パルファム・オレガノ

 午前六時にセットしたアラームが鳴る。昨日も寝るのが遅くて、朝の目覚めは最悪だ。ベッドの中でもぞりと蠢き、腕を伸ばす。枕元に置いたスマートフォンを操作してスヌーズを止める。画面の光が目に痛い。

 十五分後、再びアラームが騒ぎ出した。そろそろ起きなくてはならない。思うだけで行動にはなかなか移せない。結局、実際に起き上がることができたのはそれからさらに十分後のことだった。

 生欠伸を噛み殺しながらベッドを降りて、脱ぎ散らかした服の合間を踏んでトイレに行った。用を足したあと、顔を洗い歯を磨く。鏡に映った女は髪がボサボサで顔色が悪かった。眠そうな半目がこちらを藪睨みする。

 いつものようにドライフルーツ入りのシリアルに牛乳をかけた朝食を取る。別に好物ではない。ただオシャレだからだ。本当は生のフルーツを食べたい。それが出来たらとてもオシャレだからだ。

 スーツに着替え、髪をセットし、メイクもバッチリキメて。顔色の悪さはファンデーションとチークで誤魔化せる。仏頂面。良くない。笑顔のない女はダメだから、意識して口角を上に引き上げる。

 姿見の中のマネキン人形。今日も闘いが始まる。


 仕事をするのは楽しくない。ただ、生きるためには必要だからしているだけだ。実を言うと、生きていたくもない。ただ、死にたくもないので生きている。その程度のことだ。

 生きているのはつまらない。この先楽しめることもないだろう。シンデレラのガラスの靴、白雪姫の毒林檎、ある日一瞬で人生が変わるような、そんな童話のような出来事が起きない限りは。

 それでも時々夢想してみる。どこかの会社の御曹司が、オフィス働いている私を見初めてプロポーズしてくれないかな、なんて。花束は肉厚の真っ赤な薔薇がいい。そして同僚に羨ましがられながら、バージンロードを歩くのだ。

 馬鹿みたいだ。

 今日もノルマのタスクをこなし、同僚と中身のない会話をする。上司に呼ばれて書類のミスを指摘される。申し訳ありません。言葉だけで謝って、したくもない残業をする。でもやらなきゃ。お金がないと何もできない。

 新しい服が欲しい。ブランド物のバッグも欲しい。エステに行きたい。もっともっと綺麗になりたい。高級なのに控えめなアクセサリーをセンスよく身につけて、あの人素敵って言われたい。望むだけならタダだろう。実際は夢のまた夢。そんなの分かっている。

 帰り道、コンビニに寄ってヘルシー弁当とサラダ、そして缶チューハイを二本買う。

 幸せになりたいなあ。ぼんやりと思った。

 不幸だとは思わない。衣食住がちゃんとしてるんだから、これを不幸というのは贅沢だ。不幸だとは思わないけれど、だからといって幸せでもない。この感覚をどう言えばいいのだろう。退屈で仕方がない。なにか大きな事件でも起きればいいのに。

 セキュリティのしっかりしたワンルームマンションの一室。埃っぽい部屋。掃除機くらいかけなきゃと思いながら、結局やらずに一体どれだけ経っただろう。

 ドアの内側に取り付けられたポストを開く。ダイレクトメールと、クレジット会社からの通知に紛れて、ハガキが一枚ハラリと落ちた。

 無造作に拾い上げ、その文面を見て、すとんと表情が抜け落ちた。見開かれた目が、じわじわと、じわじわと。激しい憤怒に歪んでいく。

 それは、母の七回忌を告げるハガキだった。


 生家とは高校卒業と同時に縁を切った。本当は中学から心は家になかったけれど、義務教育時代は仕方がなかった。家に帰るのが嫌で嫌でたまらなかった。自分の人生で、もっとも暗黒だった時代と言っていいい。

 高校は、遠く離れた全寮制の女子校に行った。どうしても家に居たくなくて、そのために猛勉強までして、父に頼み込んで行かせてもらったのだ。

 学費をバイトで稼ぎながら通った大学時代。母が死んだと連絡が来た。通夜にも、葬式にも顔を出さなかった。そんなの死んでもごめんだと思った。

 あたしをいらないと言ったのはあっちが先だ。それなのに、どうして世間体なんてもののために顔を出してやらねばならないのか。

 死んだと思って。私のことは、死んだと思って。

 素直にそう告げると、父は絶句した後、怒りをあらわにした。父のことは好きだったが、これっきりになっても良いと思った。それほどに、母親とは関わりを断ち切ってしまいたかったのだ。


 ハガキはビリビリに破り捨てて生ゴミ入れに叩き込んだ。激しい怒りが正常な呼吸すら妨げる。過呼吸気味になりながら、乱暴に冷蔵庫を開いて冷えたミネラルウォーターを一気にあおった。一体何の嫌がらせだ。あれほど、あの女のことで連絡してくるなと言ったのに。

「そこまで良い子ぶりたいのかよ!」

 たまらずに叫んで、ちょうど足元にあった大きなクッションを蹴り飛ばした。北欧家具の専門店で買った、精緻な刺繍の施された高級品だ。哀れなクッションは壁に当たってずり落ちた。素材のおかげで壁に傷は付いていないが、乱暴な扱いにクッションは変形してしまっていた。大事にして来たのに。

 ハガキの送り主は、お互いの存在がお互いの不幸でしかなかった実の姉だった。

 からだの内側。まるで破局噴火を起こしたようだ。ずっと押し込めていた憎しみが、遠い過去に出来るはずだった思い出が、一気に地表に吹き上がって全てを焼き払った。きっかけなんて些細なものだ。粉微塵にされた虚勢が古い記憶を掘り返す。病院の廊下。呆然とベンチに座る中学生の自分。点灯したまま消えない手術室のランプ。噴き出した憎しみはまるでマグマだ。どろどろとどろどろと。灼熱に呑まれて溶けていく。

 明日も仕事だと理性では分かっていたが、このままここに一人でいて、理性を保っていられる自信がなかった。

 飲みにいこう。どこでもいい。どんな店でも構わない。この千々に乱れた心を鎮めてくれるなら。


 気がつくとベッドの上で横になっていた。知らない天井が見えて、ここはどこ? と考える。頭が重い。内側からガンガンと殴られているような感じがする。

 繁華街の居酒屋に行って、浴びるように酒を飲んだ。そこまでは覚えている。それからどうなっただろう。居酒屋で出会った誰かに「お持ち帰り」でもされたのか。やってしまった、と思いつつ、それはそれでいいかという気もした。自分を大事にする方法なんて分からない。百均で買ったプラスチックのカップみたいに、無造作に使われ壊れたら未練もなく棄てられるのだ。その方がきっと後腐れもない。

 だが、幸か不幸かスーツは乱れていなかった。胸元のボタンは外されていたが、おそらく呼吸をしやすくするためで、ただベッドに横たえられているだけのようだ。

 痛む頭を抑えながら上半身を起こすと、不思議な匂いがした。少しツンとするような、草っぽい匂いだ。意識して嗅いでいると、波が引くように頭痛が治っていく気がする。

 コンコン、と扉がノックされた。肩が跳ねる。反射的に「はい」といらえてから、寝たふりをしていた方が良かったかもしれないと後悔した。

「あら、良かった、お目覚めね」

 かちゃりとドアが開いて、姿を現したのは、薄紫のエプロンドレスを身に纏う、まるで絵本に出て来るような上品な西洋の老婦人だった。ぽかんとした。その隣にも、どこの芸能人かというほど顔立ちの整った、肌の白い金髪の美少女が立っている。声をかけて来たのは老婦人の方で、金髪の少女はなんとなく気取ったような表情で薄く笑みを浮かべながらこっちを見つめているだけだ。

「気分はどう?」

 老婦人が問う。

「ええと……」
「ここは駅近裏通りの知る人ぞ知る喫茶店。おねーさん、べっろんべっろんに酔っぱらってるところを、うちのじゅーぎょーいんに拾われたんだよ」

 金髪の少女が答えた。二人とも明らかに欧米人の外見をしているのに、目を閉じれば日本人と会話していると疑いようのないほど、完璧なイントネーションの日本語だ。

 どう反応すべきか決めかねている間に、老婦人は少女を伴ってゆったりとした足取りで部屋の中に入って来た。金髪の少女の手には水差しの載った盆がある。少女はつかつかと颯爽とした足取りで歩いて来ると、ベッドサイドのテーブルに盆を置き、グラスの中に水を注いだ。レモンの香りがする。

「はい。お水、飲んだほうがいいよ」
「あ、ありがとう……」

 差し出されたグラスを受け取る。よく冷えた水だ。レモンの香りはグラスから立ち昇っているのかと思ったが、どうやら金髪の少女もレモンの香りを纏っているらしい。一口飲んだ。爽やかな香りが、鼻を突き抜け脳天に抜けていくようだ。

「 どこか痛いというようなことはないかしら」

 老婦人が手を伸ばした。皴に覆われているけれど滑らかな手が、そっと崩れた襟を直してくれる。今度は花の香りがした。優しく、甘い。なぜだか胸を衝かれたような気分になって、滲んだ涙を瞬きで誤魔化す。

「……なんか、みっともないところ見せたみたいで……」

 泣きたくなった気分をごまかすために、話題を変えた。老婦人から目をそらし、醜態を晒したことを詫びてモゴモゴと口ごもる。

 すると、金髪の少女が、パッと両手を広げて白い歯を見せた。

「あたしたちは全然。でも、オレガノには謝ったほうがいいと思うな。オレガノ、あなたをここに連れて来た人だけど、あなた相当絡んだ上に、あいつの上で吐いたらしいから」

 血の気が引いた。


「あんた、あんなことしてたらそのうち死ぬぞ」

 そのオレガノという人に会って、さらに血の気が引いた。またも外人。しかも結構なイケメン。茶色い髪に暗緑色の目をした若い男性だ。組んだ足が見惚れるほど長く、どうにも威圧感を感じる。開口一番に言われた言葉のせいかもしれない。実際のところは分からないが、第一印象として苦手意識が刷り込まれたのは事実だった。

 この建物は一応喫茶店で、今まで寝ていた部屋は客間らしい。客間とはいえ他人の家のベッドを占領しているのが嫌で、移動をお願いすると、喫茶室に案内された。喫茶店というより、どこかの美術館みたいな部屋だ。主役は植物の絵で、申し訳程度の喫茶要素であるテーブルセットは、完全に風景の一部としてとけこんでいる。

 六つあるテーブルセットの、ひとつの椅子に座っていた男、それがオレガノだった。やっぱり流暢な日本語をしゃべっている。ただ静かに座っているだけなのに、妙な存在感があった。その気配に怖気付いているのを感じ取ったのか、金髪の少女が明るく笑う。

「オレガノに会った人、だいたい反応が真っ二つに別れるんだ。安心するって妙に懐くか、なんか怖いって遠巻きにするか。あなたは苦手な人なんだね」
「え?」

 そう言われても反応に困る。イエスと答えれば失礼になるし、ノーと答えたら嘘になる。社交辞令としては、ノーと答えるべきなのだろう。

「レモーン、どこー? あ、いた」

 その時、金髪の少女によく似た声が聞こえて来た。

 今さっき歩いてきた通路の奥から、パタパタと足音が近づいて来て、よく日に焼けた、金髪の少女とよく似た顔立ちの少女が現れた。双子、という単語が脳裏をよぎる。だが、確かに顔はよく似ているが、髪と目の色が違っていた。肌の色は、日に焼けているかそうでないか、の違いな気がする。

「レン。あ、ごめん、そろそろ、だね」
「そうだよー」

 なんだかよく分からないが、このレンという少女の出現で、話題が変わった。そのことにほっとしながら、よく似た二人の動向を見守る。

 少女たちは少しだけ言葉を交わして、それから改めてこちらに向き直った。

「ん、じゃ、あたし行かなきゃ。じゃあね、オレガノ、ラベンダー」

 双子のようによく似た二人の少女、レモンとレンは、ひらりと手を振り、部屋に残る男性と老婦人ーーラベンダーというらしいーーに挨拶を告げると、最後にじっとこちらを見つめた。オレンジ色とレモン色に射抜かれて、少し居心地が悪くなった。二人は鏡写しの鏡像のように同時ににこりと笑うと、

「見るべきもの、ちゃんと見てね、おねーさん」

 上品な老婦人、ラベンダーも奥へと戻って、オレガノと二人だけで残された。

 二人きりにしないでほしいと思ったが、なにかそうしなければならない理由があるらしい。

「……解放は、一番最初に引き合ったパルファムが行う、そう決まってる」
「ぱ、……なに?」

 もしかして、結構ヤバいところにいるのだろうか。そう思ったら、急に背筋が寒くなった。

「……ええと、たすけてくれて、ありがとう」

 まったく覚えていないのだが、話によればこの男に助けられたらしい。

「そ、それで、あたし、……そろそろ帰りたいんだけど」

 内心の動揺を必死に押し殺しながら、平静を装ってオレガノに告げた。終電はすでに終わっているが、タクシーがあるはずだ。帰れないことはない。

 オレガノが小さく頷いたので、少しほっとした。

「帰りたいなら帰ればいい」

 オレガノはそう言って、店の玄関を視線で指し示した。

「鍵はかかってない。出ようと思えば出られる。出よう、って、心の底から思うなら」
「なにそれ」
「……「私を見て」」

 オレガノが静かに告げた言葉に、ギクリと肩がこわばった。

「あんた、泣きながらずっと言ってた。俺に縋って、「ごめんなさい、いい子にするから」って」

 どくりと心臓が跳ねた。

「そんなこと、言った?」

 どくどくと早まる心音を感じながら、首を傾げて見せた。声は震えていないだろうか。

「あんたは言ってないかもな。言ったのは、」

 派手ではないが端正に整った顔。そこに、少し困ったような薄い笑みを張り付けて、トントン、とオレガノは自分の胸を人差し指でノックした。

「ここにいるあんただろう」

 肩から力が抜けるのがわかった。

 深いハーブの香りがする。

「……なにをやってもダメなの。一番になれない。一番じゃなきゃ、意味がないのに」

 これは一体どこから薫ってくるのだろう。レモンやラベンダーが同じ名を持つ女性から薫ったように、この香りもこの男から薫っているのだろうか。

「あたし、姉がいるんだけどね、そいつが、すっごい優秀なやつでさ。うちの親の自慢だった」

 心臓が軋んでいる。何を馬鹿なことをしているんだと思った。自分で固く封じた蓋を、自分でこじ開けようとするなんて。

「姉妹仲はわりと良かったよ。でも、中学の時にね、事故にあったの。姉ちゃんと二人で信号待ちしてたら、車が突っ込んできてさ。……姉ちゃん、あたしを突き飛ばした。そのおかげで、あたしはかすり傷。でも、姉ちゃんは……。命は助かったよ。後遺症も残ってない。でも」

 ぐ、と拳を強く握り込んだ。

「姉ちゃんは、母さんの自慢だったの」

 病院に駆けつけた母親は、半狂乱になって医師や看護婦に掴みかかった。そばにいる、同じ事故に巻き込まれたもう一人の娘のことなど、まったく目に入っていない、というような姿で。

 憎悪が、胸の奥でどろりと溶けた。マグマのような熱い塊。灼熱。この話をする時、悲しくはない。ただ、笑いたくなる。

「あたしのことなんて、欠片も気にしなかった。確かにね、かすり傷と、集中治療室なら、心配の度合いなんて全然違って当然だけどさ」

 笑いたくなるから、歪に笑う。

「……でも、あたしはあの目を忘れない。一度だけ、あたしを見たの。あの目はこう言ってた。……なんでお前が無事なんだ、って」

 その時に悟ったのだ。自分は、この女にとって必要な存在ではないのだと。むしろ、いらない、邪魔な存在なのだと。

「たぶん、事故すらあたしのせいで起こったって思ってたと思う。だからね、この人とは無理なんだって分かったの。血が繋がってようと、この女と一緒に暮らすのは無理だって」

 だから、いなくなろうと決めたのだ。

「……本当は、どういうふうにしてほしかった?」

「どう? いいえ、どうにも」

 オレガノの言葉を、笑い飛ばす。

「どうでもいいの。あたしの人生にあの人はいらない。それだけのこと、それだけのことなのよ」

 それだけのことなのに、どうしてだろう。ポロリ、涙がこぼれた。

 オレガノが目を閉じる。

 深いハーブの香りが、はっきりと、強くなった。


『おかあさん!』

 砂と岩ばかりの赤茶けた荒野。色彩を失った白くぼやける空の下、喉を涸らして叫んでいた。

『おかあさぁん!』

 あふれた涙が滝のように頬を伝う。駆けては転び、転んでは起き上がって、そうして必死で届かない影を追っていた。

 それは黒い影だった。真っ黒にすすけた自分の影だ。必死に走って、走って、届かない影に追い縋ろうとする。

『あたしを見て。お姉ちゃんだけじゃなくて、あたしも見てよ! ねえ、あたし頑張ってるよ、こんなに頑張ってるよ!!』

 ……怖気が走った。

『だから認めてよお! 褒めてよお! 偉いねって言ってよお!』

 みっともない叫び声。聞きたくなくて耳を塞ぐ。それでも聞こえてくる。私を褒めてと願う声。

「やめろっ!!」

 あまりの不快さに頭を振った。やめろやめろと何度も叫んだ。叫んだ。喉の奥に血の味が滲むほど。怒号が黒い影を打つ。

「なにそれ、馬鹿じゃないの!? 頑張ってる? 甘えんじゃないわよ。全然頑張ってない! まだ全然足りてない!」

 黒い影が足をもつれさせて転んだ。見えないのに、爪が割れ、皮膚が裂けて血が噴き出たのが分かった。それでも足りない。まだ、全然足りない。

「どこに褒める要素があるの!? もっと頑張りなさいよ! ドジ、のろま、出来損ない! なにをやっても駄目な奴! なんでもっと頑張れないの!」

 心臓が鋭く痛みを訴える。明かりの落とされた病院の廊下。消えない手術中の赤いランプ。大好きだった姉が自分を庇って死にかけているという現実と、それを責める母の視線。

「どうして……」

 母の視線が、叫んでいた。――どうしてお前が生きているの、と。

「どうして……!」

 たった一言で良かった。たった一言、「無事で良かった」、そう言ってくれるだけで。

 それだけで。

「……よく見ろ。アレはあんたの母親じゃない」

 静かな声が、乾いた荒野に落とされた。叫ぶはずだった言葉は、その声音と、深いハーブの香りに包まれた。

 なにかが、ぱちん! 音を立ててはじけた。例えば目に刺さった氷の棘を溶かすように、流れた涙が、砂に落ちて消えていく水滴が、大地の色を変えていく。

 ……そこに、小さな芽が生えた。

 若葉に水滴がついている。光を受けてかすかに輝くその水が、ぽちゃん、黒い影に滴った。

 黒い影の表面が、まるで錆が落ちるように剥がれていく。ぺりぺりと、ぺりぺりと。それと同じ現象が、けして届かない母の影にも起こる。

「――鏡だ」

 声が言った。母だと思い追っていたのは、走り続ける自分の背中だったのだ。

 ……ああ。

 当たり前だ。

 褒めてほしい、認めてほしい。

 そんなささやかな願いも叶わないのか。

 ずっとそう信じていたけれど、……当たり前だ。

 歪んだ鏡。己を殺すほどの自己否定。こちらを向いてもいないのに、どうやって認められるというのだろう。

「鏡は正しく使うものだ」

 あまり抑揚のない、静かな、それ故に癒す言葉。胸にしみる。じわじわとしみていく。それが胸いっぱいに満ちた時、……ゆっくりと頷いていた。

 零れ落ちた涙が、砂の大地に、ひとつまたひとつと若葉を増やす。

 鏡に正しく映った姿は、爪が割れ、膝が擦り剝け、血と泥がこびりついた酷い姿をしていた。

 ボロボロだ。

 血まみれの姿で、ただ一か所荒野のままの土の上に跪く自分に近づいた。怖い。でも行かなければ。待っていた。ずっとずっと待っていた。目の前に立って見下ろすと、光を失った目に見上げられた。

 空っぽの器。もう、ボロボロだ。今にも崩れそうなほど。

 言うべき言葉は、自然と零れた。

「……頑張ったね」

 奈落のようなまなざしに、ほんのわずか、星のような光が灯る。

「……ずっと、頑張ってきたんだね」

 頽れるように、膝をついた。奈落から溢れる血の涙。震える指でそれを拭い、そのままボロボロの身体を抱きしめた。

「ありがとう。もう、頑張らなくていいんだよ」

 ボロボロの自分が、「私」にしがみついて泣く。

 満ちていく。

 痛みも、苦しみも、絶望も、……愛も。それらすべてを抱きしめて。

 最後の荒野が、緑地に変わる。


 午前六時にセットしたアラームが鳴る。昨日も寝るのが遅くて、朝の目覚めは最悪だ。ベッドの中でもぞりと蠢き、腕を伸ばす。枕元に置いたスマートフォンを操作してスヌーズを止める。画面の光が目に痛い。

 重い身体を叱咤してベッドを降りた。この前の日曜に気合を入れて大掃除したから、フローリングの床はピカピカと光沢を放っている。

 仕事は三日間の休みを取った。母の七回忌に参加するため、今日はこれから荷物をまとめて故郷に帰るのだ。通夜も葬式も参加しなかったけど、あれからもう七年も経った、そろそろ和解してもいい頃合いだろうという気持ちになっていた。

 テーブルの上に、姉から届いた法事の通知ハガキが置いてある。その隣には、ここ最近のお守りであるオイルの小瓶が置いてあった。ひどく泥酔して帰ってきた日以来、なぜか肌身離さず持っているものだった。

 窓から射す光が、小瓶をを透かしてハガキの上に光の粒子を躍らせる。

 一生消えないと思っていた母への憎しみが、春の日差しに溶ける雪のように小さくなっている。

 母に愛されたかった。それを想うと今も胸が痛んだが、愛されなかったことを責める気持ちはなくなっていた。

 愛されないという形で愛された。今は、そんな哲学的なことさえ思う始末だ。

 母のことを知りたいと思う。愛されないと拗ねて顔を背けていた母のことを知り、そしてできれば赦したい。

 愛されたいと願うほど、母のことを愛している。

 そんな自分を、赦したい。


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