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お久しぶりです。

お久しぶりです。なんだかんだで忙しく、ネタも出てこなかったので更新さぼってました。久々にネタが思いついて1時間ちょいで書き上げたので、もしかしたら誤字脱字があるかも知れませんが、その時はコメント等で教えてくれると嬉しいです。




私は古本市が好きだ。フリーマーケットの端の一角の屋根すらない場所で明らかに本を日常的に読んでないだろうおばあさんが店番をしているあの空間が好きだ。散歩をしていてフリーマーケットがあったりすると必ず古本市の場所に行く。そこで30分は本を眺めているし、大体1冊くらいは本を買う。浪費家なので財布を意識的に持ち歩いてないから買えなかったりする。その時私は一旦家に帰り、お金を持って再度フリーマーケットに向かう。しかし、本屋では本を買うことはあってもそこまで店を周ることは無い。中古屋でも同様である。さらに、本自体も本屋でじっくり選んで買ったものよりも、古本市でふらっと買った本の方が面白く感じることが多い。なぜなのだろうか?

本屋や中古屋は明日を行きていくために売れる本を並べなければならない。売れる本は面白い本である。だから店に置いてあるのは”オモロ”が凝縮された本であることが多い。結果、本屋は”オモロ濃度”が高くなってしまう。しかし、濃度が高くなると”オモロ”を感じ取るセンサーが利かなくなってしまい、本当に面白い本を見つけられなくなるのだ。一方、古本市は”古本市で売られる程”面白くなかった本が基本的には並べられてあるのでセンサーが正常に働き、数少ない面白い本が手に入るのだとおもう。

何もこれは本に限った話ではないかも知れない。私は「なんかつまらないなぁ」と思いながら、Twitterをみていることが多い。そして私のような人は意外と少なくないのでは?と思う。そんな彼らの事を見て「そんなに面白くないならほかの事をすれば良いのに」という人も結構いる。しかし、彼らは本当にTwitterがつまらないのでは無い。むしろ、Twitter自体面白くて面白くて仕方が無いのだ。だけど、日常のようにつまらない塊の中に面白いのがあるわけでは無くて、ずっと面白いから面白く無くなるのだ。そして、日常よりも面白い事が多いからやめることができなくなる。そうして数多の時間を浪費した後に言うのだ、「今日はなんかつまらなかったなぁ」と。

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