小さいものを目指す旅

人間の主観における物事の大小は、その人の位置によって決まります。自分からみて近いものは大きく、すなわち重大事に見えて、逆に自分からみて遠いものは小さく、すなわち些事に見えます。ニーチェのいう遠近法主義です。

それはサラリーマンも同じで、自分が営業をしていたら、営業こそが会社の売上を支える会社にとっての最大の関心事であって、それ以外のことはそれほどのことではないものと感じますし、それは他の部署でも同じです。

また、自分が扱っている商材についても同じように感じるでしょう。

しかし、異動したり、転職すると見ている場所が変わります。いままで近くにあったものが、遠くになり、いままで遠くにあったものに近づくのです。

それによって、いままで重要だと思っていた事が大して重要でなくなり、いままで大して重要でないと思っていた事が重要なことになるのです。

これはとても新鮮なことです。立場が変わることによって、価値観も変わるのです。価値というものはその立場限りのものなのです。しかし、その立場にコミットするのであれば、その立場が求める価値観に対してもコミットしなければなりません。そうしなければ、「アイツはやる気がない」ということになります。

人は必ず何かしらの立場を取らねばならず、それ故何かしらの価値観にコミットしなければなりません。まずは、その立場における価値観を学ぶところから始めなければなりません。

その価値観を学ぶプロセスには、戸惑いがつきまといます。それは身につけた価値観によって判断を下すのではなく、従来の価値観が役に立たず、そこにある現象から価値観を形成していかなければならないプロセスだからです。

一度その場所における価値観が身についてしまえば、あとは判断を下していくだけです。そこには戸惑いはありませんが、一方で実感もありません。すでに身につけた価値の体系によって、判断は一義的になっていきます。

もし、人が異動や転職を繰り返すのがサラリーマン人生だとするならば、それは常に自分が肉薄しているものから離れて、より遠くのより小さく見えるものを目指して歩く旅だと言えるはずです。

それは、戸惑いの中で価値観を身に着けては、破棄していくプロセスです。



世の中には何事も気持ち一つだという考え方があります。

心頭滅却すれば火もまた涼し、という感じの話です。仕事がつまらなくなってきた時に、それはただ心掛けが足りないからなんじゃないか、だから、それは異動や転職によって実感を取り戻そうというのは間違いだというような考え方です。

私はそんな考えは思考停止だと思うし、いい考えだと思いません。

それは、旅行なんかしなくたって、旅行している気になればいいじゃないかと言っているようなものです。実感されることに価値をおいた議論をすべき時に、問題を意識のレベルのものにすり替えているのです。

問題は実感なのです。それは、心掛けの問題ではありません。

個人的な感想ですが、スピリチュアル的な文脈ではよくこの論法が多用される気がします。まずは、心掛けに気をつけましょうとか、異動や転職する前に、本当に今の仕事に向き合えているのでしょうか、とかそういう論法です。

だから、仕事がつまらないと思うなら、つまらないと思うのが正しく、それを倫理性を滲ませた心掛け論で捻じ曲げるのは正しくありません。



しかし、サラリーマン人生が価値観を身につけたり、それを捨てたりしながら、戸惑いと実感に塗れ、今見えるものでもより小さなものに向かって歩みを進めるのはなぜなのかという問題に行き着きます。

そんなことをしてなんの意味があるのか、ということです。

私はそれは、人類が分業を深化させるためのプロセスだと思います。

社会学者のデュルケムは集合意識というものが共同体としての社会をまとめているとしました。それが、社会の中で分業が進むとそれは斉一的な集合意識によってではなく、分業によって相互に機能的に依存することで連帯していくようになる、という話です。

分業は社会全体の生産性を高めます。人々が戸惑いと実感に塗れながら、より小さいものを目指して進むのは、それはそのまま新しい役割がそこから生じ、分業を進めて行くことが期待されるのだと思います。

ですから、仕事に実感が失われたと思ったら、戸惑いを伴う実感を求めて、今肉薄しているものを離れ、今は小さく見えているのもを目指して進むのが、社会全体の分業を進めて行くのです。

それはもしかしたら、みんなが同じところで行ったり来たりしてるだけかもしれませんが、みんながそうやって行ったり来たりしているうちに新しい場所が発見されていくはずなのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?