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森は見つめる

 上京してからそろそろ三年になる。強くやりたいと思ったことがあったわけでもなく、ただ東京への憧れだけで選んだ進路だったが、幸運にも人の縁に恵まれて今までなんとかやってこれた。仕事は派遣社員として色々なところを転々としている。もともと同じところに長くいるのが苦手な性分だったので、この生き方は自分に合っていると思っていた。

 嘘だ。本当は、ちょっとだけ、寂しい。そういう本音は、時折、風に吹かれたように舞い上がって目の前に現れる。たとえば一人で晩酌をする夜に。たとえばなんの予定もない週末に。

 そんなこと、気にしないタイプの人間だと思っていたのに。年を取った、ということなのだろうか。

 一ヶ月前から新しく派遣された職場では、同時期に部署移動してきた女性社員と仲良くなった。「ほわほわ」なんて擬音の似合いそうな可愛い子。自分とは正反対のタイプ。お昼ご飯は大体いつも彼女と食べる。深い会話はしない。面白かったテレビの話題とか、気になるコスメの話題とか、その程度。彼女といるのは居心地が良かった。彼女は、色恋の話題を一切出さなかったから。

 自分はコンビニ弁当なことが多いが、彼女は料理が趣味らしく、いつも凝った弁当を持ってきていた。弁当箱は意外に大きかった。何も言わず普通に接していたら、彼女が珍しいねと言ったことがある。弁当箱の大きさを、だいたい突っ込まれるらしい。変に小食を気取るより、そっちの方がよほど好感が持てる、と思ったが、そういうことは言わず、「別にいいんじゃない?」と雑談の延長で答えたら、ちょっと嬉しそうにしていたのを覚えている。

 友人が有給を取った日の昼休み、コンビニに向かう途中、ふと思い立って道を一本変えてみた。今日は待ってくれている人もいないから、急ぐ理由もない。

 このあたりはオフィス街だったから、曲がる場所をひとつ変えたところでさして景色に変化はない。そうだろうと思っていたのに、予想に反して、小さな公園を見つけた。公園といっても、遊具はなく、砂場とベンチと時計があるばかりの狭いスペースだ。隅っこにお地蔵様が立っている。昔は遊具の一つや二つあったのかもしれないが、今はその名残もない。

 葉が黄色く色づいた桜の木の下に、ベンチがあった。等間隔で三つ並んでいる。誰もいなかったので、公園の中に入って、真ん中のベンチに座った。今日は天気が良くて、日差しは暖かい。

 ここで食べようと思ったのは、今職場で地味に風邪が流行っているからだ。仕事中はマスクをかけられても、流石に食事中は外さざるを得ない。咳をしまくっている人の前でそれは嫌だ。正直、今の時点でちょっと喉に違和感があるのだ。

 コンビニであっためてもらったいつもの幕の内弁当と、あったかいお茶。日差しの中でもそもそ食べる。あまり食べ物を不味いと思うことがないので、今日の弁当もそれなりだ。いつも通り。……いつも通り。

 携帯にメッセージが来ていた。友人からだった。今日はなかなか予約が取れないのだという料理教室に行っている。楽しそうな絵文字と一緒に、「今度持って行くから味見してね」と書かれていた。

 友人に返信して、ゴミをまとめて。しばらくSNSで気になる話題を眺めた後、そろそろ職場に戻ろう、そう思って立ち上がると、

「んなーお」

 足元で、猫が鳴いた。

 驚いて思わず悲鳴をあげてしまった。毛艶のいい猫が、じいっとこちらを見上げている。尻尾は上を向いて、左右にゆらりゆらり。靴下を履いた猫だった。

 一瞬固まった全身が、猫の姿を認識して弛緩していく。首輪はない。野良猫なのだろうか。それにしては、毛並みはぴかぴかでつやつやだが。

「びっくりした。こら、そんな目で見ても、何もないよ」

 猫は嫌いではなかったので、しゃがんで撫でようとすると、猫はプイっとそっぽを向いた。

「ごめんね、その子、気まぐれなんだ」

 死角から女の人の声がした。またもびっくりして、肩が跳ねる。ひっ、なんて声も出た。

 顔に血が上るのを感じながら、振り返って、一瞬――深い森の幻を見た。恥ずかしさとか、警戒心とか、そういうもので縮こまった心臓が、嘘みたいに緊張を解く。緑の黒髪、なんて表現があることは知っていたが、実物は初めて見た。

 カジュアルな服装の美人が、ニコニコとこちらを見ている。いや、見ていると言っていいのだろうか。なんせ、目を閉じている。目の見えない人かと思ったが、白い杖を持っているわけでもない。

「こんにちは」

 少し低めの、澄んだ綺麗な声だった。ここにいるのに、ここにいないような気もする。不思議な気配。瞬きをしたら、その瞬間には消えてしまいそうな。でも、存在感が希薄、というわけでもない。

「あ、……こんにちは。あなたの、猫なんですか?」
「ううん」

 緑髪の美人は首を振る。

「私の猫じゃないよ。ルカは、ルカ。私は招かれただけだしね」

 楽しそうに、美人は言う。友達の猫、といった感じだろうか。そして、名前はルカ。

「招かれた?」

 美人はにこりと笑う。それだけだ。答えにはなっていないのだが、なぜか気にならなかった。不思議と警戒心を抱かせない人だ。なんとなく、一緒にいると落ち着く、というか。

 しばらく雑談をして、その最後に、

「今日は暖かいけど、明日はぐっと冷えるんだって」

 空を見上げて美人が言った。つられて空を見上げると、コンクリートジャングルに囲まれた空は真っ青で、雲ひとつない。

「私は今日で最後だけど。暖かくしてね」

 こちらに向き直った美人が、目を開けた。長い睫毛に縁取られた、深い緑色。一瞬、どきりとした。

 無意識に胸に手を当てていた。熱くなることなんてないと思っていた心臓が、熱い。何の脈絡もなく、脳裏に豊かな大森林の幻が翻った。そこは人を癒すのだろう。ふと、その水と光に育まれた恵みの地を、誰かと一緒に見たいと思った。

 くるりとこちらに背を向け、足取りも軽く、美人は猫に先導されるように去っていった。一体なんだったんだろう。ややあって、ぼうっとしている場合ではないと我に返った。早くオフィスに戻らなくては。

 ふと、喉の違和感が消えていることに気づいた。一応のど飴は舐めたけれど。それが効いたのだろうか。

 次の日、覚えたばかりの新メニューをタッパに入れて持ってきた友人に、公園で会った妙な美人の話をした。本当に妙な人だったが、あれほどの美人はそうそういないだろう。もう一度くらい会ってみたいな。そんなことを。

 すると、彼女は唖然とし、狼狽え、考え込み、それから意を決したように、週末飲みに行こう!と言った。ほとんど叫んでいたとも言っていい。職場の外で会うのは初めてだった。その勢いにちょっと驚いたが、まあ断る理由はなかったので、了承した。

 その飲みの席で、酔っ払った彼女に号泣されながら愛の告白をされるのは別の話だ。そして、今まで自分は異性愛者だと思っていたのに、その告白をなぜか受け入れてしまって、それからの日々がなんだか今までで一番楽しくて心地よかったのも、また別の話である。


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