ウクライナ戦争における月見主席談話

我々は先の大戦の反省から、自由で民主的な社会を守ることを新しい価値観として受け入れました。戦後に生まれた私のような戦争を知らない世代は特に、国民主権の民主主義の社会で育ち、自由主義の価値観の下で自由を謳歌し文化を育んできました。

他方で、世界には我々と価値観を異にする国と社会があることも忘れてはなりません。昨今ウクライナ危機関連で我々には様々な情報が流れてきますが、その中でそれに対して様々な意見があるのは自由に情報を取得できる情報化社会ならではのことであり、民主主義には欠かせない要素としては非常に尊重するべき環境だと思います。そうであるがゆえに我々は情報を様々な角度から見ることを要求されますし、様々な価値観への理解が必要です。我々はネット、マスコミを通じて「柔道など日本文化にも理解がある」「じつは動物好きのおじさん」「本当はおしゃべりで冗談好き」などというような「人間プーチン」をことさらに強調して、国内での暗殺や粛清などその暴力的な手法に関しては「少し強引」なところで目をつぶってしまっていました。私自身も少し面白いおじさん程度に見ていたフシもあるのでこの点は自己批判しなければならないと思います。


このことを思い起こすにあたって、かつてヒットした映画「帰ってきたヒトラー」という作品のことが思い浮かびました。この作品は現代に蘇ったヒトラーが「ちょっと強引だが政治をバッサリ斬る!」「ジョークを言ったりするユーモアなおじさん」といった感じで民衆に大受けするという内容ですが、作者曰く「ヒトラーの本当の恐ろしいところは、彼の暴力的な思想ではなくこの人間的な部分を強調するところだ」とのことです。つまり独裁者はヤバイやつを全面には押し出したりはせず、あくまで「みなさんと同じですよ」と言った感じで登場するのだということをこの作品は言いたいとしています。実際ヒトラーは内気であるがゆえに内面を覆い隠すという点に大いに長けていたと言われており、実際に本性を表すまでに警戒している者は少数だったといいます。戦前をよく知っている世代に当時の国際ニュースから聞こえるヒトラーついて話を聞くとやはり「少し強引だが国民のために政治をしている」という印象があったとおっしゃる方もいました。ワイマール共和制のグダグダな政治に嫌気が差した民衆が強力な指導者ヒトラーを望んだようにソ連崩壊以後のオリガルヒの腐敗政治に嫌気が差した民衆が強力な指導者プーチンを望んだという点、国民生活の安定にある程度寄与したという点、そして「偉大な祖国」「愛国主義」を押し出して国内をまとめようとしている点は共通しています。その光の一面の一方で政敵を暴力的に葬り去り、国外の政敵も同様に扱っているという闇の面も共通しています。人々はこの闇の側面は見ようとしません。声高に叫ぶ人たちがいても新聞のベタ記事にすらならないのです。


我々自由主義の民はこの独裁政治を賛美するということはありえませんが、しかしその背景は理解するべきです。これは多様な価値観への理解の範疇であり、独裁政治はあくまでその中の民衆自身の力で平和的に民主主義に移行するべきだという自由主義の信念から来るものだと考えています。それへの干渉もあくまで民衆との連帯が基本であるべきであり、武力を伴うものであっては絶対になりません。

我々に流れてくる様々な情報は虚実あらゆるものが含まれています。中には完全なプロパガンダもあるでしょう。それは西側、東側問わずフィルターがあるのは当然のことだと思います。人は自分の価値観の中でしか思考できませんし、発する情報はもちろん価値観が入っていなければおかしいのです。人間がどこかしらの社会に属している限り、異なる価値観が存在している限り、完全な中立な人間などどこにもいないのです。今現在ウクライナから発せられている情報でどこまでが真実でどこまでが虚構なのかは、ハッキリ言って現地にいない我々からすれば100%見分けられることは困難です。

しかしながら覆しようのない事実はいくつかあります。それはウクライナ国民が我々西側諸国と同じ価値観を持ち、自由の中で生きてきた自由の民であるということ、そして、その自由の民の選択を武力で恫喝し、彼らの自由と安全を一方的に蹂躙しているのは独裁者プーチンであるということです。独裁者の言い分に理解を示すことはその片棒をかつぐばかりか、民主主義に欠陥があれば民主主義を否定しても構わないという口実すらも与えてしまいかねません。我々は真実か虚構かわからないふわふわした情報ではなく、この確実な事実を以てウクライナの民と団結し、侵略者と戦うべきなのです。現在ウクライナを攻めているロシアは民主主義が形骸化した独裁国家であり、自由な意見も自由な情報も一切聞こえてこない閉鎖的な社会です。自分たちは西側の情報を一切入れようとしないのに、自分たちに都合のいい情報を西側諸国に紛れ込ませています。これは自由な社会を悪用した卑劣な手口であり全くアンフェアなのです。そんな相手に対して「向こうにも言い分がある」というのはむしろ民主主義の敵を利する行為であるとすら言えます。決して騙されてはいけません。
不寛容のパラドックスというものがありますが、寛容な社会は、それを守るために不寛容な意見は例外として認めるべきではないという一種の矛盾があります。これは民主主義を至高の価値観としてきた我々からすれば、一種の試練であると同時に、これを守りきれるかどうか、見極めきれるかどうかが民主主義社会の一員として求められることだと思います。
すなわち民主主義をまもりたいならば、民主主義防衛のためにそれを最優先して行動をするべきです。

チャップリンの有名な作品である「独裁者」に「奴隷を作るために闘うな。自由のために闘え」「民主国家の名のもとに、その力を使おうではないか。皆でひとつになろう。新しい世界のために闘おう」という演説がありますが、実に今こそこの演説を思い起こして自由の旗を守り抜かねばならないのです。

「杖るは信に如くは莫し」と言うように、ここに私の信義を以て声明とさせていただきます。

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