えているわけですね。

 そのあたりの感覚が,だんだんとわかってくるものですから,普段,会話しているとき以上の感覚でやりとりを重ねています。そうすれば対話を重ねていくと噛み合いがしっくりいくのですね。ですので,ここまで噛み合った対話を文章に起こすことは,これまでもそうなかったのではないかと思います。座談会なんかは言いっ放しで,話が全然噛み合っていないことも多いです。もちろん,今日の座談会は噛み合っていると思います(笑)。

 もう一つ,この対話編をつくることについては,この本の編集過程で,新型コロナウイルスの大流行(pandemic)がありましたので,御厨先生もおっしゃっていましたけど,時間をとってじっくり校正を続けることができました。全体の修正は曖昧な言葉を整えていくというかたちのものが多かったのですが,その曖昧な言葉を次につながるように修正していくので,よりスムーズに流れていくような対話になったのではないかと思います。このようにして対話をつくることは,今まであまりなかったのではないかと思います。

 そのうえでオーラル・ヒストリーが対話の流れに乗るんですよね。山県有朋とか桂太郎とかの書簡は,放送大学の映像教材の中では,パネルを出して,こうありますねと説明をします。この本では対話編の中で引用していますが,対話の中で明治期の書簡が出てくると,そこはちょっと居住まいをただして見てみましょうというふうになります。

 他方,オーラル・ヒストリーは対話編の地の文の中で引用しても,うまく乗るのだなとあらためて思いました。映像教材の中では,その部分をパネルにして提示して,一部を読み上げたり,あるいはアナウンサーの方に読んでもらったりしていましたが,本の中に入れると,読みやすい。これが,コンテンポラリーな雰囲気を醸し出しているのだと,あらためて感じました。オーラル・ヒストリーは過去のことを言っているのに,現在から見た過去の姿がはっきり出てきます。それは,ある意味で歴史が過去から未来に向かって流れていくよりも,現在から過去に流れていくような,そういううねりを生み出したのではないでしょうか。だいたい皆さんからいただく感想も「対話編を読んだ」というのが多くて,たぶん対話編しか読んでいない人もかなりいるんだろうと思います(笑)。でも,それもありです。もしかすると,清水・瀧井・村井著の『日本政治史』も3人の鼎談講義みたいなのを,この後に加えてふくらませると面白いかもしれないという気がします。


(以下,政治史の書き方,読み方,使い方 vol.2 【下】 に続く)


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