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自由のストレスと不自由の心地よさ

炊飯器のボタンを押すだけで、ホカホカのご飯が炊き上がる。スマートフォンで時間が合う友人をいつでも探して会える。家の近くのコンビニでお腹を満たすお弁当をいつでも買える。

便利なモノが増えると、時間や場所に縛られなくなったり、手間暇かけずによくなって時間にゆとりができたりする。つまり、人間は自由になる。

ぼくも、炊飯器とスマートフォンには大変お世話になっている。便利で、素晴らしい。誰が思いつくんだろう。作った人達に感謝しよう。人間ってすごいな。

 

一般的に自由であることは、ポジティブな意味で使われる。さらに、人間は自由であることが幸福だとも、昔の偉い人が言っていた気がする。実際、ぼくも高校生の時に自由になりたい、となんとなくぼやいていた。

しかし最近は、すこし億劫だと、感じる。

自由であるとは、制約が少ない、すなわち選択肢が多いことだと解釈している。したがって、多くの選択肢から選択しなければならない。そのことが煩わしいと感じている。

ぼくは、選択することが苦手だ。例えば、予定がない休日は、一人で過ごすか友達と会うか、起きてからお昼ぐらいまでベッドで悩んだりする。苦手な理由は、選択するときに「こっち」がいいか、「あっち」がいいかを比較して選んだあと、「あっち」を選んでたらもっと楽しかったんじゃないか、と想像してしまうからだ。さらに、うまくいかなかったり、しんどくなったりすると、選択を後悔してしまう。選択することがストレスに感じる。

選択ができる、すなわち自由であると、よりよい方を選択すること自体にエネルギーを使う。
選択肢がないと、あるもので楽しむこと、にすべてのエネルギーを使える。使うしかない。


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(※イメージ)

あるもので楽しむ。これは、昨年末に秘境と呼ばれるほどの地域に、少しだけ住んでみて気付いた心地よさである。

その地域では、もちろん近くにコンビニはない。隣の家など存在しない。隣は山だ。お風呂は五右衛門風呂だった。五右衛門風呂とは、釜のお風呂に板の上にしゃがみこんではいるもの。木で火を焚いてお湯を温める。

コンビニがないから、お風呂上がりにどうしてもピノを食べたくなっても買えない。近くに仲良しの友達がいないから、連絡しても会えない。

それでも、とても幸せな日々だった。本当に。
青くみじかい棒に刺して口に入れた瞬間にチョコの香りと冷たいバニラアイスが口中に広がるピノを1粒も食べられなくても、羽釜でご飯を炊いて塩おにぎりを食べたり。気が許せる仲が深い友人とは会えなくても、その場にいる人達と笑いあって精一杯楽しんだり。

 

そもそも、自由を求めればキリがないと思う。家の近くのコンビニでお弁当やピノをいつでも買えることは嬉しい。たしかに、コンビニが家の近くにできた当初スーパーよりちょっと高いコンビニになぜかワクワクしながら通った。でも、それが一旦、当たり前になると次は、少し待つと家に運んでくれるお弁当がほしくなる。その次は、待たずにテーブルにいきなり現れるホカホカのお弁当がほしくなる。

自由は気持ちいい。一方で、自由で得られる喜びの賞味期限は短い。気持ち良さを味わえるのは不自由が自由に変わり、今までできなかったことができるようになった瞬間だけだ。一度当たり前に変わると、別の不自由に目がいく。自由が新しい不自由に変わる。刹那的な喜びを感じさせた後、新しい自由が当たり前になった日常がぼくに感じさせるのは、選択するストレスと無力さだけだ。

残念ながら、人間の欲望はインフレする。満たされるとさらに強い欲が出てしまう。そして社会は、それに愚直に応えようと便利になっていく一方である。

そんな世界で、
「心地いい不自由に留まり、あるもので楽しむ。」
ことをぼくは大事にしておきたい。

それと、みんなは、人類は、どこまで便利を求めていくんだろう。という興味がある。

 

おいしいフルーツやお肉をいただきます。大きな励みになります。