モーロの香りと、音の煌めきの妖しい因果
この日のギターレッスンでは新しい課題曲を選んだ。
「今度のは速くて最後までセーハコードなので休むところがないです。手が痛くなったらすぐやめてくださいね」
「下手すると腱鞘炎とかなっちゃいますかね?」
「ジャックみたいに力入れて頑張り続けちゃう人はなおさらだな」
ギターを始めて2年以上経つが
この力を抜くってのが一番むずかしい。軽く軽くと念じつつもいつのまにか力んでしまう。それでもいつも意識してるせいか、一年前にはかちこちに厚くなっていた左手指先の表皮は徐々に元に戻りつつある。
一昨日、ふと練習中に弦を押さえる指が力を入れずに吸い付いているがような気がした。左手がいい具合にリラックスして、そのせいか右手の振りも軽く、Gm7がいつになく彩りを帯びている。
今夜はいいぞ。
指は柔らかくおかれているし
音もよく出てる
16ビートにもゆうゆうとついてゆく
昨日までギクシャクしていたはずのフレット移動もなぜかスイスイできてしまう
左手をすべらすネック木材の粗度まで滑らかになったような気がする
これはもしかしてさっきの紹興酒のおかげなのか?
夕飯とりながら紹興酒を飲んだ。料理用に買ってあった5年物陳酒だ。グラス一杯をちびちび呷っただけなのにこんな効果があるとは。
でもこの黄酒効果は素面演奏と比較してみないとわからない
60s70sのスーパースターはたいてい葉っぱやクスリやってたわけで酩酊と覚醒は音楽に効くにきまってる。アーティストの伝記映画観たって全員やってる。フレディもJBもレイ・チャールズもチェット・ベイカーもジャニス姐さんもみんな。あの頃の爆発的エネルギーが今消えたのはアレが消えたせいかとも思えてくる。
比較検証のため翌日は晩酌なしでギターをかまえた。そして仮説どおり紹興酒がギター演奏に効くことが実証されたのだ。つまり黄酒の加勢なしだといつものようにぎこちない。コードをおさえてもどこかの弦が鳴ってない。リズムもうまく乗れない。
つまりアロマと酒精がリラックスした指使いと腕の振り、足のリズムを促しグルーヴを生み出すといえる。
いや待てよ
紹興酒プレイはギター演奏が良かったのではないかもしれない
脳と耳、もしかしたら身体が音とリズムを正しく認識しなかったのだろうか
でも気分はよかったな
左脳の動きが抑えられ右脳が支配した包み込むような認識が外の世界と呼応し、さらに脳に反響しプレイと音の認識が相乗効果をもたらしたと推察する。
翌日はさらなる検証を進めるために植物の香りの効果を試すことにする。
いつものようにギターを膝に置く。メルカードでモーロ人に巻いてもらった草を咥える。シュポッ。チチッと燃焼の音が響く。息をゆっくり大きく吸い込み、しばし目を閉じる。脳内で2小節分だけ曲のリズムを刻んでみる。コードをおさえて素早く腕を振ると弦に垂直にピックがあたり煌びやかな和音が響く。一弦一弦の音色が別々に見えるようだ。しっかりと弦が押さえられて音のつまりもない。さあビートに乗せて曲を奏でよう。練習曲を流す。イントロからしっかりとリズムに乗っている。ベースの伴奏もいつになくはっきり聴こえる。ハーモニカが加わるとグルーヴ感がます。音楽という列車に揺られながらスピードを意識することもなくなる。レールの継ぎ目を刻む感覚を全身で受けつつ右手をふり続ける。血管が脈打ち身体中が熱してくる。天井から吊り下がったファンはゆっくりと回っているがリズムはグルーヴに重なる。暑い。羽織ったシャツのボタンを外して風を呼び込む。暑い。ボタンダウンシャツを脱ぎ捨てTシャツ一枚になる。ギターのコードを刻む腕はふり続ける。血管の動きは大きくなっている。腕にめぐる血管が鼓動を運び膨張する。Tシャツも脱いだ。湿り気を帯びた空気が上半身にまとわりつく。靴下も脱ごう。リズムに合わせて足を踏みつつ、足だけ使って脱ぐ。ビートは止まらない。これがグルーヴなんだ。でも皮膚の暑さが取れない。ギターを抱えたまま床に寝そべり、背中を冷たい石の床に押しつけた。なるべく広い面積を背中につけて熱を取る。しかしすぐに生ぬるくなる。仰向けのままギターをかき鳴らして、膝を立てて背中を引き摺り冷たい場所を探す。部屋中を動き回って床に意識を集中していると視線を感じた。天井のファンの脇にヤモリがはいつくばり背中で視線を送っている。こちらが気づくとヤモリはささっと壁側に動き、また止まる。動き、止まる。ささっ、ピタ。ギターのリズムにあわせている。壁にはもう1匹いた。番いか?ヤモリを追って目を動かすと突然視界に人影が現れた。いつのまにか寝転んだ周りを数人に囲まれている。音楽に誘われてきたのだ。上体を起こし演奏を続ける。身体をゆする人々から汗の匂ひに混じって植物の焦げた香りが漂う。音が湿度をともなった空気の波にたゆたう。野外ステージからフィールドを見やるとはるか向こうから人波がリズムでうねっている。アフロもいる、金髪もいる、赤毛もターバンもモーロ人も種々の頭が虫のように蠢いている。天から群衆を眺める。観客との一体感がさらなる恍惚状態へと昇華した。
植物と音楽。これか。これが植物の力。
ふとわれに帰ると人だかりは消えてドアの内側には2人だけが残っている。殺気を感じる。ギターを抱えたまま跳ね起きる。薄汚れた白いローブを着た2人。なんだ、昼間のモーロ人か。メルカードから後をつけられていたのだろう。部屋の鍵を締め忘れたのが悔やまれる。しかしどうして部屋番号がわかったのか?ギターの音を頼りに辿り着いたのか?平静を装いベッドに腰を下ろす。オレに何の用だ?カネはしっかり払っただろ?「話は後だ。ギターを続けなよ」とモーロ人がいう。横のデカい方のモーロ人の目は死んでいる。動揺を隠すため改めてプレイを始めた。しかしもう先ほどまでのグルーヴはどこかへ消えた。朦朧とする脳内に警戒感が侵入してくる。カネを奪われる。ギターを弾きつつ、バックパックに徐々に近寄り、財布とパスポートが入ったウエストポーチをたぐり寄せる。しっかりと握りそのままトイレに駆け込み、木製ドアに中からちゃちい鍵をかけた。ギターがドアにぶつかり不協和音が室内に響く。この安宿のトイレ兼シャワー室は値段と不相応にやたらと広い。大人がゆかに寝転んでも充分余裕がある。ギターを部屋の隅に立てかけて横になる。トイレは床の冷たさが残っている。仰向けのまま室外に向けて叫んだ「もう帰れ!オレは気分が悪い。カネはない」大声を出すとさらに血管が脈打ってきた。暑い。ジーンズとパンツも脱ぎ全裸になる。床はもうぬるくなったので陶器の白い便器を抱え込む様に上半身を貼り付けて皮膚を冷やす。目の前の便器から汚臭が漂う、一気にえづいて、吐いた。便器がオレンジに染まる。運河沿いのメルカードでビールとともに流し込んだムール貝が飛び散っている。腹の中が胃液だけになるまで何度も吐いた。便器から離れ全裸で横になる。便所の天井には大量のヤモリが蠢いている。ふと部屋隅を見やる。ギターにヤモリが群がり、ギターの木材を齧っている。弦は切れて跳ね乱れ、サウンドホールはいびつに食い千切られ、ギターとしての骨格は今にも崩れそうな様相だ。これでは植物とグルーヴ感の因果関係を実証できない。天を仰ぐ。虚脱感に襲われる。深く長く息をはいた。
どこか遠くで何か聞き慣れた音楽が鳴っている。
目が覚める
ブラインドの外は白みかけている
スマホ画面を見る
5時か
うん、いつもの時間だ
ずいぶんと長い夜だった
今朝は早出の出張じゃないから朝練できるな