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「悪魔とのおしゃべり」正しさについて

常識を疑え…とか、
あなたはあなたのままでいい…とか、
色々伝え方を変えて、同じテーマが繰り返されて書籍化されている。
それなのに、何を読んでも、ピッタリ実感できていなかった。
頭でっかちで、ただの知識。

でも、「悪魔とのおしゃべり」は、
胸がドキッとした。


苦しみは私達が「正しい」としている価値観から生まれる
抱え込んだ「正しさ」の数だけ「できないこと」が増えていく
「正しさ」という前提を疑うことで苦しみから解放される

「瑜伽みたいに、正しいだけじゃダメなんだよ。もうちょっとズルくならないと。」と、夫に言われた事があった。
その時は、ズルく生きるなんてダメでしょ?…と、思った。
この前は、上司に呼び出され、
「瑜伽さんは誠実なのね。」と言われ、凄く違和感だった。
とても誠実とは思えない上司に、そう言われても。
私は普通に生きてるだけだし…と、思った。

私の生きづらさは、正しく生きることにこだわっていたからだ。
「別に正しく生きなくたっていいじゃんねぇ。」
そう思ったら、凄く楽な気がした。

しかも、自分に正しさを追求していると、他人にも正しさを求めてしまい、
それもまたストレスになっていた。
自分もストレスになっているけど、相手からしたら、私は単なる『正しいことモンスター』でしかなかったろう。
もっと簡単に表現すれば、めんどくさい人や、嫌なやつ…かもしれない。

しかも、本文には、

生きるという事は誰かに迷惑をかけている。
自分が正しいと思っても、いい事 悪い事両方の側面を持っている。
ジャッジ自体が幻。
と、書いてある。
他人が、めんどくさい人、嫌な奴っと、思ったとしても、
そんなジャッジさえいらないのだ。

あ〜〜〜〜!  そんなのやめた!!

私が正しいとしていることは、本当に正しかったのか?
誰かから押し付けられた価値観ではなかったのか?

前々回も書いたけれど、私達は、誰かが作り出したフィクションを
当たり前として生きているだけなのだ。
正しささえ、フィクションの可能性がある。
もしかすると、
一昔前とは価値観が変わって、以前のフィクションでは通用しなくなったから、こんな本が、切り口を変えて、たくさん本屋に並ぶのかもしれない。

フィクションが変わるたび、自分の見直しをしなくちゃいけないなら、
初めから素直に、自分の好きな自分でいた方が良さそうだ。
私はこんな風に生きなくてはならない…
なんてないから、何者でなくても幸せ。
何者にもならなくていいのは、凄く楽ちんだ。

前々回とまたかぶるのだが、
所有という概念や、貨幣経済も誰かから植え付けられている…と、言っている。
それは、私も同感だ。
所有とか貨幣経済なんて、窮屈の最たるものだ。

インデアンには、所有と言う概念がなかったそうだ。
人間は自然の一部。それなのに、外人がやって来て、
「ここは私たちが所有する」
と、言われても、何を言っているのかチンプンカンプンだったそうだ。
人間も自然の一部という概念で生きていたら、確かに所有なんて言葉は生まれないのが理解できる。

切り口がによって、腑に落ちるもの、腑に落ちないものがある。
たとえ、同じ事が書いてあっても。
私には、悪魔とのおしゃべりが、ピッタリと来た。
これからは、悪魔も連れて、楽しく生きて行こうと思った一冊だった。
自分で自分を苦しめる必要はないのだと、思った。、

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