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夏目漱石 VS 自転車 〜短編「自転車日記」をツッコミ付きで解説する会〜

◆まえがき◆

こんにちは。
大逆転裁判、面白いですね!(時候の挨拶)

カプコンの「大逆転裁判」というゲーム、ご存知でしょうか。みなさんご存知の有名タイトル「逆転裁判」の、"はじまりの物語"です。
明治時代を舞台にしているこの作品には、イギリスに留学していた頃の夏目漱石をモデルにしたキャラクターが出てきます。
この人がもうマジで不憫で…!めちゃくちゃ不憫で面白くて、それまで何とも思っていなかったこの日本の偉人に、私は急に興味を持ちはじめました。

調べてみると(ていうかゲーム本編にも出てくる)、夏目漱石は非常に成績優秀な人だったのですが、性格はものすごくネガティブでクセがあり、さらに「自転車に乗るのがヘタクソ」という、字面だけで既に面白そうなエピソードを持つ人物だと知りました。
乗れなすぎて「自転車日記」という短編まで書いているということも同時に知りました。何それ?!

青空文庫でさっそく「自転車日記」を探します。ウワーマジで存在してる!ヤバい!ツッコミどころ満載!!!

…そういうわけで、夏目漱石のめんどくさいところが100%発揮されているこのあまりにも面白い短編に、解説という名の余計なツッコミをつけ、皆さんに紹介しようと思った次第です。

今絶賛解読中ですが、すでに愛着が倍増しになっております。
ぜひ、夏目漱石の世にもコミカルでかわいそうな姿を楽しんでください!


◆記事の読み方と前提知識◆

  • 先に言っておくのですが、長いです。書いてたら24,000字とかになってしまいました。Pixiv小説かな?

  • 青空文庫の原文(?)を読むと、勢いのまま書いたメモ書き的な文章だったのか、「、」はあっても「。」が全然無く、なかなか読みにくいものになっていました。ですので、私は自分の好きなところに句読点や改行や括弧などを入れました。全ては自分の読みやすさのためです。怒らないで!

  • 筆者は、国語は好きでも別に現代語訳を専門にしているとかではない、一般のド素人です。ふんわりとしか理解できてないところがありますし、たぶん間違えてるところもあると思います。温かい目で見て!!

  • 誤記などの指摘がある方は、TwitterのDMなどから、なるべく綿菓子のようなふわふわ言葉を使ってご連絡ください。お手柔らかにして!!!

  • 「自転車日記」のエピソードがあった時の時代背景や経緯について。
    夏目漱石は英語学(英語教育?)の研究のため、イギリス留学を命じられています。1900年-1902年の間滞在しました。
    また1890年代ごろ(19世紀後半の間ずっと?)、イギリスでは自転車が大流行していたそうです。


夏目漱石「自転車日記」


西暦一千九百二年 秋忘月忘日。
白旗を寝室の窓に翻(ひるがえ)して、下宿の婆さんに降を乞うや否や、婆さんは二十貫目の体躯を三階の天辺(てっぺん)まで運び上げにかかる。
運び「上げる」というべきを上げに「かかる」と申すは、手間のかかるを形容せんためなり。

  • 漱石の住んでいる下宿の3階まで、下宿のお婆さんが重たい体を「運び上げにかかる」様子が無駄に丁寧に描かれています。

  • 二十貫は約75kg。75kgってどんなかなと思って調べてみたら、どっしりした感じの体型でした。「でぷっ」ほどでは無いです。

階段を上ること無慮(むりょ)四十二級、途中にて休憩する事前後二回。
時を費す事三分五セコンドの後、この偉大なる婆さんの得意なるべき顔面が、苦し気に戸口にヌッと出現する。

  • このお婆さん、3階まで行くのに2回休憩を挟んで3分5秒かかっています。かかりすぎじゃない?ご高齢なので仕方ないのかな。

  • わざわざお婆さんが到着するまでの時間を測っているところに、なんとも漱石の根暗臭が漂っています。

  • ぽっちゃりしたお婆さんがハアハア言いながら漱石の部屋の扉から現れたわけですね。「ヌッ」と。

あたり近所は狭苦しきばかり也。
この会見の栄を肩身狭くも双肩に荷になえる余に向って、婆さんは媾和(こうわ)条件の第一款として命令的に左のごとく申し渡した。
「自転車に御乗んなさい」

  • ただのお婆さんの提案を、あたかも重苦しい命令のように、講和条約を結ぶ時のような緊張感を持って受け取る漱石。この人、遊びに誘われるの好きじゃないですよね、絶対。

  • 「自転車にお乗んなさい」…これからはじまる悲劇を象徴する一言です。ワードアートかなんかで書いてみたいですね。

 ああ悲いかな、この自転車事件たるや。
余はついに婆さんの命に従って、自転車に乗るべく…否、自転車より落るべく、「ラヴェンダー・ヒル」へと参らざるべからざる不運に際会せり。

  • 自転車事件!よっぽど印象に残るブザマ・オブ・ザ・イヤーだったんでしょうね。「ああ悲しいかな」と言っています。自転車について喋る時に、こんな悲しそうにすることある?

  • 「自転車に乗るべく…否、自転車より落るべく」という表現で、自転車を使ってこれから漱石が何をしていくか、ハッキリとわかってしまうこの悲哀。
    乗れてはなかったんですね。落ちてたんですね。

  • とにかく、お婆さんの「自転車にお乗んなさい」という提案に従って、ラヴェンダーヒルに向かいます。ゴーゴー!

監督兼教師は○○氏なり。
悄然(しょうぜん)たる余を従えて、自転車屋へと飛び込みたる彼はまず、女乗の手頃なる奴やつを撰(えら)んでこれがよかろうと云う。
その理由いかにと尋ぬるに、
「初学入門の捷径(しょうけい)はこれに限るよ」
と、降参人と見てとっていやに軽蔑した文句を並べる。

  • ○○さんと、名前が伏せられているので、ここでは監督さんと呼んでおきます。しかしこの「監督官」という言い方、いかにも自分は囚人か奴隷で、命令によってこの苦行をやらされている感が出ています。

  • 「初心者にピッタリだから、女性用の自転車で練習してごらん」と言う監督さん。

  • 自転車の歴史を軽く調べてみたんですが、漱石に紹介されたこの女性用自転車は、大人向けの三輪車のようなものではないかと疑っています。
    対して男性用は、前輪が異様に大きくバランスがとりにくそうなアレと思われます(ハイホーラーとか、オーディナリーとか呼ばれているようです。また、これじゃなかったとしても、そもそも当時の自転車はだいぶデカく、またがっても足が地面につかない乗り物に見えます)。いや無理だよ。

  • おそらく親切心から女性用をオススメされたのに、「乗れないと思って侮られている」と深読みし、カチンときているらしい漱石。

  • 破滅の匂いがプンプンするぜ。

不肖なりといえども、軽少ながら鼻下に髯(ひげ)を蓄えたる男子に、女の自転車で稽古をしろとは情ない。
「まあ落ちても善いから当り前の奴でやってみよう」
と抗議を申し込む。
もし採用されなかったら「丈夫玉砕瓦全(がぜん)を恥ず」とか何とか、珍汾漢(ちんぷんかん)の気炎を吐こうと暗に下拵(したごしらえ)に黙っていると、
「それならこれにしよう」
と、いとも見苦しかりける男乗をぞあてがいける。

  • 「男たるモノ…」と余計なプライドを持っているせいで、「女性用のじゃなくて大丈夫ですよ、落ちて当たり前の体でやってみましょう」と言ってしまう漱石。自分でハードルを上げています。というか、この時ヒゲ生えてたんですね。

  • 「丈夫玉砕瓦全を恥ず」は、玉も瓦も、硬くて完全な形がずっと残るもの…ということから、「何にも挑戦せず、名誉の負傷もせずにいる人」と解読しています。つまり、もし監督さんに「いやいや君には女性用で十分だって」と言われたら、「挑戦しないでいるのは恥だろうが!」とか言ってゴネてやろうと画策していたわけですね。

  • どんだけ女性用に乗りたくなかったんだよ笑

思えらく能者筆を択(えら)ばず、どうせ落ちるのだから車の美醜などは構うものかと、あてがわれたる車を重そうに引張り出す。
不平なるは力を出して上から「ウン」と押して見ると「ギー」と鳴る事なり。
伏して惟(おもん)みれば、関節が弛(ゆる)んで油気がなくなった老朽の自転車に、万里の波濤
(はとう)を超えて、遥々(はるばる)と逢いに来たようなものである

  • 監督さんによって、ギイギイと錆びた音のする男性用自転車をあてがわれた漱石。

  • そうとう老朽化した自転車だったっぽいですね。遠路はるばる出向いて、こんなオンボロに会いに来たのか…とちょっと不満を漏らしています。

自転車屋には恩給年限がないのか知らんと、ちょっと不審を起してみる。
思うにその年限は疾(と)ッくの昔に来ていて、今まで物置の隅に閑居静養を専らにした奴に違ない。
計らざりき東洋の孤客に引きずり出され、奔命に堪えずして悲鳴を上るに至っては、自転車の末路また憐れむべきものありだが、せめては降参の腹癒(はらいせ)に、この老骨をギューと云わしてやらんものをと、乗らぬ先から当人はしきりに乗り気になる。

  • あんまりボロなので、「こいつは自転車としてはとっくに定年をすぎていて、隠居した身なんだろうな…」みたいな妄想を膨らませる漱石。

  • 自分は自転車に少しも上手く乗れる気がしないので、せめてもの腹いせにこのご老体のような自転車を「ギュー」と鳴るまで酷使してやろう…と、まだ自転車に乗ってもいない内から、ヘンなところで乗り気になっています。

然るに、ハンドルなるもの神経過敏にて、こちらへ引けば股にぶつかり、向へ押しやると往来の真中へ馳け出そうとする。
乗らぬ内から、かくのごとく処置に窮するところをもって見れば、乗った後の事は思いやるだに涙の種と知られける。

  • 「神経過敏」…?ハンドルをちょっと切っただけで自転車が全然別の方を向いてしまう、あの現象のことを言っているんでしょうか笑

  • ここでは、自転車を股間にぶつけている漱石が見られます。字面だけでもう面白いです。股間に自転車をぶつける夏目漱石。

  • 「乗る前からこんなに苦労してるんだから、乗ったらもっと酷かろう…」と、今から涙がちょちょぎれています。かわいそう。

「どこへ行って乗ろう」
「どこだって今日初めて乗るのだから、なるたけ人の通らない、道の悪くない、落ちても人の笑わないようなところに願いたい」
と、降参人ながらいろいろな条件を提出する。

  • 精神的なダメージを出来るだけ回避しようと必死な漱石。自分のみっともない姿を人に笑われるのがよっぽど嫌と見えます。

仁恵なる監督官は余が衷情(ちゅうじょう)を憐(あわ)れんで、「クラパム・コンモン」の傍人跡、あまり繁(しげ)からざる大道の、横手馬乗場へと余を拉(ら)っし去る。
しかして後、
「さあここで乗って見たまえ」
という、いよいよ降参人の降参人たる本領を発揮せざるを得ざるに至った。
ああ悲夫(かなしいかな)。

  • 監督さんはクラッパム・コモンという、ロンドンの都市公園の馬乗り場へと漱石を連れてきます。漱石的には「拉致された」くらいのやらされ感です。

  • 「さあここで乗ってごらん」と宣告された漱石。とうとう、この自転車と真剣に向き合わなければならない瞬間が来てしまいました。

  • 「ああ悲しいかな」という言葉で、乗れもしない自転車に乗れと言われて気分が落ち込んでいる漱石の様子が、切々と伝わってきます。
    マジでやりたくなさそう。かわいそう。

  • 筆者は自転車に乗れるので、ケラケラと高みの見物を決め込んでいますが、「自転車」を「ボルダリング」とか「キツめの登山」とかに置き換えたら全然笑えなくなりました。そりゃ「ああ悲しいかな」とも言うわい。

 「乗って見たまえ」とはすでに知己の語にあらず。
その昔本国にあって時めきし時代より、天涯万里孤城落日資金窮乏の今日に至るまで、人の乗るのを見た事はあるが、自分が乗って見たおぼえは毛頭ない。

  • 「の、乗ってみたまえって言われても…」となっている漱石。

  • 「天涯万里〜」のくだりにちゃっかり「資金窮乏」を入れているのがウケますね。漱石がイギリス留学した時、日本政府が出してくれた留学資金が少なすぎて生活が困窮していたらしいです。報告書にも「小遣いが少なすぎて暮らしていけん」みたいな不満を書いていた気がします。

去るを「乗って見たまえ」とは、あまり無慈悲なる一言と、怒髪鳥打帽を衝いて猛然とハンドルを握ったまでは、あっぱれ武者ぶりたのもしかったが、いよいよ鞍(くら)に跨(またが)って顧盻(こけい)勇を示す一段になると、おあつらえ通りに参らない。

  • 「乗り方なんて何にも知らないのにいきなり乗れとは、あんまり無慈悲じゃないか!」と内心ご立腹の漱石。怒りで逆だった髪の毛が、天ではなく(怒髪天なら天を衝きますが)、自分の被っているハンチング(鳥打帽)を内側から衝いているような書かれ方です。なんだ、大した怒りじゃないですね。

  • 怒った勢いでガッ!とハンドルを握ったけれども、サドルに跨るところで、気勢も勇気も削がれてしまったようです。

いざという間際でずどんと落ること妙なり。
自転車は逆立も何もせず至極落ちつきはらったものだが、乗客だけはまさに鞍壺(くらつぼ)にたまらず、ずんでん堂とこける。
かつて講釈師に聞いた通りを、目のあたり自ら実行するとは、あにはからんや。

  • 「鞍壺」というのは、牛や馬に付ける鞍の、またがる部分のことです。いちいち自転車のことを馬か何かのように表現するのが面白いです。

  • サドルにもろくに跨がれないまま、ズンデンドウ!とコケた漱石。

  • 「講釈師」というのは、講談や講釈と言った伝統芸能をする人のことです。机を扇子でリズミカルに叩きつつ、昔の合戦や恋物語などについてお話をしてくれます。
    漱石はおそらく、自転車についての講釈を日本で聞いたことがあったのでしょう。「以前講釈師が話していた通りのことになってしまうと、あの時の自分がどうして予測できようか…」となっているんでしょうね。

 監督官云う。
「初めから腰を据すえようなどというのが間違っている。ペダルに足をかけようとしても駄目だよ。ただしがみついて車が一回転でもすれば上出来なんだ」
と、心細いこと限りなし。

  • 自転車って腰を据えて乗るものではないんですか?!
    いや、現代の自転車ならそうなんでしょうが、漱石が乗っているのはおそらく前輪が異様に大きいアレです。腰など据えられるはずがありません。夏目漱石には、ぜひ現代の自転車に乗ってみてほしいですね。腰を据えられる喜びを教えてあげたいです。

  • 自転車に乗るコツを聞いたのに「しがみついておけ」は確かに酷いですね笑

ああ吾事休矣(わがこときゅうす)、いくらしがみついても車は半輪転もしない。
ああ吾事休矣としきりに感投詞を繰り返して、暗に助勢を嘆願する。

  • 「万事きゅうす」は「もはやなすすべもない、全部おしまいだ」という意味なので、「吾事休矣(わがこときゅうす)」はさしずめ、「僕はおしまいだ」ってところでしょうか。

  • ワーワー騒いで、遠回しに助けてくれー!とアピる漱石。ウケますね。

かくあらんとは兼て期したる監督官なれば、近く進んで
「さあ、僕がしっかり抑えているから乗りたまえ。おっとそう真ともに乗っては顛ひっくり返る。そら見たまえ、膝を打ったろう。今度はそーっと尻をかけて、両手でここを握って…よしか、僕が前へ押し出すから、その勢いで調子に乗って馳け出すんだよ」
と、怖がる者を面白半分前へ突き出す。

  • 監督さんに車体の後ろを支えられながら、なんとかかんとか自転車に乗る漱石。子どもが自転車の練習をするようで微笑ましいです。

  • しかし、本人の心のうちには「怖がる者を面白半分」と、被害者意識が強めに出ているようです。

然るにすべて、これらの準備すべて、これらの労力が突き出される瞬間において
砂地に横面を抛(ほう)りつけるための準備にして、かつ労力ならんとは、実に神ならぬ身の誰か知るべき底(てい)の驚愕(きょうがく)である。

  • しかし、「そーっとサドルに尻をかけて、両手でハンドルを握って、監督さんから前に押し出してもらって…」という労力の後、見事にぶっ倒れ、体の側面を地面に叩きつけることになった漱石。い、痛え〜!

  • 「かつ労力ならんとは、実に神ならぬ身の誰か知るべき底の驚愕である」の解読がうまくできなかったので、分かる方がいたらぜひ教えてもらいたいです。「これの何が楽しいんだ…」となっていたことは間違いないと思うんですが…笑

ちらほら人が立ちどまって見る。にやにや笑って行くものがある。
向うの樫(かし)の木の下に乳母さんが、小供をつれてロハ台に腰をかけてさっきからしきりに感服して見ている。
何を感服しているのか分らない、おおかた流汗淋漓(りゅうかんりんり)大童(おおわらわ)となって、自転車と奮闘しつつある健気な様子に見とれているのだろう。
天涯この好知己(こうちき)を得る以上は、向脛(むこうずね)の二三カ所を擦りむいたって惜しくはないという気になる。

  • ドタバタしていたら、道ゆく人がチラホラ立ち止まって、漱石の方を見てニヤニヤしているではありませんか。これこそ一番、あの偏屈おじさんが避けたかったものだろうと思うのですが。

  • しかしその中に、感心したように彼を見つめる人がありました。子どもをつれた乳母さんです。漱石は「自転車と奮闘する私の健気な姿に見惚れているのだろう」と勝手に納得し、勝手に勇気を得ています。いいぞいいぞ!女性が見ているぞ!

「もう一遍頼むよ、もっと強く押してくれたまえ、なにまた落ちる? 落ちたって僕の身体だよ」
と、降参人たる資格を忘れて、しきりに汗気炎を吹いている。

  • 見守る女性がいるのに勇気づけられて、とんでもない強がりを言ってみせる漱石。がんばれがんばれ!

すると出し抜に後ろから「Sir ! 」と呼んだものがある。
はてな、滅多な異人に近づきはないはずだがとふり返ると、ちょっと人を狼狽せしむるに足る的の大巡査がヌーッと立っている。

  • すると、後ろから「そこのお方!」と声をかけられます。なんだろうと後ろを見てみると、後ろにギョッとするくらい背の高いお巡りさんが立っていたのです。

  • いやそれにしても漱石、人に対して「ヌッ」を使いすぎじゃないでしょうか。

  • もしかして、自分以外の人間のことみんな妖怪だと思ってる?

こちらはこんな人に近づきではないが、先方ではこのポット出のチンチクリンの田舎者に近づかざるべからざる理由があってまさに近づいたものと見える。
その理由に曰いわく、
「ここは馬を乗る所で自転車に乗る所ではないから、自転車を稽古するなら往来へ出てやらしゃい」

  • お巡りさんに、「ここは馬が通るところだから、自転車の稽古は別の道でやってくれ」と注意されてしまいました。いやあ、大人がこう言う風に言われるのって、地味にダメージでかいですよね…。

「オーライ謹んで命を領す」
と、混淆式(こんこうしき)の答に博学の程度を見せて、すぐさまこれを監督官に申出る。
と、監督官は降参人の今日の凹(ヘコ)み加減充分とや思いけん、
「もう帰ろうじゃないか」
と云う。

  • なけなしのプライドを振り絞り、お巡りさんにかろうじて「仰せの通りにいたします」的な意味合いの、英語と日本語が入り混じった?ちょっとインテリな返しをする漱石。

  • 監督さんに「別の道でやろう」と提案しますが、漱石のメンボコ(メンタルボコボコ)具合がちょっと可哀想になってきたのか、監督さんには「もう帰ろう」と言われてしまいました。なんだこれ。泣ける。

すなわち乗れざる自転車と手を携えて帰る。
「どうでした」
と婆さんの問に、敗余の意気をもらすらく車嘶(いなな)いて、白日暮れ耳鳴って秋気来きたるヘン。

  • オンボロ自転車を押して、下宿に帰ってくる漱石。

  • 下宿のお婆さんの「どうでした」という言葉には、オンボロが「ぎいい」と悲しい音で返事をするのみでしたとさ…。

* * *

 忘月忘日 
例の自転車を抱いて、坂の上に控えたる余は、徐(おもむろ)に眼を放って遥(はるか)あなたの下を見廻す。
監督官の相図を待って、一気にこの坂を馳け下りんとの野心あればなり。

  • おおおお!例の自転車を携え、坂の上に佇む漱石…今日はなんだか頼もしい感じです!メンタルも復活したらしい!

  • 今日はこの坂を一気に駆け降りちゃおうという魂胆のようです!

坂の長さ二丁余、傾斜の角度二十度ばかり、路幅十間を超こえて人通多からず。
左右はゆかしく住みなせる屋敷ばかりなり。
東洋の名士が自転車から落る稽古をすると聞いて、英政府が特に土木局に命じてこの道路を作らしめたかどうだか、その辺はいまだに判然しないが、とにかく自転車用道路として申分のない場所である。

  • 坂の長さは2丁(218mくらい)、あるみたいです。角度20°というのが、それはめちゃめちゃ急じゃないかと思うのですが、漱石にはそう感じられたと言うことでしょうか。

  • 道幅は十間(18mくらい)。ええ?!なんだこの道は!めっちゃ広いですね!?そんな広くて急な坂、ロンドンにあったかな…?!周りはお屋敷に囲まれていて、まるであつらえたかのように自転車の練習にピッタリだそうです。前述の色々を考えると納得感があります。

  • そして漱石はいまだに自転車に「乗る練習」ではなく「落ちる練習」だと思っています。

余が監督官は巡査の小言に胆を冷したものか、乃至(ないし)はまた余の車を前へ突き出す労力を省はぶくためか、昨日から人と車を天然自然ところがすべく、特にこの地を相し得て余を連れだしたのである。

  • 前回、異様に背の高いお巡りさんに注意されたのを引きずってか、今日はちゃんと歩行者や車が通る道を監督さんが見つけてきたようです。

  • 漱石はいつも通り捻くれたものの見方をしているので、「坂道に来たのは私の自転車を押す手間を省くためじゃないか」と疑っています。全くしょうがないおじさんだ。

 人の通らない、馬車のかよわない時機を見計ったる監督官は、
「さあ今だ早く乗りたまえ」という。
ただしこの乗るという字に註釈が入る。
この字は吾(われ)ら両人の間には、いまだ普通の意味に用られていない。
わがいわゆる「乗る」は彼らのいわゆる「乗る」にあらざるなり。
「鞍に尻をおろさざる」なり。「ペダルに足をかけざる」なり。
「ただ力学の原理に依頼して毫(ごう)も人工を弄ろうせざる」の意なり。
「人をもよけず、馬をも避けず、水火をも辞せず、驀地(ばくち)に前進する」の義なり。

  • 監督さんにとってと、自分にとっての「乗る」という言葉の意味にいかに隔たりがあるか、めちゃめちゃ必死に語っている漱石。

  • 漱石にとっての「乗る」とは、「サドルに尻を乗せてない」「ペダルに足をかけてない」「自然の力学に全てを委ね、自分から何かを操作することは一つもない」「人も馬も避けないし、通り道に水があろうが火があろうが気にしない」「ひたすら真っ直ぐ、猛烈な勢いで前進する」と言う意味らしいです。なんということだ。

  • サドルにもペダルにも体重を預けてないらしいのですが、ヤツは逆にどうやって自転車に乗っているんでしょうか。もしかしてマジで「しがみついている」のか…?

去るほどにその格好たるや、あたかも疝気持(せんきもち)が初出(でぞめ)に梯子乗(はしごのり)を演ずるがごとく、吾ながら乗るという字を濫用してはおらぬかと危ぶむくらいなものである。

  • 「疝気」というのは下腹部が痛む病気で、「梯子乗り」というのは、空中に立てた大きな梯子の上でする曲芸のことです。つまり、腹痛の人がアンバランスな乗り物の上で曲芸をしているくらいの腰の曲がりっぷりということでしょうか。かなり見ていて不安になります。

  • とにかく漱石にとっての「乗る」とは上記のような状態のことで、「我ながらこれは本当に『乗る』で合っているのか、『乗る』に失礼ではないか」みたいなことを考え始めているようです。

されども乗るはついに乗るなり。乗らざるにあらざるなり。
ともかくも人間が自転車に附着している也。
しかも一気呵成に附着しているなり。

  • しかし、監督さんに「さあ今だ乗りたまえ!」と言われたからには、今乗らねばなりません。ついに自転車で坂を降り始めた漱石!ゴーゴー!

  • 「人間が自転車に付着する」なんて言い方見たことありますか?

  • ない。

  • なんだか今、暴走する自転車にへばりついているガムくらいの無力さを、漱石に感じ始めました。

この意味において乗るべく命ぜられたる余は、疾風のごとくに坂の上から転がり出す。
すると不思議やな左の方の屋敷の内から拍手して、吾が自転行を壮にしたいたずらものがある。
妙だなと思う間もなく、車はすでに坂の中腹へかかる。

  • 疾風のように坂の上から駆け降り始めた漱石の短い旅路を、お屋敷の中から拍手して盛り上げはじめたイタズラっ子がおりました。豪速の箱根駅伝のような感じでしょうか。

今度は大変な物に出逢った、
女学生が五十人ばかり行列を整えて向うからやってくる。
こうなってはいくら女の手前だからと言って
気取る訳にもどうする訳にも行かん。
両手は塞がっている。腰は曲っている。
右の足は空を蹴っている。
下りようとしても車の方で聞かない。
絶体絶命。
しようがないから自家独得の曲乗のままで女軍の傍をからくも通り抜ける。

  • すると今度はなんと、50人くらいの女学生の行列が向こうからやって来たではありませんか!マジか。すごい大群です。50人。

  • 漱石はなんとなく女性の前で見栄を張りたがるところがありますが、今は「腹痛の人が曲芸をしているような状態」です。どう格好つけることも出来ません。ぜ、絶体絶命!

  • 両手は塞がり、右足は空を蹴り、腰は曲がり、かと言って降りることも出来ず、独特な「夏目漱石的乗車ポーズ」を維持したまま、女学生の大群をからくも避け、通り越します。ほっ…。

ほっと一息つく間もなく車はすでに坂を下りて平地にあり。
けれども毫(ごう)も留まる気色けしきがない。
しかのみならず向うの四ツ角に立ている巡査の方へ向けてどんどん馳かけて行く。
気が気でない。
今日も巡査に叱られる事かと思いながらも、やはり曲乗の姿勢をくずす訳に行かない。

  • しかし悪夢は終わりません。すでに坂は下り切っているのに、自転車が少しも止まる気配を見せないのです。それだけでなく、向こうに立っているお巡りさん(またお巡りさん)の方にどんどん猛進していきます。ヤバい!今度こそぶつかる!お巡りさんに怒られる!

自転車は我に無理情死を逼(せま)る勢でむやみに人道の方へ猛進する。
とうとう車道から人道へ乗り上げ、それでも止まらないで、板塀(いたべい)へぶつかって逆戻をする事一間半、危くも巡査を去る三尺の距離でとまった。
「大分御骨が折れましょう」
と笑ながら査公が申された故、答えて曰く
「イエス」。

  • そのまま、恋人に無理心中を迫るかのごとき切実な勢いで歩道に突っ込んでしまった漱石(なんじゃそりゃ)。
    自転車はドカッ!と板塀にぶつかり、反動で一間半(3mより足りないくらい)後ろに下がり、危うくお巡りさんにもぶつかりそうになりましたが、三尺(1mくらい)の距離を残してギリギリ止まりました。ホッ。

  • 「大変でしたね」と、笑顔で声をかけてくるお巡りさん。漱石はクタクタのヘトヘトになりながら「イエス」とだけ答えるのでした。

* * *

 忘月忘日
「……御調べになる時はブリチッシュ・ミュジーアムへ御出かけになりますか」
「あすこへはあまり参りません、本へやたらにノートを書きつけたり棒を引いたりする癖があるものですから」
「さよう、自分の本の方が自由に使えて善ですね、しかし私などは著作をしようと思うとあすこへ出かけます……」
「夏目さんは大変御勉強だそうですね」
と細君が傍から口を開く。

  • この日の日記は、漱石と友人?の会話から始まります。ちょっとどちらが喋ってるのか分からないんですが、「大英博物館に勉強をしに行ったりするのですか?」「いえ、あんまり行きません」という会話があります。
    漱石か友人のどちらかが、本を執筆する時などに大英博物館にわざわざ行っていたようです。

  • すると、友人の妻が「夏目さんはたいへん勉強家なのだそうですね」と話に加わります。

「あまり勉強もしません、近頃は人から勧すすめられて自転車を始めたものですから、朝から晩までそればかりやっています」
「自転車は面白うござんすね、宅ではみんな乗りますよ、あなたもやはり遠乗をなさいましょう」

  • 「あまり勉強"も"しません」とあるので、さっき「大英博物館にはあんまり行きません」と答えていた方が漱石かもしれません。出不精。

  • 勉強そっちのけで自転車の練習をしているらしい漱石。あれ、意外とちゃんとやっていますね。最初はあんなにイヤイヤやらされていたのに…。

  • すると、友人の妻は「うちではみんな自転車に乗りますよ。夏目さんももちろん、遠乗りに行かれるのでしょうね」的なことを無邪気に言います。ナメるなよ。この人が遠乗りなんて行けるわけないだろ。

遠乗をもって細君から擬(ぎ)せられた先生は、実に普通の意味において乗るちょう事のいかなるものなるかをさえ解し得ざる男なり。
ただ一種の曲解せられたる意味をもって坂の上から坂の下まで辛うじて乗り終(おお)せる男なり。

  • ここの「先生」とは漱石を指しているのでしょうね。
    「遠乗り、しますよね?」と奥さんに聞かれた漱石は、客観的に自分を顧みます。
    「いやいや…コイツは普通に自転車に"乗る"のがどういうことかすらわかってない男だぞ…」
    「かなり独特な乗り方で、坂の上から下までかろうじて乗りおおせただけの男だぞ…」

  • 自覚があるようで何よりです。

遠乗の二字を承って心安からず思いしが、掛直(かけね)を云うことが第二の天性とまで進化せる二十世紀の今日、この点にかけては一人前に通用する人物なれば、如才なく下のごとく返答をした。
「さよう遠乗というほどの事もまだしませんが、坂の上から下の方へ勢よく乗りおろす時なんかすこぶる愉快ですね」

  • 「遠乗り」という言葉に漱石は心中穏やかではないのですが、「話を盛ることに関しては一人前だぜ俺は」とかいう、よく分からない自負も持っていますから、愛想良く「坂の上から自転車で駆け降りるのなんか気持ちいいですよね」と答えてしまいました。ウソつけ!

  • 「自転車日記」における夏目漱石、女性の前で見栄を張ろうとして自滅するパターン多すぎ問題を提唱します。どうせロクなことにならないんだから、見栄を張るのをやめたら…と言ってあげたいですね。切実に。

 今まで沈黙を守っておった令嬢は、こいつ少しは乗できるなと疳違(かんちが)いをしたものと見えて、
「いつか夏目さんといっしょに皆で
ウィンブルドンへでも行ったらどうでしょう」と、父君と母上に向って動議を提出する。

  • すると、今まで黙っていた友人の娘さんが、こいつ少しは乗れるのかなと勘違いして、「夏目さんと私たち家族でウィンブルドンに遠乗りに行きましょう」と言い始めました。ウ、ウワーーーーーーーッ!!!!!

  • 大ピンチ!!!!!!!!

  • どうする漱石(どうする家康)?!
    こちとら少しも乗れませんけど?!

父君と母上は一斉に余が顔を見る。
余ここにおいてか、少々尻こそばゆき状態に陥るのやむをえざるに至れり。

  • 友人夫妻は揃って「娘はこう言っていますけど、どうされます?」の顔をして(想像です)、漱石を見つめます。
    漱石のやっちまった感というか、焦りがじわじわ大きくなってくるのがわかりますね笑

さりながら妙齢なる美人より申し込まれたるこの果し状を、真平(まっぴら)御免蒙(ごめんこうむ)ると握りつぶす訳には行かない。
いやしくも文明の教育を受けたる紳士が、婦人に対する尊敬を失しては生涯の不面目だし、かつやこれでもかこれでもかと余が咽喉(のど)を扼(やく)しつつある、二寸五分のハイカラの手前もある事だから、ことさらに平気と愉快を等分に加味した顔をして、
「それは面白いでしょうしかし……」

  • 落ち着いて。これは果たし状では、ない。ただのサイクリングのお誘いです。けれども腹痛サーカスみたいな自転車の乗り方しかできない漱石にとっては、この申し出は美女からの果たし状のように思われたのです。

  • 「この決闘、死ぬほど受けたくない!受けたくはないが、お嬢さんからのお誘いを真っ向から撥ねつけるわけにもいかない!」と迷う漱石。
    スーツの高い襟(「私の喉を押さえつけつつある二寸五分(=7.5cm)のハイカラ」とあったので、このハイカラは高い襟のことだと解釈しました。「西洋の精神を気取りたい心に首を絞められている」と読んでも良いかもしれません)をつけていればなおのこと、紳士を気取らねばなりません。

  • 当たり障りのない断り方を…となった結果、「それは面白いでしょうが、しかし…」というボヤっとした返答になりました。

「御勉強で御忙しいでしょうが、今度の土曜ぐらいは御閑(おひま)でいらっしゃいましょう」
と、だんだん切り込んでくる。

余が「しかし……」の後には、必ずしも多忙が来ると限っておらない。
自分ながら何のための「しかし」だかまだ判然せざるうちに、こう先(せん)を越されてはいよいよ「しかし」の納り場がなくなる。

  • 漱石が「しかし…」の後の言い訳を考えてもいない内から、娘さんからの「土曜くらいはお暇でしょう?」攻撃が始まってしまいます。
    がんばれ!がんばって断れ!

「しかしあまり人通りの多い所ではエー……アノーまだ練(な)れませんから」
と、ようやく一方の活路を開くや否や、
「いえ、あの辺の道路は実に閑静なものですよ」
とすぐ通せん坊をされる。
「進退これきわまるとは啻(ただ)に自転車の上のみにてはあらざりけり」
と独(ひと)りで感心をしている。

  • 「エー…アノー…」と典型的な日本人の口癖が出てしまう漱石。ウケますね。

  • 「人の多いところではまだちょっと…」と口ごもると、「いえいえ、あの辺の道路は人通りが少ないですよ」と娘さんにすぐさま返されてしまいました。実力差のありすぎる会話のラリーを見せつけられてますね。

  • 「進めも退がれもしないどん詰まりの状況というのは、何も自転車の上だけで起こるのではないんだなあ…」と、他人事のようにのん気に考えてはじめてしまいました。いやいや思い出して!今絶賛ピンチですよ!

感心したばかりでは埒らちがあかないから、この際唯一の手段として「しかし」をもう一遍繰くり返す。
「しかし……今度の土曜は天気でしょうか」
旗幟(きし)の鮮明ならざること夥(おびただ)しい。
誰に聞いたってそんな事が分るものか。
さてもこの勝負、男の方負とや見たりけん。

  • 感心している場合ではありません。漱石は我が身を守るため、ダメ押しとばかりに「しかし…今度の土曜は晴れるでしょうか」と言ってみました。

  • 「旗幟鮮明(きしせんめい)」は、主義や主張がはっきりしていることを表す四字熟語です。今の漱石はその真逆で、ちっとも態度がはっきりしていないと言うことですね。
    「そもそも今度の土曜の天気がどうなるかなんて、誰も分かるわけ無いだろうが。この勝負、男の方が負けだな…」と漱石は自分でも思い始めます。諦めモードです。

審判官たる主人は仲裁乎(ちゅうさいこ)として口を開いて曰く、
「日はきめんでもいずれそのうち、私が自転車で御宅へ伺いましょう、そしていっしょに散歩でもしましょう」――
サイクリストに向って「いっしょに散歩でもしましょう」とはこれいかに。
彼は余を目してサイクリストたるの資格なきものと認定せるなり。

  • あんまり漱石がモグモグ言っているので、友人は助け舟を出そうとしてくれのでしょう、「まあまあ。日どりは今決めなくても、そのうち私が自転車でそちらに向かいましょう。そしたら一緒に散歩でもしましょう」と言ってくれます。

  • しかし、それをまた「サイクリストに向かって散歩しましょうとは。彼は私をサイクリストとは認めていないらしい」などと卑屈に捉える漱石。

  • あんな態度をとってれば、そりゃ「乗れないのかな」「行きたくないのかな」と思われるでしょ!笑

 このうつくしき令嬢と「ウィンブルドン」に行かなかったのは、余の幸であるかはた不幸であるか、考うること四十八時間、ついに判然しなかった。
日本派の俳諧師(はいかいし)これを称して、朦朧体(もうろうたい)という。

  • 2日間も「あの美しいお嬢さんとウィンブルドンに行くべきだったか、行かなくて正解だったか」とモヤモヤ考え続けていたらしい漱石。

  • 朦朧体というのは絵画の技法で、風景の空気感とか霞を表現するのに、ぼやっとした描き方をするアレのことらしいです。それくらい答えがハッキリしなかったということでしょうか。

* * *

 忘月忘日 
数日来の手痛き経験と精緻なる思索とによって、余は下の結論に到着した。
「自転車の鞍とペダルとは、何も世間体を繕うために漫然と附着しているものではない。鞍は尻をかけるための鞍にして、ペダルは足を載せかつ踏みつけると回転するためのペダルなり。ハンドルはもっとも危険の道具にして、一度(ひとたび)これを握るときは人目を眩(くら)ませしむるに足る、目勇(めざま)しき働きをなすものなり」

  • 連日の身体を張った練習によって、漱石はある結論に辿り着きます。痛みを伴わない教訓には意義がないとはよく言ったものです。
    「サドルもペダルも、何の意味もなくくっついているものではない」
    「サドルは尻を乗せるためのもので、ペダルは足を乗せたり踏みつけて回転させるためのものだ」
    「ハンドルは一番危険な部位で、これを握ると目も眩むほどの目覚ましい働きをするものなのだ」

  • え…

  • 遅くない?

  • ウソでしょ?今そこなんですか?

かく漆桶(しっとう)を抜くがごとく「自転悟」を開きたる余は、今例の監督官及び、その友なる貴公子某伯爵と共にくつわを連(つら)ねて、「クラパムコンモン」を横ぎり、鉄道馬車の通う大通りへ曲らんとするところだと思いたまえ。
余の車は両君の間に介在して操縦すでに自由ならず、ただ前へ出られるばかりと思いたまえ。
しかるに出られべき一方口が突然塞ふさがったと思いたまえ。

  • ついに「自転悟」を開いた漱石。
    これなんて読むんでしょうね。じてんさとり?じてんご?

  • 「漆桶(しっつう)」というのは、真っ暗で何も分からないこと、仏法について何もしらない僧侶、または妄想・執着のことを言っています。漆桶を抜くとか、漆桶を打破するとかいうのは、邪念や妄執に塗れた状態から抜け出すという意味ですね。…そこまで追い込まれていたのか、漱石。

  • とにかく、なんかコツが掴めたみたいです。漱石はさっそくリベンジをすべく、監督さんとその友人の伯爵と一緒にサイクリングに出かけます。友人が伯爵て…すごいですね…。

  • 今はちょうど、クラッパム・コモンを抜け、鉄道馬車が行き交う大通りを今曲がろうとしているところのようです。
    3台の自転車は横に(縦に?)並んでおり、漱石は真ん中に挟まれるようにして自転車を漕いでいるため、空いた方から勝手にスッといなくなったり出来ません。前に進むより他に出来ることはない状況が、今日もいい感じに漱石のメンタルを追い詰めています。

すなわち横ぎりにかかる塗炭(とたん)に、右の方より不都合なる一輛(いちりょう)の荷車が、「御免よ」とも何とも云わず、傲然(ごうぜん)として我前を通ったのさ。

  • 大通りを横切ろうとすると、突如、一両の荷車が漱石の前を通ります!
    「ちょっとごめん」とも言わず、荷車優先が当たり前とでも言いたげな通りっぷり。危ないだろうが!

今までの態度を維持すれば衝突するばかりだろう、余の主義として衝突はこちらが勝つ場合についてのみあえてするが、その他負色の見えすいたような衝突になると、いつでも御免蒙るのが吾家伝来の憲法である。
さるによって
「この尨大ぼうだいなる荷車と老朽悲鳴をあげるほどの吾が自転車との衝突は、おやじの遺言としても避けねばならぬ」
と云って左右へよけようとすると、御両君のうちいずれへか衝突の尻をもって行かねばならん。

  • このままだとぶつかる!

  • ここで唐突に挟まれる、「勝ち戦ならいくらでもやってやるけれども、負け戦だとわかっている衝突は避けろ」という、夏目家独特の憲法(家訓?)。

  • つまりなんというか、「巨大な荷車と老朽化した自転車の衝突」などという破滅エンド確定のイベントは、漱石的にはぜひとも避けたいわけです。

  • しかし、かと言って左か右に避けようとすると、監督さんか伯爵殿にぶつかってしまいます。どうする漱石?!

もったいなくも一人は伯爵の若殿様で、一人は吾が恩師である。
さような無礼な事は平民たる我々風情のすまじき事である。
のみならず捕虜の分際として推参な所作と思わるべし。
孝ならんと欲すれば礼ならず、礼ならんと欲すれば孝ならず。
やむなくんば退却か落車の二あるのみと、ちょっとの間に相場がきまってしまった。

  • 漱石は悩みます。片方は伯爵様、もう片方は自分の自転車の師匠です。平民としても捕虜としても、ご両人のどちらかにぶつかるなんて無礼なことはできません。…あれ?自分のこと捕虜だと思ってたの?

  • 恩師に孝行をしようとすると伯爵に無礼を働いてしまい、伯爵に礼を尽くそうとすると恩師に対して不孝者になってしまいます。どうしよう!

  • 漱石にはすぐにこの後の展開が見えてしまいます。すなわち、自転車後退エンドか、落車エンドです。

この時事に臨んでかつて狼狽したる事なきわれつらつら思うよう、できさえすれば退却も満更でない。
少なくとも落車に優(まさ)ること万々なりといえども、悲夫逆艪(さかろ)の用意いまだ調(ととの)わざる今日の時勢なれば、
「エー仕方がない思い切って落車にしろ」
と、両車の間に堂と落つ。

  • 漱石はまた考えます。
    「いや後ろに下がるか自転車から落ちるかなら当然後ろに下がる方がいいに決まってるんだけど、悲しいかな私には自転車で後ろに下がるような技量がまだない!」

  • 「もういい!エーイ仕方ない!思い切って落ちよう!」
    と、堂々たる落車っぷりを披露する漱石!あっぱれ偉いぞ!それでこそ明治の男子!

折しも、余を去る事二間ばかりのところに退屈そうに立っていた巡査──自転車の巡査における、それなお刺身のツマにおけるがごときか、
何ぞそれ引き合に出るのはなはだしき──このツマ的巡査が声を揚げて、
「アハ、アハ、アハ」
と三度笑った。

  • その時!漱石の近くに退屈そうに座っていたお巡りさん──またお巡りさん!漱石の自転車エピソードにはお巡りさんの存在が常について回ります。まるでセット。刺身に対するツマのようであります──その刺身のツマのようなお巡りさんが、漱石の名誉の落車を見て、「アハ、アハ、アハ」と3度笑ったのです。

その笑い方、苦笑にあらず、冷笑にあらず、微笑にあらず。
カンラカラカラ笑にあらず、全くの作り笑なり。
人から頼まれてする依托笑なり。
この依托笑をするためにこの巡査はシックスペンスを得たか、ワン・シリングを得たか、遺憾ながらこれを考究する暇がなかった。

  • まるで感情のこもっていない「アハ、アハ、アハ」に唖然として、「こいつは金を握らされて笑っているのか」とまで疑う漱石。

  • ザッと調べたところによると、1シリング=2000円くらいで、1シリング=12ペンスであることから、6ペンス=1000円くらいではないかと思われます。かなりの小額ですね…ちょっと良いお昼ご飯食べたら終わるな…。

  • ここの描写の力の入り具合、よっぽど衝撃的だったのでしょうね、このまるで感情のこもっていない「依託笑い」が…。
    まあ、恩師と伯爵様を気遣ってあえて転んだのを目撃されて、挙句こんな異様な笑い方までされたら、印象にも残るわな。…ホント、お疲れ様です。

 へんツマ巡査などが笑ったってと、すぐさま御両君の後を慕って馳け出す。
これが巡公でなくって、先日の御娘さんだったら、やはりすぐさま馳け出されるかどうだか…の問題はいざとならなければ解釈がつかないから、質問しない方がいいとして先へ進む。

  • 刺身のツマみたいなお巡りさんに変な笑い方をされたくらいじゃ、今の漱石はへこたれません。すぐに師匠と伯爵様の後を追って自転車に乗り、駆け出します。

  • もしこの「アハ、アハ、アハ」という渇いた笑いを自分にしてきたのが、どうでもいいお巡りさんじゃなくて先日のあの美しいお嬢さんだったら、こんなにすぐに立ち直れたかしらん…と考えかけて、いやこれについて今考えるのはやめておこう、と雑念を振り切る漱石。

  • この人つくづく綺麗な女の人が好きですよね笑 いやまあ、美女が嫌いな人なんてそうそういないか。

さて両君は「この辺の地理不案内なり」との口実をもって、覚束(おぼつか)なき余に先導たるべしとの厳命を伝えた。
しかるに、案内には詳くわしいが自転車には毫(ごう)も詳しくないから、行こうと思う方へは行かないで、曲り角へくるとただ曲りやすい方へ曲ってしまう。

  • さてその後、監督さんと伯爵様から「この辺の地理に詳しくないから、夏目くんが先導してくれるかい」と言われます。漱石的には「厳命」と言いたくなる、荷が重すぎるお願いです。

  • この辺の地理には詳しくても、自転車の操作には少しも詳しくない捕虜おじさん。行こうと思う方には行けず、曲がりやすい方に曲がってしまいます。アレ〜…。

ここにおいてか同じ所へ何返(なんべん)も出て来る、始めの内は何とかかんとかごまかしていたが、そうは持ち切れるものでない。
「今度は違った方へ行こう」との御意である。
よろしいと口には云ったようなものの、ままにならぬは浮世の習、容易にそっちの方角へ曲らない。
道幅三分の二も来た頃、やっとの思でハンドルをギューッと捩(ねじ)ったら、自転車は九十度の角度を一どきに廻ってしまった。
その急廻転のために思いがけなき功名を博し得たと云う御話しは、明日の前講になかという価値もないから、すぐ話してしまう。

  • 曲がりやすい方に曲がるのを繰り返していたら、おんなじ所に何回も戻ってきてしまいました。
    最初は監督さんと伯爵様を誤魔化せていましたが、さすがに「また戻ってきてるな…」と気づかれ、「今度は違う方に行こう」と言われてしまいます。

  • 漱石もその提案に従って、目的の方向に曲がろうとするのですが、そうは問屋が卸さない。
    当然スマートには曲がれず、ああもう道を三分の二も来てしまった、どうしよう早く曲がらなくては…と思い切ってハンドルを切ったら、直角90度に曲がってしまいました。ワロタ。

  • 「思いがけない功名を博し得た」と言っているので、この直角右左折がご両人からよっぽど褒められたか、もしくは大ウケにウケてもらえたのかもしれないです。

  • しかしその功名については、「明日の講義の前座に喋るようなたいそうな話題でもないから、今ここでネタを消費します」と漱石は語っています。

この時まで気がつかなかったが、この急劇なる方向転換の刹那に、余と同じ方角へ向けて余に尾行して来た一人のサイクリストがあった。
ところがこの不意撃(ふいうち)に驚いて、車をかわす暇もなくもろくも余の傍で転がり落ちた。

  • おっと!右左折できたね(おくすり飲めたね)で喜んでいるのも束の間。
    漱石の不意の直角曲がりに驚いて、後ろからついてきていた自転車乗りが落車してしまいました!

後で聞けば、四ツ角を曲る時にはベルを鳴すか片手をあげるか、一通りの挨拶をするのが礼だそうだが、落天の奇想を好む余はさような月並主義を採らない。
いわんやベルを鳴したり手を挙げたり、そんな面倒な事をする余裕はこの際少しもなきにおいてをや、だ。
ここにおいてかこのダンマリ転換を遂行するのも、余にとっては万やむをえざるに出たもので、余のあとにくっついて来た男が吃驚(びっくり)して落車したのも、また無理のないところである。

  • 漱石は後で「道を曲がる時は、ベルを鳴らしたり片手をあげたり、何かしらの合図をするのが自転車乗りのルールだ」ということを知ります。

  • ここから漱石の言い訳パートが始まります。お楽しみください。

  • 「ルールに従うなんてそんな月並みなことは、奇抜な発想を好む私のやることではない。ベルを鳴らす?片手を挙げる?そんな面倒なことなら尚更、余裕が無いからするわけがないさ。」
    「ダンマリ直角方向転換をいきなりやったのも、私的には至極当然のことであって、それにびっくりして後続の自転車乗りが落車してしまったのも、まあ無理もないことだね。」

双方共無理のないところであるから不思議はない、当然の事であるが、西洋人の論理はこれほどまで発達しておらんと見えて、彼の落ち人、大いに逆鱗の体で、
「チンチンチャイナマン」
と余を罵しった。
罵られたる余は一矢酬ゆるはずであるが、そこは大悠(だいゆう)なる豪傑の本性をあらわして、
「御気の毒だね」
の一言を遺してふり向もせずに曲って行く。

  • まだ言い訳パートは続きます。
    「当然のことが重なったのだから、全ての理屈は通っていて、何も不思議ではない…のだが、どうやら西洋の人の論理的思考力はここまでは発達していないらしい。落車した例の彼が、大激怒しながら『チンチンチャイナマン!』と私を罵ってきたのである。」

  • チンチンチャイナマンて。

  • さすが100年前の出来事…アジア人に対する蔑称が豪快ですね。

  • 漱石は、ここで何か言い返しても良かったのですが、逆に悠然と「お気の毒さま」と声をかけて去っていきます。
    おそらく実際は"Sorry"と言ったのでしょうね。「ごめん」の他に「気の毒に思う」という意味もあるので。

  • 漱石曰く、隠していた己の器のデカさをここで発揮してしまったようです。ウケる。

実はふり向こうとするうちに車が通り過ぎたのである。
「御気の毒だね」よりほかの語が出て来なかったのである。
正直なる余は苟且(こうしょ)にも豪傑など云う。
一種の曲者と間違らるるを恐れて、ここにゆっくり弁解しておくなり。
万一余を豪傑だなどと買被(かいかぶ)って、失敬な挙動あるにおいては七生まで祟るかも知れない。

  • 調子の良いことを言っていましたが、だんだん勢いを失っていく漱石。
    悠然と「お気の毒さま」と言い放って去ったというよりは、「お気の毒さま」以外言葉が出てこず、そうしているうちに自分の自転車がそこを通り過ぎてしまい、どうしようもなかったようです。

  • 「苟且」は「一時の間に合わせ、かりそめ」という意味です。
    「私は正直者なので、さっきはとりあえず豪傑などと言っておいたが、実際は豪傑ではないと弁解しておく」とのこと(ここは解釈に自信がないです)。
    あんまり調子の良いことを書きすぎて、クセつよの嫌なヤツと思われたらどうしよう…と不安になっています。気が弱い。

  • 最後に、「万が一私のことを豪傑だと買い被って、なんでも許してくれると思って失礼なことをするようなヤツがいたら、私はそいつが七回生まれ変わるまで祟るかもしれない」と書き残し、ビックリするほどの心の狭さを晒しています。そうだ。それでこそ夏目漱石だ。

* * *

忘月忘日 
「人間万事漱石の自転車」で、「自分が落ちるかと思うと人を落す事もある。そんなに落胆したものでもない」と、今日はズーズーしく構えて、バタシー公園へと急ぐ。

  • ついに「人間万事塞翁が馬」をもじったことわざまで作っちゃった漱石。

  • まるで「自分が落ちるのは嫌だけど、人を落とすのは良い」みたいな書き方です。先日の自転車乗りの落車シーンを見て、そこそこスカッとしていた可能性があります。

  • とにもかくにも自転車を携え、バタシー公園に急ぎます。今日もメンタルの調子が良いようです。よかったね!

公園はすこぶる閑静だが、その手前三丁ばかりのところが非常の雑沓(ざっとう)な通りで、初学者たる余にとっては難透難徹の難関である。

  • おお、今日は人通りが多いところで自転車を練習するんですね。「難」を三回も使っています。どんだけ自信ないんだ。

今しも余の自転車は「ラヴェンダー」坂を無難に通り抜けて、この四通八達の中央へと乗り出す。
向うに鉄道馬車が一台こちらを向いて休んでいる。
その右側に非常に大なる荷車が向うむきに休んでいる。
その間約四尺ばかり、
余はこの四尺の間をすり抜けるべく車を走らしたのである。

  • 「四通八達(しつうはったつ)」とは、道路網が発達して便利なこと、転じて往来の激しくにぎやかな所を言います。

  • 漱石を乗せた自転車はまさに今、ラヴェンダー坂を危なげなく通り抜け、雑踏のど真ん中へと向かっているのです。というか、ラヴェンダー坂を普通に自転車で越えられるくらいにはうまくなったのですね。着実に成長している…!

  • するとここに最初の難所が現れます。こちらを向いて停車している鉄道馬車と、向こうを向いて停車しているとても大きな荷車が、道を圧迫していたのです。
    その隙間はわずか4尺(120cm)ほど。えっ狭い!めちゃめちゃ狭い。漱石は、この120cmの隙間を自転車で通り抜ける気なのです。

余が車の前輪が馬車馬の前足と並んだ時、すなわち余の身体が鉄道馬車と荷車との間に這入(はい)りかけた時、一台の自転車が疾風のごとく向(むこ)うから割り込んで来た。

  • 漱石の自転車がいよいよ馬車のすぐそばまで差し掛かり、120cmの隙間に今まさに入りかけた時、思わぬハプニングが起きます。その隙間に、一台の自転車が向こうからスピードを落とさずに飛び込んできたのです!またもピンチ!

かようなとっさの際には命が大事だから、退却にしようか落車にしようかなどの分別は、さすがの吾輩にも出なかったと見えて、おやと思ったら身体はもう落ちておった。

  • 今回は、前回のように「礼を尽くすか孝を尽くすか」「後ろに下がろうか落車しようか」…なんて迷う暇は一切ありません!ドンッ!気がついた時には、漱石は自転車から転がり落ちていました。

落方が少々まずかったので、落る時左の手でしたたか馬の太腹を叩いて、からくも四這(よつばい)の不体裁を免まぬがれた。
やれうれしやと思う間もなく鉄道馬車は前進し始める。
馬は驚ろいて吾輩の自転車を蹴飛ばす。
相手の自転車は何喰わぬ顔ですうと抜けて行く。
間の抜けさ加減は尋常一様にあらず。

  • この落車の仕方がちょっと良くなかったので、漱石は落ちる時とっさに左手で思いっきり馬の腹を叩き(馬をどかすか、体勢を持ち直すかしたかったのでしょうか)、なんとか四つん這いでベシャー!と転んでしまう事態は避けました。

  • あーよかった…と安心する間もなく、鉄道馬車は前進し始め、(激しく叩いたせいで?)馬は驚いて漱石の自転車を蹴っ飛ばし、そんな大混乱にも関わらず対向の自転車乗りは涼しい顔でスーッと通り抜けて行きます。ちなみに漱石は転倒したてほやほやです。

  • ドタバタしていて、なんとも言えない間抜けさの漂うシーンです。

この時派出やかなるギグに乗って後ろから馳け来たりたる一個の紳士、策(むち)を揚げざまに余が方を顧かえりみて曰わく、
「大丈夫だ安心したまえ、殺しやしないのだから」と。
余心中ひそかに驚いて云う、
「して見ると時には自転車に乗せて殺してしまうのがあるのかしらん。英国は険呑(けんのん)な所だ」と。

  • 「ギグ」というのは、1〜2人乗りの小さめの二輪馬車で、一頭の馬に引かせているやつのようです。
    この時、豪奢な装飾の二輪馬車に乗った紳士が駆けてきて、漱石の方を振り返りながら「大丈夫だ、安心したまえ。殺しやしないんだから」と言ったらしいのです。

  • それを聞いて漱石は内心驚きます。「ということは、自転車事故で時には人が死ぬことがあるのかしら。イギリスは危険なところだな…」

* * *

余が廿貫目の婆さんに降参して自転車責に遇あってより以来、大落五度小落はその数を知らず。
或時は石垣にぶつかって向脛(むこうずね)を擦(す)りむき、或る時は立木に突き当って生爪(なまづめ)を剥がす。
その苦戦云うばかりなし。
しかしてついに物にならざるなり。

  • 「廿」は「二十」を表す漢字です。体重二十貫(75kg)の下宿のお婆さんから「自転車にお乗んなさい」という宣告を受けて以来、大コケは5回、小コケなら数も覚えてないくらいやらかしてきた漱石。
    ここまでの日記には出てきませんでしたが、実は石垣にぶつかって向こう脛(弁慶の泣き所)を擦りむいたり、木にぶつかって生爪が剥がれたりもしていたそうです。痛え…。

  • そして、「それほどまでに苦戦したというのに、ついにモノにならなかった」と漱石は述懐します。
    ええ?そうですかね、結構ちゃんと乗れてたところもあると思いますが…?

元来、この二十貫目の婆さんはむやみに人を馬鹿にする婆さんにして、この婆さんが皮肉に人を馬鹿にする時、その妹の十一貫目の婆さんは、瞬(またた)きもせず余が黄色な面を打守りて、
いかなる変化が余の眉目の間(かん)に現るるかを検査する役目を務める。
御役目御苦労の至りだ。

  • 下宿の太っちょ婆さんは、もともとむやみやたらに人を馬鹿にするところがあるそうですが、このお婆さんが人を馬鹿にして皮肉っている時、その妹のお婆さん(41kgぐらい。姉と比べるとかなり痩せています)は、まばたきを一切せずに漱石の顔を凝視し、どんな表情の変化が彼の顔に出るか検査する役をやっているそうです。「お勤めご苦労様です」と漱石。犯罪捜査ごっこでもやってるのかな。

この二婆さんの呵責に逢ってより以来、余が猜疑心はますます深くなり、余が継子根性(ままここんじょう)は日に日に増長し、ついには明け放しの門戸を閉鎖して、我黄色な顔をいよいよ黄色にするのやむをえざるに至れり。

  • 「二婆さん」という言い方、敬意のかけらもなくて良いですね。

  • 二婆さんに自転車責めをされて以来、元々強かった漱石の猜疑心はますます強くなり、継子のように人に懐きにくい性格は日に日に酷くなり、ついには漱石は部屋の門戸を閉ざして引きこもり、黄色い顔をいっそう黄色くしてしまったそうです。そ、そんなに…?!

  • 黄色人種の肌が黄色いのって、別に部屋にずっと引きこもってたから黄色が濃くなるとかいうものではないと思うんですけどね。どういうメカニズムなんだ…。

彼二婆さんは余が黄色の深浅を測って彼ら一日のプログラムを定める。
余は実に彼らにとって黄色な活動晴雨計であった。
たまたま降参を申し込んで贏(あま)し得たるところ若干いくばくぞと問えば、貴重な留学時間を浪費して下宿の飯を二人前食いしに過ぎず、さればこの降参は我に益なくして彼に損ありしものと思惟(しい)す。
無残なるかな。

  • 2人のお婆さんは、漱石の顔色が良かったり良くなかったりするのを天気予報みたいに参考にしながら、1日の計画を立てているそうです。(見方を変えれば、とても気遣われていたという可能性もあるんじゃあ…?)

  • 今回「自転車にお乗んなさい」という提案…いや指令に従い、不慣れながらも自転車に挑戦してみて、何か戦果はあったのか?と聞かれると、漱石的には
    「貴重な留学期間を浪費して自転車の練習に明け暮れ、下宿の飯を二人前食ったに過ぎなかった」(運動して腹が減ったのでしょうか?)
    「ということはこの自転車への挑戦は、気の進まない私にとっては利益が無く、食糧を倍減らされるので婆さんたちにとっても利益が無かったのではと考えている」
    だそうで、最後は「無惨であった」と締めくくっています。

  • ええええ?!
    そんな悲しい終わり方する?!

  • 何を「利益も無かったし、意味もなかったな…」みたいな感じで書いているんでしょうか。こんな面白い日記書いたんだから結果的に利益はめちゃめちゃあったでしょ?!この件については、筆者こと私と夏目漱石は決定的に意見が食い違っている様子。こちちは決闘も辞さない構えです。

  • まあ、ここで「ああ面白かった。貴重な体験をして有意義だったなあ!」と書ける人間はもともと夏目漱石ではないと思うし(どちらかと言うと森鴎外のノリを感じます)、こういう終わり方でいいのかもしれません。

「自転車日記」終わり


いかがでしたでしょうか!

日本史の授業で必ず習うあの偉人・夏目漱石が、どれくらい心が狭くて扱いづらい普通の人間か、伝わっているのよいのですが…?!?!
私のお気に入りのところは、「アハ、アハ、アハ」のところですね。あの後「この笑いをお嬢さんにされてたら、こんなに早く立ち直れたかな…」って考えてるとこまで含めてサイコーです。

夏目漱石は、8割真面目で神経質だと思うんですけど、2割くらいはコミカルというか、意外なほど笑える文章を書くので良いですよね。「吾輩は猫である」にも通じるところがあると思います。

あと、これを書いている間に知ったのですが、なんと「月に吠える」の萩原朔太郎も、漱石と同じようにVS自転車格闘日記をつけていたようです。よ、読んでみたい!
いい歳した大人が自転車如きに悪戦苦闘している姿、面白いというかかわいいというか、心の何かをくすぐられますよね。
皆さんにもその辺りのかなりニッチな萌え(漱石の言葉を借りるなら「自転車責め」)を受け取ってもらえたらと思います…👍
あと大逆転裁判、やってください!!!!

ここまで読んでくださり、ありがとうございました!

2023.1.28 油布

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