刻のむこう 26

 床の上に膝を突き、亜早乃は凪をそっと抱き寄せ髪を梳いた。常ならばそれだけで安心できるはずの亜早乃の仕草が、今は何故か不安ばかりを煽る。息苦しい程の不安に、凪は震えだす体を抑えることが出来ない。
「凪? どうしたの? 大丈夫、すぐに電気点くわよ」
 亜早乃が凪を抱きしめる腕に力を込める。凪は亜早乃の背中に腕を回し、震えの止まらない体を何とか抑えようとする。
 不意に、何かが凪の意識に触れた。ざらついた手触りのもので背中をなで上げられるような不快感。恐怖ばかりを煽るその感触に、凪は叫びだしそうになる己をきつく唇を噛むことで堪えた。
「お父さん、遅いわね………」
 亜早乃が呟き、そっと腕に込めていた力を緩めた。凪の顔を見下ろし、笑ってみせる。まだようやく周囲の物の輪郭が見える程度に闇の色に目が慣れてきた。その程度の視界のはずが、何故か凪にははっきりと亜早乃の笑みが見えた。
 凪の中の不安が更に膨れ上がる。
「ちょっと見てくるわね」
 一度凪を強く抱きしめ、亜早乃は立ち上がった。周囲の物の位置を手探りで確認しながらドアへと向かう。その姿までもがはっきりと見える。
「母さん、そっちは………っ!」
 頭で考えるより先に、凪は叫んでいた。不思議そうに亜早乃が振り返り、常の穏やかな笑みを返した。凪の中にある言い知れぬ不安を拭おうとするように………。
 それが最後だった。何の前触れ無く、亜早乃の体が前のめりに傾いた。その顔には変わらず穏やかな笑みがある。その笑みが僅かに疑問の色を映した。何故己の体が傾いていくのかが判らない、というように。
「母さん………ッッッ!」
 叫び、凪はソファを乗り越え亜早乃に駆け寄った。その体が床にぶつかる寸前、どうにか頭を支えられた。そのことに凪が安堵を覚える間もなく、恐怖が凪の全身を駆け抜けた。亜早乃は凪の膝に頭を預けたまま、微動だにしないのだ。先程のどこか不思議そうな表情のまま、薄く開かれた目に光は無かった。
「……か、ぁさん………ッッ?」
 不思議な感覚だった。亜早乃の体はつい先程までとなんら変わること無く体温を凪の腕に膝に伝えてきているというのに、その体は凪の呼びかけに反応しない。薄く開かれたままの目は、光も感情も宿しはしない。再び凪を振り返ることも無い。
 視界が急速に狭まり、凪は己が息をしているのかどうかもわからなくなる。小刻みに体が震えはじめ、それはすぐに全身を襲う。今、自分が何処にいるのか。何をしているのか。それが判らなくなる。恐怖に突き動かされるまま、叫びだしそうな衝動が腹の底から噴き出してくる。
「おや。こんなところに居たのかい?」
 不意に頭上から聞き慣れない声が響いた。男とも女ともつかないシルエットが、闇の中により深い闇を伴って浮かび上がった。その者の手には恭弘があった。まるで物を扱うかのように、パジャマの襟を掴み引きずっていた。
 恭弘を引きずってきたそのシルエットの主は、凪を真っ直ぐに見下ろし酷薄な笑みを零す。本能的な恐怖から、凪は己の身を守るより先に亜早乃の頭に腕を回しかばった。
「ほぅ。自分の身の安全よりそれの方が大事かい?」
 嘲りの言葉に凪はきつく唇を噛む。全身を縛る恐怖は変わらないが、その中に目の前の侵入者に対する深い怒りが混じりはじめていた。
「そこにいるのか?」
 別の男の声が響いた。その声に、凪はビクリと肩を震わせた。すぐに三人の男が闇に紛れて現れる。恐怖に突き動かされるように、凪は亜早乃の体を何とか引き寄せようとするが、うまくいかない。体は恐怖に震え、後ずさりをはじめる。
 そんな凪の姿を楽しげに眺めやり、四人の侵入者がそれぞれ凪に手を伸ばした。
「……あ、ぅあ………」
 来るな、と叫んだつもりだったが、凪の唇から漏れるのは力ない呻き声だけ。

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