反抗期は、なにに抗っているのか?
かすみさんの企画です
noteの企画に参加するってこと少ないのですが、かすみさんの息子さんのこともよく知っている(つもり)なので、参考になればなぁと思っています。
ほのパパさんの反抗期も素敵で、コメントでも是非とのことで、書いてみることにしました。何かもやもやすることを発散するということもありそうです。親に「わざと心配をかける」という反抗もありそうですね。
"ゆうゆう"自身の反抗期
「反抗期ってなかった」と答えてきました。
そうはいっても、あるんじゃないの?って言われて少し考えてみる。
しかし、「反抗期」っていうけど、意図的に反抗するモノなの?
そう思っていたら…
かすみさんは意図的に反抗していて、ちょっとびっくり。
あぁ、「じゃあやっぱり俺はないわ」と思ったんすよね。
反抗期なんつーもんはだいたい、中高生の頃のことだと思うんですね。
そうすると、父も母もほとんど話をすることがなかったので、これといった反抗期はなかったかなーと思います。特に父とは会話がなく、ほとんど家にいなかったから、思い出もあまりない。
兄が野球をずっとやっていたので(甲子園とか行く学校だったのもあって)、土日はその付き添いで両親とも行って、家にはいなかった。随分と放置されたものだな。祖父母との思い出の方が多いかもしれない。
そうだ、ばあちゃんには「ぅるせーな」とかよく言ってた気がします。
なのでその頃は親からは特に制限もされず、
部活、ピアノ、勉強、ゲームをそれぞれ割り振って適当にやっていた。
あ!強いて言うならば、
「浪人はダメ」、「大学は国立」とは言われてきました。
ことごとく反発して、浪人して私立に行きました 😆<さいあくー)
しかも、一人暮らしで仕送りを要求。 😆<どいひー)
…いや、別に意図的じゃないし、反抗でもない。 😆<いいわけー)
選択肢が”それ”でしかなかっただけなので、これも反抗期じゃないと思う。
主張すること、意見すること、反抗期というものがそもそも”なぜあるのか?”
子供側の視点からすると、これまでの保護者としての親から離れ、
学校を含めた”社会との関係”が構築される時期にある。
その社会との関係において、親や先生以外の大人との関係が構築される。
そうすると、「全能だと思えた親・先生」というものに対するアンチ思考が構築されるタイミングだと考える。
親や先生以外からの情報がインプットされることで、独自の思考や親・先生の意見とは”違う考え”というものの存在に気づき始めます。しかし、親はインプットが変わっていないため、急に自分の知らない考え・主張をし始めたと感じる。それが反抗期だろう。
つまり「自立(親離れ)」に向かう中での主張・意見だと考えます。
その意見に対して、親側が許容できるかどうか。
意見として受け入れ、ディスカッションできるかどうか。
自分(親)が与えた情報以外の情報で構築された意見に対して許容できるかどうか。
許容できるか≒心理的柔軟性
心理的安全性というものは、家族だから当然あるなんて甘ったれたものではなく、作り上げるものだということ。
パートナー同士はこれまでも長く対話してきた。
じゃあ子供に対しては、なぜ対話しないのか?
どうして押し付けるように主張してしまうのか?
保護者であっても、人は人でしょう。遺伝子は違う。
ましてや完全な従属関係ではない。
大事なことは、主張を受け入れることと、間違っている主張は正すこと。
その両方が必要ではないでしょうか。
逃げてはいけないし、押し付けてもいけない。
柔軟性が足りなければ足してあげることもあるとより良いのかもしれません。
そこには、心理的安全性を構築するための柔軟性が必要。
人間、誰しもが、軸と誤差があります。
究極に1本の軸というものは存在しないと思います。
誰しもが幅を持ちます。持てます。
自分にも相手にも幅があって、その幅を確認・許容するための努力=対話が必要になってきます。心理的安全性は一人で構築するものではないということ。相手があって初めて成立する関係性のことを言うのだから。
それぞれが柔軟性の範囲を知り、歩み寄ることで成り立つ。
だから、簡単に「心理的安全性がある」と口にすることはできないということです。努力し、関係を維持し続けることです。
子供は成長(インプット)につれて、親が感知できないほど変動するモノ
そのことを念頭に、親なりの主張と柔軟性をもって対話することが必要だと思っています。
…あ、僕は子供いないからしらんけど(笑)
まぁ、どちらにせよ、簡単なことではないというはなし。
反抗期と厄年の関係に関する考察
子供の親離れ、従来元服といった世代、つまり自立した人間になるタイミングなんだと想像します。
そのタイミングで、親も子離れ。つまり、それを認め、一人の人間として受け入れる。そういう成長のタイミングだということ。
子供の反抗期は、親の成長痛といったところでしょうか?
そのタイミング、昔でいうと親が死ぬタイミングかもしれません。
最近では寿命も延びていて、60歳で死ぬことはなかなかないわけですが、
子離れと親離れが同時に来る40歳前後に厄年が来る。
そういう古くからの教え、なんじゃないかな。
つまり、「子の反抗期」をきっかけに、自分のこと、自分と親の関係について考えるということ。そして「親のことを思い出す・考える」ということ。
すべてがつながっていて、偶然であり必然。
タイミングは人それぞれだが、だいたいそういうもんなんじゃないかと。
久々に実家に帰ってみようかな…
あとがき
かすみさんが想像した記事じゃなかったかもしれません。
反抗期をきっかけに、対話の重要性を書いてしまいました。
人は分かり合えない。それは親子だろうと。
だから、言葉を使ってコミュニケーションをとる。
甘えてはいけない。
男女の関係によっても、反抗期の感覚は違うかもしれませんね。
男親ってそのあたりどう考えているのでしょう?
娘と父は、「娘が冷たくあしらうようになった、ぴえん。」みたいなしょーもない感じでしょうかね。
男同士はあまり発生しないのかな。
息子と母親は、ぶつかる時期はありますが、対話ができ、息子も基本的に「お袋には迷惑かけたくない」と思っています。
娘と母親は、同調と反発、その両方がありそうですね。はっきり言って理解不能です。
結論:男ってちょろい
そういうことで、以上です😆
最後まで読んでいただきありがとうございました!
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?