刻のむこう 29

   23

 隆太郎達はゆっくりと目的の家に近付いていく。周囲は閑静なと称するに値する住宅街。夜の闇に包まれた静かな空気の中を、隆太郎含む男達は慎重に足を進めていく。目的の家の前に立ち止まり、中の気配を伺う。
(静か過ぎる? けど気配は確かにある………)
 胸中に零し、隆太郎は頭を持ち上げそうになる恐怖を捻じ伏せた。過去の過ちを再び犯すわけにはいかない。今度こそ………どのような方法を選択したとしても、あの時離してしまった手を再び掴むのだと。己に確認する。
「………行くよ?」
 囁くような声で男達に告げ、ドアノブに手を置いた。僅かに力を掛ければ何の抵抗も無くドアが開く。眉根を寄せ、隆太郎は意識を集中し中に踏み込んだ。足音を殺し、気配を殺し。静まり返った空気の中を泳ぐように足を進める。
 数歩と進まぬうちに異臭が鼻を衝いた。異臭を辿るように奥へと足を進め、隆太郎は突き当たりのドアを軽く押し中を覗く。けれどヒトの動く気配は無い。中は外の光が天窓から僅かに差し込むだけで闇の中に沈んでいる。大まかな物の輪郭は見えるものの、それ以上の視覚情報は皆無に近い。この部屋こそが異臭の発生源だった。
 隆太郎は懐から懐刀を取り出し後に続いている男達を手招き、部屋の中に踏み込んだ。途端、更に異臭が強くなり軽い吐き気を誘う。
 部屋の中は食器棚、本棚であった家具が原形を留めない程に壊され、中に納まっていたであろう物が無残に切り裂かれ散乱している。ソファであったはずの物は無残に切り裂かれ床の上に転がされている。
 足の踏み場も無い床を慎重に進めば、壁に背を預ける姿勢で一人の少年が力なく座り込んでいた。俯き加減のその面には見覚えがある。杵椙の夢の中で、そして晴楼と合流する前に見たあの映像の中にいた少年だ。
 少年を中心に放物線上に原形を無くしたヒトの破片も飛び散っている。その様にほんの微か眉根を寄せ、隆太郎は静かに踵を返した。外で待つ晴楼の元へと急ぐ。
 その背後で隆太郎の後に続いていた男が一人、少年の目の前に膝を突いた。
「………玉条凪くん、だね?」
 低い声で確認するように言葉を投げ、男は玉条凪の反応を待つ。僅かの沈黙を挟み、凪がゆっくりと視線を上げた。何の感情も浮かんでいない目が男を見返し、微かに頷く。安心させるように男がはっきりと頷き返し、言葉を続けた。
「無事で何より。この場は我々に任せて、一緒に来て欲しい」
 告げられた言葉に、漸く凪の目に小さく戸惑いの色が揺らめいた。何故そんな事を言うのか、と無言のうちに凪の目が問う。
「我々は君の味方だ。もう、何も恐い事はない。安心して良いんだよ」
 男が言葉を重ねたところで、ドアをくぐり隆太郎を伴った晴楼が現れた。晴楼の姿に男達は申し合わせたように道を開け、晴楼を迎える。凪の前に膝を突いていた男が後ろに下がり礼を取った。晴楼に言葉を向ける。
「当主殿。ここは我々が」
 しかし男の言葉を手を上げて制すると、晴楼は真っ直ぐに凪の前に進み出、視線を上げているのが精一杯という様子の凪の前に膝を突いた。真っ直ぐに凪と視線を合わせる。晴楼の目には、深い安堵と抑えきれない歓喜の色が覗いていた。
「………ご無事、でしたか……」
 周囲の者達には聞こえぬ程の吐息混じりの声で囁き、晴楼は溢れそうになる感情を目を伏せる事で抑えた。再び目を上げると、そっと返り血で朱に染まった凪の頬に手を伸ばす。
「良かった………」
 冷え切った凪の頬にそっと触れれば、抑えきれなかった言葉が唇を突く。僅かに凪が晴楼の手に頬を寄せる。目を伏せ晴楼の体温を静かに受け止める姿に、晴楼の中で痛い程様々な感情が暴れ狂う。やがてそっと安堵の溜息を零した。ゆっくりと目を上げ凪が晴楼の目を見詰め返す。

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