フェミニズムは、どのようにして有効なのか?ー『ジェンダー・トラブル』をめぐるバトラーとヌスバウムの議論について



バトラー『ジェンダー・トラブル』についてレポート。バトラーは、これまでのフェミニズムを批判的に検討し、最終的には、これまでのフェミニズム運動を退け、「異性装」による規範の置換を目指すようになる。しかし、ヌスバウムは、こうした主張に対して、僕にとっては有効だと思われる批判を展開している。両者の見解を比較した上で、立場を明らかにするというのがこのレポートの目的である。

はじめに


本稿では、バトラーの主張と、それに対するヌスバウムの反論を取り上げて、両者の主張がどの程度正当なものかを権力の範囲を手がかりに分析し、その上で自身の立場を述べるその際、行為能力と身体をめぐる議論から両者の基本的な姿勢を明らかにする。結論は、両者の違いは、行為能力と身体をめぐる権力の範囲にあり、そこからジェンダー規範の置換戦略の基盤の置き方に違いが生じたと考えられる。そしてヌスバウムはバトラーが問題とする二項対立よりも深いところに問題意識があると思われる。

1.バトラーの主張


『ジェンダー・トラブル』によれば、ジェンダーは行為であるという。しかし、一般的には、行為の先に行為者がおり、彼/彼女が持つ属性が反映されたものが行為であると考えられる。つまりジェンダー・アイデンティティが先行し、それによってジェンダーという我々の行為や振る舞いが規定されるというのが一般的な考えである。バトラーは、こうした実体と属性の関係を撹乱することを目論む。「ジェンダーの表出の背後にジェンダー・アイデンティティは存在しない。アイデンティティは、その結果と考えられる「表出」によって、まさにパフォーマティヴに構築されるものである。 」バトラーは、実体であり首尾一貫した属性を持つように強制するジェンダーが、実は行為を通じてパフォーマティヴに構築された虚構なのだと主張しているのである。「ジェンダーの現実性が、持続した社会的パフォーマンスをつうじて作られるということは、本質的なセックスとか、永続的で本物の男性性や女性性という概念自体が、ある戦略の一部をなすということである。 」こうして構築されるアイデンティティは、構築過程と同様にしてパフォーマティヴに再生産される。規制された行為の反復が実体化という効果を生み出すことで、アイデンティティは再生産され、主体は規則化される 。

2.行為能力をめぐる権力の範囲


まず行為能力について検討する。バトラーの主張は、ヌスバウムの指摘した通り、自我を作り出す社会的力に先立って行為能力は存在しないというものである 。バトラーの分析によるとこれまでのフェミニストが文化や言説が主体と取り巻いているが主体を構築していないという主張の根幹に行為能力という考えを打ち出したとしている。文化や言説は主体を取り巻いてはいるが、構築はしていない。あるいは主体が文化や言説に構築されていたとしてもそれらに左右されない行為能力を帯びていると考えられている。こうした考えに対し、バトラーは、主体に頼ることでしか行為能力を確立することができないとしたこと、言説によって構築されることを支配されていると捉えたために行為能力の可能性を封じ込めていることの2点を挙げて、これまでのフェミニストを批判する 。いいかれば、バトラはこれまでのフェミニストが行為能力を完全に独立したものとして考えたことを批判したのである。それにかえてバトラーが主張するのは、こうした行為能力はジェンダーとの関連から言説から独立であり得ず、むしろ規範という意味づけを生み出すプロセスに関与しているからこそ、ジェンダートラブルの根拠となっているという。「しかし、主体は、主体を産出する規則によって決定されるのではない。なぜなら、意味づけは基盤を確立する行為ではなく、反復という規則化されたプロセスであるからだ。そのときの反復とは、実体化という効果を生み出すことによって、それ自身を隠蔽し、かつその規則を推し進めるような反復なのである。ある意味では、すべての意味づけは、反復を強制する境域の中で起こるものである。したがって「行為体」は、その反復のひとつの変種の可能性として位置付けられるべきである。 」
しかし、ヌスバウムによれば、「自我をつくりだす社会的力に先立ってもしくは背後に行為能力(agency)は存在しない 」という主張を「パーソナリティのなかに、全く権力の生産物でない構造などないとしたら、その能力はどこからきたのか?」 と批判する。バトラーが主張したいのは、「わたしたちは行為能力の一種を持っていて、その行為能力とは変革と抵抗を行う能力なのだ」ということであるが、主体が全く社会によって作られているならば、パロディを実践する可能性はどこに由来するのか。反復の一つの可変性の根拠は見当たらない。こうした点については、バトラーは明らかにはしていない。
さらにヌスバウムが指摘するのは、バトラーが前文化的な行為能力を否定していることである。赤ちゃんの例をあげている。赤ちゃんの性別が男か女かによって、大人たちによる感情の説明が変わるという。赤ちゃんが泣いている時、女の子だと思われている時は、怖がっていると説明され、男の子だと思われている時は、怒っていると説明される。そのような理解が赤ちゃんへの接し方やあやしかたを基礎付けている。したがって赤ちゃんへの接し方一つとってみても、ジェンダー化されているのである。こうした言説実践を通じて赤ちゃんはジェンダー化される。だからといって、ジェンダー化される赤ちゃんの行為能力全てが構築されたものと決まったわけではない。ヌスバウムが主張するのは、ジェンダー化される以前にも行為能力があるということだ。確かに、われわれは生理的欲求を持っており、生存の為にそれらを働かせている。文化や言説よりも以前から持っている欲求は存在する。赤ちゃんの例えを用いるならば、赤ちゃんが社会的な力を持つ以前から行為能力例えば生存や食への能力を持っているのは明白だ。したがって、そこにも前―文化的行為能力があると考えられる。このように考えてみるとバトラーは、前言説的なものに頼るというフェミニストの主張を退けようと主体を批判しすぎるあまりに、主体に関わる行為能力を言説に還元し過ぎているように考えられる。
一方で、ヌスバウムがあると主張するような前―文化的な行為能力は、バトラーが批判したような前―言説的な「わたし」が訴えかけるような行為能力だと考えられるか。ヌスバウムがいうような文化に左右されない普遍的な行為能力は、バトラーが主張するような前-言説的な「わたし」ではない。

3.身体をめぐる権力の範囲


第二のヌスバウムが批判したバトラーの主張はセックスもまたジェンダーであるという考えである。バトラーが主張をまず見ていこう。バトラーが批判しているのは、これまでのフェミニズムが「セックス/ジェンダーの区別やセックスというカテゴリーは、性別化された意味を獲得する前の「身体」の普遍性を前提 」としてることである。つまり一方的に文化が刻まれる場所として自明の場所として身体が位置付けられていることに対して疑問を投げかけている。身体を実体として見てしまうことで、身体に関する権力を見逃してしまうからである。バトラーが主張したいのは、身体の境界は、権力そのものであるということだ。主体の最初の輪郭である身体境界 を確立することで、言い換えれば「主体の「内部」の世界と「外部」の世界を分けることで構築されるものは、社会的な規制や管理を行うために漠然と保持されている境界なのである。 」
具体例を考えてみよう。19世紀末に制定された刑法改正法の11条には「ラブシェール修正条項」が存在した。そこでは男同士の親密な関係を示唆するあらゆる行為が、公的なものであろうと私的なものであろうと関係なく、「著しい猥褻行為」という名のもとに軽犯罪として取り締まられることが規定されていた。この法律一つとってみても他者との身体の境界、ここでいう男性同士の行為がすでに権力との関係にあることがみて取れるだろう。「「内部」と「外部」は、両者を媒介し、かつ安定的であろうとする境界に言及してはじめて、意味をなす 」この法律は、男性同士の身体の境界に言及することによって、強制的異性愛の権力機構を構築しようとしている。こうした文化の秩序が主体と他者を区別し、そのことによって「首尾一貫した主体を安定化し、強化する二元論的な区別を作りげる。 」こうした言説は、あたかも身体が初めから存在したかのように見せかけ、構築を隠蔽してしまう。けれども何度も繰り返すようにジェンダーや禁止は、身体の中というよりも身体の表面でパフォーマティヴに構築されたものである。したがって、バトラーにとって身体領域とは、権力そのものなのである。そのことは、先に例に出した身体の境界に言及している法律が示している。
 こうしたバトラーの主張に対してヌスバウムは、概ね正しいとしながらも、「権力が身体のすべてだ、と言い切るのは単純すぎる 」としてこの点に、異議を唱えている。身体は権力というよりも、そうした身体を持っているからこそ、選択することができるのだとヌスバウムは主張する。文化は、わたしたちに影響を与えはするが、全ての側面を形作るというわけではない。ここで先の検討で見た、前文化的な欲望が思い起こされるだろう。われわれは、前―言説、文化的な行為能力をもっていた。それらは文化に関わらず普遍的なものである。そのことは身体に対しても言えるのではないだろうか。身体にも文化よりも前の次元、もっと言えば人間性をもっているのではないだろうか。ヌスバウムがその例として取り上げているのは、スポーツの例である。いくつかのスポーツは、男性によって女性がその運動に耐えられないスポーツであるとされてきた。しかし、そうしたスポーツを実践する女性たちは、そうした偏見を乗り越え、女性の身体に特化した研究を要求した。こうした研究は、女性のトレーニングと故障に関する理解に結実した。ここでスポーツが行う女性が達成したことは、身体的な差と文化的な構築の相互作用のきめこまやかな研究なのであるという。ここで言われるような身体的な差は、バトラーが批判した主体があるかのように見せかけ、二元論を強化するような、文化が書き込まれるような身体なのだろうか。わたしはそうでないと考える。人が食や快適さを求めようという身体的な欲求に権力や言説が入り込むような余地はないと考えるからだ。そうした前文化的なものは、権力や文化以前に存在する、普遍的なものである。したがって、どの文化にもあることが想定されるような、そうした前文化的な身体が要求する限りでは、身体的な差は存在するだろう。西洋の価値観の中であっても、生物学的に男性と女性は、生殖器、ホルモン、発達においてどれも連続的である。ならば、そうした連続性が要求するような差異は、権力なのだろうか。ヌスバウムが主張するのは、こうした前―文化的な要求を補完するような文化的な構築の運動としてのフェミニズムだと思われる。

おわりに


 以上の検討を通してヌスバウムの基本的な姿勢が明らかになった。行為性と身体の批判においては、ヌスバウムが一貫して唱えてきたのは、全ての人が持つ人間性すなわち前文化的な行為性と性別や言説以前の身体である。これを規範として打ち立て、変革を起こすというのがヌスバウムの主張であった。これに対するバトラーのラディカルな構築主義は、こうした普遍性、もっと言えば普遍的と思われるようなものをパロディーによって暴こうとした。実体と属性、自然と文化、そしてこれら二つが強く推し進める男女二項対立。こうした二項対立をパロディによって暴くことでこれらを超克するのがバトラーの狙いであった。全てを二項対立からの脱却という構図に落とし込もうというバトラーの主張に対して、二項対立以前の普遍的な部分を主張するヌスバウムの主張は相容れないだろう。そのため両者には、このような違いが生まれたと考える。以上からバトラーが権力の内部でジェンダー規範をどのように置換していくのか 、という点を問題しているのなら、ヌスバウムは権力の外部でジェンダーを超えた規範を打ち立ててジェンダー規範を乗り越えようという試みであると整理できる。
 しかし、ヌスバウムがバトラーの二項対立の超克を知らないはずもない。またバトラーが批判する政治を構築する基盤となるようなジェンダー規範を打ち立てようというものでもない。わたしとしてはヌスバウムの主張するように全てが権力であるとは考えない。ヌスバウムが主張するように権力でないような部分、前-文化的な部分、人間として普遍的な部分は、二項対立を強化するような部分ではなく、「道徳的政治的行為能力」と極めて密接につながる部分であるからだ 。こうしてみるとヌスバウムの問題意識はフェミニズムを超えた所、二項対立以前の問題を基盤とする広い射程を兼ね備えている。人間として普遍的な部分、食への、快適さへの、認識の熟達への、生存への欲求は、男女に関わらず達成されるべきであろう。しかし、二項対立がそれらを妨げるようなことがあれば、規範を打ち出し、政治的変革を行わなければならない。
 以上の整理に基づいてもヌスバウムの主張にも問題点がある。それは、前文化的な部分が知の対象になった時である。ヌスバウムの主張は、二項対立よりも深い普遍的な基盤を打ち出すことであった。それ自体は、本稿でも肯定している。しかし、この基盤は規範として標榜された、すなわち知の対象になった瞬間に、それらの知の制約に晒されることになる。例えば、われわれが食べるという一連のプロセスを誰もが要求することは、そのプロセスに言及することは異なっている。後者は、前者を言及する文化や知の枠組みの内部にとどまってしまっているからだ。したがって、われわれが食事を政治目標として標榜するとき、食事という概念を算出する権力に取り込まれてしまっている。こう考えると、実践として前文化的な実践を行わなければ、常に権力に回収されてしまうことになるだろう。そのような実践は実現可能か。すなわち知の枠組みに言及しない形で政治改革を行うことは可能なのだろうか。あるいは、知の枠組み全てが権力の作用と言えるのだろか。規範と権力をめぐっては、こうした問題に検討の余地があると考える。

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