「植松聖」は自身の意味を認めるだろうか? ~「社会的意味性」がうずまく世の中で~

(*この文章は、植松聖・現死刑囚の人格、思想及びおこなった犯罪について肯定するものでは全くありません。この文章を読んだ方が「筆者は植松を評価している」と悪意を感じてしまった場合、その責任は全て私にあります。)

「津久井やまゆり園」障害者殺害事件について、NPO法人「抱樸」を運営する奥田知志氏が語るインタビューを読んだ。

奥田氏の談話の要点は次のように整理される。

1)植松君(奥田氏の言葉に従い、ここでは「君」を付ける)は、社会においての「意味」に囚われてしまった人間である。
2)ある人の命を、「役に立つのか、それともあまり役に立たないのか」という「意味」によって振り分けられる、というこの思想は、この国の時代の変遷によって社会的にも蔓延した風潮である。

この見立ては明確で、素朴でありながらあながち間違いのないものだと思う。奥田氏は、社会的意味によって人間を振り分けてよいという思想の下に行われた事件として、「やまゆり園」の事件の他に1983年の「横浜『浮浪者』殺人事件」などをあげているが、そうなると最近の医師によるALS患者の嘱託殺人事件にいたるまで、すくなくとも三十年以上かけて醸成された風潮であることになる。
もちろん植松が起こした犯罪を全て時代のせいにすることはできない。ただ、「社会的意味性」による圧力が厳としてこの社会にあることは確かで、奥田氏が引用した言葉を使わせてもらえば「ひとりのいのち」としてその風潮と向き合うことを、この事件は突きつけている。

その向き合いのために、この文章では上記のインタビューにおける末尾からもう少し考えてみようと思う。末尾は次のような言葉である。

〈もしも、もう一度彼と話すことが出来るなら、私は彼に言いたいと思っています。

彼が否定しても。「君はあんな事件を起こさなくても意味のあるいのちだったのだ。そして、今この時においてもそれは事実なのだ」と。〉

奥田氏がここで使っている「意味」とは、社会的なものにおいての「意味」ではない。生命をもった、もしくは存在した時点で宿る普遍的な「意味」である。「彼が否定しても」伝えたいという思いには、命がもつ意味の普遍性についての奥田氏の強い信頼がある。そして他者への強い信頼がある

植松はこの意味、そして相手への信頼を認めるだろうか。

最近でも彼は「心失者」という語を用い、意思疎通ができないとするそのような障害者を抹殺するのは世の中にとって良いことだ、という思想を変えずにいるという。このインタビューでは「(自分は事件の直前には)あまり役に立つ人間ではありませんでした」という面会での植松の言葉が紹介され、事件直前には26歳無職で生活保護受給者でもあった彼は、自分よりも「役に立たない」とした人たちを切り捨てる(この場合障害者を殺害する)ことで「役に立つ側へ移行できる」と考えた、という説が示される。
この仮説に基づくならば、植松は意味のために人間を殺すほど「社会的意味性」に囚われてしまった人間であった。そしてその意味性をもとに自身の思想を論理づけまでしてしまっている。自前で作ってしまったとされる「優生思想」と呼べるようなものはその証拠である。
そのような人間が、社会的なものをひとまず措いて、自分の意味を認めるだろうか?

(私は決して「これから植松聖・現死刑囚が自身に意味を見出してほしい」と言いたいわけではない。私が言いたいのは要するに、意味性に囚われてしまった人物がいるならば、その人がそこから抜け出て自身をそのまま認めるためにはどうすればよいのか、ということである。)

先例として、元・オウム真理教信者達をあげてみると分かりやすいかもしれない。
オウム真理教という新興宗教団体は、松本サリン事件や地下鉄サリン事件など有名なものを筆頭に、多くの人間を殺害しているが、未だにオウムからの思想を引きつぐ者は多い。オウム自体は解散したものの後継団体は存続しており、従って今でも以前信じていた意味性から逃れることができないということだろう。
ただ宗教の場合、洗脳という面もあり一概に決めつけられないが、どうであれ自身が取りつかれてしまった意味性から自由になることは難しい。

植松は「社会的なもの」に囚われ、元・オウム信者は「反・社会的なもの」に囚われている、とすると二つは別々なもののような気がするが根は同じなのである(本当の宗教は「反・社会的」なものなどではない、あるいはそれよりもっと広く、かつある意味で危険なものである、というような議論はここでは省く)。
彼らは「ある枠内での意味性」に囚われた。それが現実社会の風潮であるか、ある宗教的な教義であるかの違いに過ぎない。オウムの暴走から植松の犯罪行為までの間が約二十年であることを考えれば、この二十年間で日本社会は、極端に言えば、「オウム的な空間」と化したのかもしれない。

そのような空間に身を置きながら、自分をそのまま認めるのは非常に難しい。奥田氏は今現在のコロナ禍について「お金持ちも貧乏人も、有名人も政治家も、誰もが感染リスクを負」ったとし、その中で「いのち」の「普遍的な価値を取り戻し始めた」可能性を示唆する。しかしながら私には、その「いのち」の生かし様が現社会においてさらに不透明になってしまったというように映る。あるいはそれは、氏が美談として掲げる『ひとりのいのちは地球より重い』という言葉、それをハイジャック事件において一国の総理大臣が言ってしまったという事実が、結局のところ「あるものを切り捨てる」ための建前でしかなかったからではないだろうか。
私が奥田氏と意見が決定的にずれるのは、生命が存在することが普遍的に意味があるのだとしても、それを社会的に表明した場合、その言葉は全て建前になってしまう、という所である。

私が思うに、少なくとも植松のようにならないためには、「社会的な意味性」から安らぐことができる場所で、「そのまま認める―認められる」という思いを味わえるかどうかが大事な気がする。奥田氏の「いのち」をめぐる「言葉」自体は建前だったとしても、氏がその言葉を植松に「彼が否定しても」「言いたい」、伝えたい、と願うのはそのためだろう。

ただ、それによって植松が認められるようになるかどうかは彼自身の問題である。相手がどう思うかは分からない。何も伝わらないかもしれない。あるいは彼が認めたとして、もう一度こちらがそのことを受けとめられるかも分からない。
身近な存在でも分かることがあれば分からないこともある。
このことは、植松自身が重度精神障害者の方と関わるなかでぶつかった問題かも知れない。それは植松に対して忖度しすぎているのかもしれないが、実際私たちの意思疎通はひどく微妙な自然さに依っている。またひとつひとつ考えていかなくてはならない難問である。

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