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雨と灯

 数日前から降りはじめた冷たい雨が視界を煙らせる中、好んで外に出る人間は殆どいない。
 彼は足早に路地を通り過ぎていく足音はいくつか聞いた。音を立てて水溜りを過ぎていく車の音も何台も聞いた。しかしここには誰も立ち寄らない。
 どれ程の時間ここにこうしているのか、どこから来たのか、彼は覚えていない。昨日からだったような気もするが、今朝からだったような気もする。もっと前かも知れない。ここにきてから何度か眠りに落ち、何度か目を覚ました。
 ぼんやりとした眠りの感触は、一呼吸毎に頼りなくなっていく意識を幻のような暖かさに導こうとしていた。それに惹かれるように重い瞼を閉じる。ひとつ、溜め息にもならない呼気が零れた。静かに風船の空気を抜くように、眠りに全てを委ねる。
 不意に、なにかが彼の前に足を止めた。息を飲むような気配と、音が聞こえたような気がする。けれど彼の意識は殆ど眠りに飲み込まれ、それがなんであるか正確に掴むことはできなかった。
(………もう、いい……)
 胸の内に言葉が落ちる。諦めであると同時に、安堵のそれ。眠りは音も感触も遠ざけ、彼の全てを柔らかく包む。
 しかし目の前に足を止めたなにかは、彼の眠りを邪魔するように体を包んだ。それだけはわかる。なにをされるのか、自分がどうなるのか。そのことにまで頭が回らない。警戒心も恐怖心もない。
 ただ、眠りがもたらしてくれた安堵と、なにかが自分の側にあるということだけが、彼が認識したものの全てだった。
 眠りの波にさらわれながら、彼はそっと微かな息を吐いた。それが、最後の記憶だった。

 雨の降るこんな寒い夕刻に、急に彼女は外に出ようと思い立った。そんなことはこの数年なかった。目的地があるわけではない。ただ、いつもは行かない場所に行ってみたくなった。
 ただし、それは出掛ける支度をして家を出るまでのこと。お気に入りの傘を手に雨の中を歩き出してからは、彼女の生活サイクルにはない住宅街に向けて足を進めていた。取り立てて真新しい発見があるとは思えなかった。
 それでも彼女は、なにかに引かれるように足を進めた。そしてその公園の前を通りかかった。
 人のいない公園ほど淋しい気配の場所はないだろう。ぼんやりとそんなことを考えながら入り口で足を止めた。遊具の側で雨晒しになっているベンチで視線が止まる。彼女が生まれ育った町にもこんな児童公園がいくつもあった。無意識に当時の記憶を辿る彼女の唇を薄い笑みが飾る。
(あの頃はベンチの側にはよく捨て犬がいたっけ……)
 反対する親を必死に説得してはじめて飼った犬も、ベンチの後ろに放置されたダンボールにいたのだった。雑種だったが、他の家族の誰よりも自分を好きでいてくれた無邪気で真っ直ぐな目は今でも忘れられない。
 彼女が高校を卒業式に向かうのを見送り、穏やかに眠るように亡くなった。老衰だった。あれから数年経つが、看取れなかった自分を今でも実家のどこかで待っているような気がする。胸の奥に昇華しきれていない切なさが戻ってくるのを感じながらベンチに足を向けた。
 近付いていくにつれ、ベンチの後ろに隠されるように置かれたダンボールが見えてきた。
「……うそ」
 言葉が転がり落ちる。天気も場所も、季節までも違うというのに、既視感を覚える。あの時のあの景色が視界に重なる。同時に彼女は走り出した。まさか、という思いが彼女を突き動かす。
 時間にして十数秒だっただろう。嫌な想像だけが膨らみ、肩透かしであることを願いながら雨で崩れかけたダンボールを覗けば、そこには眠るように横たわる子犬がいた。慌てて手を伸ばせば、冷たい感触だけが掌に伝わる。咄嗟に肩にかけてきた厚手のショールで包んだ。
 まだこの子犬に生きる力があるならば、と強く体をさりながら走り出した。曖昧な記憶を頼りに駅のホームで広告を見た覚えのある動物病院に向けて走り出した。簡略化された地図ではこの近くだったはずだ。
 駄目かも知れない。無駄かも知れない。
 あの公園に足を向けたのは、この子犬に呼ばれたのだろうか。それとも昔飼っていた犬が見付けさせたかったのだろうか。間に合うならば自分のようにこの子犬を幸せにして欲しいと。
 それは理屈では説明しようのない感覚。消化しきれなかった感情がそう感じさせる、独りよがりでしかない勝手な解釈かもしれない。それでも自分が見付けなければ、そう遠くないうちにこの子犬はゴミとして処分されるだけだ。
 雨より温かい雫が溢れる。
 どこをどう走ったのか。ようやく動物病院の建物が見えてきた。丁度、診察を終えて出てくる人影が見える。水溜りを跳ね上げながら走ってくる彼女の気配に気付いたのか、ドアを開けて待っていてくれる。
 礼を告げる余裕もなく中に飛び込んだ彼女は、受付けのカウンターに飛びついた。
「…………この子、助けて……!」
 上がりきった呼吸の合間にようやくそれだけ告げ、彼女は受付けの女性スタッフに子犬を託した。

 どれ程の時間が過ぎたろう。誰かに話しかけられた記憶はあるが、どう答えたのか覚えていない。ただ、あの子犬が助かることだけを願う時間が続いていた。
 ドアの開く音がし、白衣を羽織った男が彼女の隣に座る。ゆっくりと視線を上げた彼女は、男の表情が穏やかなことに気付いた。
「ギリギリ間に合いましたよ、あの子。ありがとう」
 沈黙が落ちた。男の言葉が理解できた途端、弾かれたように立ち上がり頭を下げる。胸が詰まり言葉が出てこない。温かい雫が頬を滑って落ちた。
「ああ、治療費はいらないよ。元気になった時引き取れるなら、受付けで連絡先残して行ってね」
 男の言葉に何度も頷いた。涙混じりの、それでも晴れやかな顔で、彼女はやっと言葉を絞り出した。
「必ず、迎えにきます」
 ……と。

#第1回noteSSF #ショートストーリー #犬

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