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数珠繋ぎの幸せ探し


先日、
小さな幸せ探しを寝転んでしてみた。

そしたら、
朝起きた時から、寝るまで、小さな幸せは順繰り、私の足跡の如く続いているのに気付く。

エヴァンゲリオンで、
「幸せを数珠繋ぎにしてなんて生きては行けないんだよ。」
と言う言葉を真実だと思っていたけれど、誰からも認められる幸せではなく、自分自身で作り出した小さな幸せの数珠繋ぎで、人は生きているんじゃないかと思った。

だから、
…例えば、歯磨きとか、トイレ掃除とか、目玉焼きとか。
そう言う一つ一つを、雑用にしてしまうと、小さな幸せは現れない。
だって、ただこなすだけの雑用だもの。

目玉焼きのジュージューと言う音がしたら、サッと火を止め後は蒸らす。
皿洗いしていようとそのタイミングは外せない。
そうして、ふっくらとした半熟の目玉焼きが出来たら、ほらね、美味しそうでしょ?
それはやっぱり小さな幸せになる。
卵を焼くだけでしょ…じゃあ、紛れ当たりはあるけれど、マグレがやって来るかは分からない。

紛れ当たりに当たっても、それはそれで、小さな幸せになるけどね。
あんまりぎゅーぎゅーに、小さな幸せの積み重ねをするのも、それはそれで疲れるから、雑用の紛れ当たり半分、集中の小さな幸せ半分くらいが丁度良いのかも知れない。

多分、その匙加減は、その人それぞれの塩梅と、その日の気分。
出来ればぎゅーぎゅーの一歩手前。

ぎゅーぎゅーの一歩手前は、その人自身にしか分からない。時には、その人自身にも分からなくなることだってある。
常にバランスを保って生きるって、それはそれでストレスだから。
そんな時は、ぜーんぶ放り出したらいいと思う。ぜーんぶ放り出すときっと、幸せと感じるのってあるよね。

同じことを繰り返す毎日は安定に思えるけど、意外にいらないものを物陰に溜め込んで居たりするのもだから、ぜーんぶ放り出して、必要なものの再確認が本当は必要なのかもしれない。
そうして、自分の体を軽くすれば、バランスだって取りやすい。

小さな幸せだって、同じ事が幸せとは限らない。
だって、時は流れているんだもの。

立ち止まって再検討。
その繰り返しなのかもしれない。

その度に、さよならしたり、新たなやり方に変えたり…。
時の流れと同じように、やっぱり変わって行かないと、どこかで異臭を放ち出す。

…時が流れたから変わるのか?
…変わるから時は流れたのか?
ん〜。はてな。


年を経ると、加齢臭を放つけれど、もしかしたらそれは、変わる事が出来ずにこびり付いてしまった何かなのかもしれない。
…まぁ、年を取ったら、それも仕方ないよね。時の流れに新陳代謝が追いつかなくなるんだもの。
その時は、素直に受け入れるしかなさそう。

幸せなんて、本当に曖昧で、本人がそれで幸せと言えば幸せ。
その幸せを握り続ければ、悪臭に変わる。
でも、流れる時の中に、光る雲母みたいにキラキラしてるんじゃないかな。

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