人工物の屍骸とその先に存在する狂気という名の快楽

 人口の光溢れる人工物の谷間。そこはあらゆるモノが住まい、その底には澱のようにを泳げぬ有機物が漂っていた。
 その中を、目的地も感情もなく漂う、ひとつの存在がある。いや、存在といえるだけのものが逸れにあるだろうか。姿かたちはヒトのそれをしていようと、その中身に含まれる澱は腐敗臭を放って処分に困る形をしていた。
 それの名は、京谷という。昼間は三十に片足を突っ込みはじめたなんということもないサラリーマンだ。しかしそれはあくまでも昼間の肩書き。彼はプライベートの時間に戻ると同時に、完全に外界との接点を拒絶し、スイッチを切っていた。
 仕事というレーンに乗っている限り、彼は愛想もよくそれなりに仕事もこなす普通の人間だ。しかしスイッチを切った彼はまるで、街を徘徊する夢遊病患者のような存在でしかない。
 住む場所も、贅沢さえしなければ生活費と少しの蓄えを作ることに支障を来たさない程度の収入も。そして仕事がらみとはいえ、友人といえる程度の付き合いもある。
 けれど彼は、彼の中にいつの間にか住まっていた空虚さに飲まれ、その身の内に除去不可能な澱を溜め込んでいた。そしてそれはこの数年で腐臭を放つようになり、スイッチの切れた状態では正常な判断のできないモノへと彼を変質させてしまっていたのだ。
 しかしその腐臭も、スイッチの入ったヒトらしい彼からは漂うことがない。だから、周囲の人間は彼の澱に気付かなかった。いや、気付けるはずがないのだ。そしてそれは、昨年別れた恋人も気付かずに終わってしまった。
 彼の厄介なところというのは、彼一人でいられる時以外は自然とスイッチが入っている。しかし一旦家に帰り、後ろ手に玄関のドアを閉めたところで彼のスイッチは完全に切れてしまうのだ。幸か不幸か、彼のこの状態を知る者はいない。
 そうして彼は、誰も知らぬところでスイッチの切れた状態のまま夢遊病患者のごとく夜の人工物の間を漂っていた。彼がその状態で家に帰り着くのは、体力が切れる時。そして泥のようにベッドで意識を失い、朝には自然とスイッチが入り会社へと向かう。
 そして今宵もまた彼は人気の絶えた人工物の間を漂い歩いていた。
 しかし、今日はいつもとどこか様子が違う。無表情で漂う様は常と変わらないが、その無表情の中にもどこか表情があった。嬉しそうなのだ。
 スイッチが入っていた時の彼に、取り立てて喜ばしいことがあったわけではない。朝起きてシャワーを浴び、会社へ行き。与えられた仕事をこなし、少しばかりの残業を済ませて帰宅した。ただ、それだけの代わり映えない一日を過ごしただけだ。
 しかし確かに彼の表情は、どこか嬉しそうに見える色を映している。薄く笑みを浮かべたようなその表情は、見様によっては異様な雰囲気を作り出しているが、幸い、彼の周囲は人気の絶えた場所。誰もその雰囲気に気付かれることはなかった。
 一台、等間隔に光を投げる街灯の下を暗色のセダンが走り抜けていったが、彼の存在に気付いた様子はない。彼の傍らを通り過ぎ、赤いテールライトの残像を残し夜の闇に消えていった。
 彼もまた、セダンとすれ違ったという認識はないのだろう。ただひたすらに足を動かし、漂うばかりだ。
 と、不意に彼の視線の先に灯りが点った。それは少しずつ明るさを増していき、彼を手招くようになにかの形を作りはじめる。
「………………ああ………」
 吐息のような音が彼の唇から零れ落ちた。しかしそれは言葉になることなく闇に飲まれる。
 余韻もなくそこに存在する夜の闇は、得体の知れないそれは、静かに。けれど確かに彼を捕らえていた。スイッチの切れた状態であるからこその引力であろう。スイッチが入っているときであれば、彼は踵を返していたかもしれない。
 音もなく彼を手招くそれは、彼があと数メートルというところまで近付いた頃、扉の形に落ち着いた。それに吸い寄せられるように、彼はゆっくりと腕を上げる。歩みは変わらず夢遊病患者のそれ。しかし確かに一歩、また一歩と彼は真っ直ぐにそれへと向かっていた。
 それの目の前に辿りついた彼は足を止め、数秒、それを凝視する。不意に、彼の無表情に満面の笑みが浮かんだ。虚ろな目であることを除けば、彼の表情は待ち焦がれたプレゼントを受け取る子供のような無邪気さ。
 上げた手を扉の取っ手に掛け、ゆっくりと引き開けた。途端、彼の目を射た光は、真夏の太陽が南天に輝いたかのような強さ。小さく首を竦め、どこまでも子供の無邪気さで彼はその光に手を伸ばした。
 音もなく彼を飲み込むように扉が閉まり、彼の姿は道端から忽然と消えたのだった。

 扉が背後で閉まる気配に、彼は僅かに肩越しに視線を投げた。しかしそこに扉はもう存在しない。左右上下の感覚が存在しない白い空間に彼は佇んでいた。
「………ここ……?」
 首を傾げ、喋はじめたばかりの子供のような片言の言葉を落とした彼だが、そこに恐怖は含まれていない。ただ純粋に不思議がっている気配だけがあった。
 幾度か彼が瞬きを繰り返すと、彼の視線の先に、再び先程の扉が現れた。
「あった………っ!」
 言葉を漏らし、嬉しそうに扉に駆け寄った彼は、再びその扉に手を掛け開け放つ。途端、彼の視界は暗転した。薄ぼんやりと見える視界は、先程までいた人工物の谷底の景色。しかし、明らかに空気が違っていた。いうなれば、廃墟を前にしたかのような空虚さ。
 周囲を見回し、彼はゆっくりと一歩を踏み出した。ざらりとした感触が靴底を通して伝わり、彼は少しばかり怯えたような表情をその目に覗かせる。
 ぽつ、とそんな彼の前方に微かな光が浮かんだ。それは音もなく数を増やすと、彼に近付きその周囲を舞う。乱舞する、という表現が似合うだろうか。蛍の群れに踏み込んだかのような頼りない光が群れとなり、視線を上げた彼との距離を徐々につめていく。
「………………?」
 光の群れの得も言われぬ美しさに魅入られたように、彼は僅かに首を傾げたまま周囲を舞う無数の光を見詰めた。その向こうに時折見える街という名の人工物の死骸が時折彼に恐怖を感じさせても、それ以上に目の前を乱舞する光の美しさが彼の意識を埋めている。
 不意に、彼の耳が自らの名を呼ぶ声を拾った。その声に聞き覚えがあるような印象を受け、彼は首を傾げたまま思考を巡らせる。懐かしいような、はじめて聞くようなその声は、ゆっくりとやさしく、赤子をあやすような柔らかな響きで彼の名を呼び続けていた。
 その声に導かれるように足を踏み出せば、光の群れもまた彼に従って移動する。いくつかの光が彼を声の元まで先導するように群れから離れて舞った。
 ざらざらした靴底の感触は、いつの間にか瓦礫を踏み越えて行く時のような尖った感触に変わっている。
 光を透かして見える向こう側の景色は、いつか、なにかの映画で見た崩壊した街の景色そのものだった。
 崩れたビル郡。横転した車。今にも崩れそうな亀裂を全身に受けたいくつものビル。手折られたように折れ曲がった標識や看板の類。見知っているような景色の中にありながら、彼は全く別の場所にいた。
 その違和感は徐々に、彼に恐怖ではなく面白みを感じさせる。それと同時に、スイッチの切れた彼の意識の奥底にあった理性であるとか、常識であるとか。そういったスイッチが入っている時になくてはならないものが崩壊していく快感を覚えさせた。
 崩壊していくのは、周囲の景色ではなく彼の中にあるモノ。
 周囲の景色は彼を象徴しているのかもしれない。
 数メートル先の彼の視界に、再び扉が現れた。それに気付くなり、彼は小走りに扉に向かう。足元の瓦礫は彼の足を止めようとするかのように足場を悪くするが、そんなことになど構う様子なく彼は真っ直ぐに扉に向かった。
 少しばかり息が上がっている。扉の前に足を止め、彼は幾度か大きく息を吐いた。ゆっくりと腕を上げ、再び彼はその扉を開け放った………。

「来たんだ? 祐一」
 彼、祐一が扉を潜ると同時に、そんな言葉が投げかけられた。声の主は昨年別れた恋人、梓。数回瞬き、彼は目を丸くした。すぐには言葉が出てこない。そんな祐一を柔らかく手招き、梓は周囲に視線を巡らせるよう促した。
 吊られるように視線をめぐらせればそこは、古い時代を連想させるような村景色がある。田畑らしきものが遠くに見え、近くには古民家のような造りの家が並んでいた。ところどころにある草原と、耳に届く水路のような小川の音が余計に村という単語を連想させる。
「あず、さ………ここは?」
 視線を梓に戻し祐一はぎこちなく言葉を唇から押し出した。それにただ笑い、梓は彼の手を取る。やさしい体温と手に伝わる質量が、これが幻想ではないと伝えていた。
「扉をいくつか開けたでしょ? その先にある場所。理想郷っていったらいいのかな? よくわかんないけど」
 悪戯を含んだ表情の梓に、祐一はわからないというように瞬く。けれどそんなことなどお構いなしに梓は祐一の手を取ったまま歩き出した。
「ここはね、祐一みたいにスイッチの切れたヒトが辿りつく場所なんだって。私もそう。気付くとスイッチが切れて朝になるとスイッチが入るの。そういうヒトじゃないとここには辿りつけないんだって」
 笑みを含んだ言葉で答え、梓はなんでもないことのように足を進めていく。
 そんな彼女に、祐一は面食らっていた。まさか、彼女も祐一と同じようにスイッチの切り替わる瞬間を持っていたとは知らなかったのだ。
 梓に手を引かれたまま村の中を進み、一軒の広い藁葺き屋根の家の前に辿りついた。
「長老に会ってきて。祐一はここに住む資格のあるヒト。ここは食べなくてもお腹空かないし、仕事もしなくていい。あっちに見える畑はここにいるヒトが趣味で作ってるものなの。………また、一緒にいられるね」
 梓の言葉の意味がわからず首を傾げる祐一に照れ隠しのような笑みを見せ、梓は藁葺き屋根の家に彼を促す。
「そのうちわかるよ?」
 小さく笑みを漏らし、梓は祐一の背中を押した。それに従うように足を動かしはじめた祐一は、肩越しに彼女を振り返る。小さく手を振る梓に状況を飲み込めないまま頷き返し、彼は開け放たれた縁側に向かった。
 いくつもの疑問が祐一の胸中を埋めているが、確かに感じていることがある。
 どうやらここは、とても居心地のいい場所らしい。なにもしなくていいのならば、遊んで暮らすのもいいだろう。扉を開ける前、ずっと先送りにしていたことにチャレンジしてみるのも面白いかもしれない。それがどこまでできることなのかは別として。
 なにより良く知った梓がいる。そのことが妙に心強い。はじめて会うここの住人にここでの生活のことを聞くよりはずっと気が楽だった。
 そんなことを考えながら彼は、縁側の前で足を止める。中を覗いてもヒトのいるらしい気配はなかった。
「すみません、長老さんっていらっしゃいますか?」
 奥に向かって言葉を投げながら、祐一は体も心も、全てが軽くなっていることに気付いた。それはひどく心地よく、ある意味、快感と同種のもの。
 大きくひとつ息を吐き、彼はゆっくりと無意識に体に入っていた力を抜いたのだった。

#小説 #短編

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