パルファム・フランキンセンス
妻が死んだ。結婚して五年。いつも新婚みたいねとからかわれるほど、仲のいい夫婦だった。
子供は二人。三歳になる双子だ。子供は三人はほしいねと話していたから、いきなり双子を授かったことに、妻は誰より喜んでいた。
ぽっかりと穴が開いたようだった。心の奥の、一番大事な場所に、埋めることのできない穴が空いている。ぴゅうぴゅうと冷たい風が吹き抜けている。凍えるようだ。温めてほしいのに、温めてくれる手はもうどこにもない。
妻の両親が、たまには息抜きをしてきなさいと子供達を預かってくれた。息抜き。自分の息が抜ける場所は、後にも先にも妻がいてくれる場所だった。だから息抜きなんてできるわけがない。けれど、妻を亡くした義理の息子を案じてくれている気持ちを無下にはできなくて、一人で家を出た。
人の往来の中にいると、妻の姿を探してしまう。けして美人ではない、けれど、いつもニコニコと笑っていて、心を照らしてくれた人。
闇の中にいる。
もう夜明けが訪れないのだと思ったら、希望のなさに目眩がした。
「ひどい顔をしていらっしゃる」
人のいない方へと無意識に進んでいた。誰もいない路地裏に入り込んで、ぼうっとしていたらしい。かけられた声に、我に返った。
いきなり無礼だとは思わなかった。きっとそうだろうと思った。家を出る前に見た鏡の中には、生気のない、幽鬼のような顔があったからだ。まさに生ける屍。己の命の半分、いや、大部分が失われてしまったのだ。それも当然のことではないのか。
無視をして通り過ぎても良かったが、振り向かせる気になったのは、一瞬香ってきた妙な匂いのせいだった。酸味のある匂いだが、酢ともレモンとも違う。今までかいだことのない香りだ。それが気になったというより、反射的に体が動いた、というほうが正しい。億劫だと思いつつ、ノロノロと声の主を振り返って、少しだけ、驚いた。
そこに立っていたのは、淡い褐色の肌をした一人の男だった。背が高く、髪は黒くて、目は、……光の加減だろうか、金色に見える。非現実なほどに整った容貌だ。まるで、そう、まるでどこかのお伽噺から抜け出してきたかのような。
夢を見ているのかもしれない。
「こんにちは」
男は、柔らかな物腰で、にこりと笑う。やはり、白昼夢の中にいるのかもしれない。ああ、すべて夢であればどんなにか。
「少し、涼んで行きませんか?」
男は瀟洒な建物を手で指し示した。凝った造りの一軒家に見えるが、喫茶店なのだという。
「いえ、そんな」
「迷っておられるようですから。よろしければ、道案内を」
迷っていると言われて、どきりとした。そういう風に見えるのかは別として、その通りだと思った。
確かに迷っているのだろう。妻が倒れたあの日から道は見えなくなり、今ではもう足元すら見えない。かつて目指していた場所さえ、もう忘れてしまった。
「……日本語、お上手ですね」
けれど、口をついて出た言葉は、そんな意味のないことだ。
「ありがとうございます。この国の言葉は、とても美しいですね」
胸が鋭く痛んだのは、文系の大学を卒業した彼女の口癖が、日本語って本当にきれい、だったからだ。
夢ではないのだ。すべて、紛れもなく現実なのだ。
いけない、と思った瞬間には、もう無理で。こみ上げた悲しみが、ぽろり、堰を切った。
白い壁にいくつもの絵が飾られている。妻が好みそうな店だと思った。一緒に来れていたら、どれだけ喜んでくれただろう。
ひとしきり声を殺して泣いた後、不思議なほど心が緩んでいるのが分かった。みっともないところを見せたと謝罪すると、男は静かに微笑む。
「妻が、いなくなってしまったんです。突然倒れて、意識が戻らないまま」
死んだという表現が出来なかったのは、「死」という言葉を忌避しているせいだ。
人はいつか死ぬ。当たり前のことなのに、それを本当には理解できていなかったのだ。
「脳溢血でした。本当に突然のことで、全部悪い夢で、家に帰ったらいつもみたいにおかえりって言ってくれる気がして」
二人の子供は、幼すぎて母親の死を理解出来ていない。ただ、どこか遠くに行ってしまったのだと思っている。
パパ、ママは? いつ帰ってくるの? 無邪気な眼差しが心を切り裂いてくる。もう帰って来ないなどとは口が裂けても言えなくて、いつも誤魔化していたけれど、そろそろ限界だった。子供たちが、何かおかしいということに子供心に気づいてしまって、ママが良いとぐずって泣き始めたからだ。
もういない人を求められて泣くのは、辛い。
子供の前で泣くこともできず、その苦しみに逃げ場がないのも、ただ辛い。
これからずっと、こんな喪失感を抱えて生きていくのだろうか。
時間が解決してくれる。そんなありきたりな言葉がある。実際自分も、それを使って人を慰めたこともある。
だが、こうなってみればよく分かる。時間が解決してくれたなんて結果論だ。耐えきれなかった人もいるだろう。押し潰された人もいるだろう。
「……どうしたらいいんでしょうね」
自嘲気味に呟いた。本当に、どうしたらいいのか分からなかった。
心の底から愛した人。後を追いたいと思っている自分がいる。そんなことできないと思っている自分もいる。
子供たちはどうする。妻の両親がいる。母に続いて父まで失わせるのか。妻一人幸せに出来なかった自分が、子供たちを立派に育てられると思っているのか。
「……死は、愛を終わらせるものではありません」
顔を上げると、まるで神話に出てくるような容貌の男が、穏やかな微笑を浮かべていた。その表情が、神経を逆撫でする。
「記憶の中に生きているから、ですか?」
妻の葬儀で親類から言われたセリフを、この上なく馬鹿馬鹿しい気持ちで返した。忘れなければ永遠などと、綺麗なだけのそんな言葉で、どうしてこの苦しみが癒えるのか。所詮は他人事だと言われている気がして、ただ、不愉快だ。
「いいえ。生も死もただの錯覚であると申し上げているのですよ」
そうだと言われたら、出されたカップの中身をぶちまけてやろうと思っていた。だが、返ってきた言葉は予想もしていなかったもので、「……は?」と間抜けな声が出た。
「心臓が脈打つことを「生」と呼び、その脈が止まることを「死」と呼ぶなら、それはただ「肉体に終わりが来た」というだけのこと。目に見えぬものは存在してはいけないのですか?」
「意味がわからない」
目に見えるものがすべてではないと男は言う。よくある言葉だ。確かにそういうものもあるだろう。例えば空気や光のように、目には見えずとも存在が確立されているものが。
だが、だからと言って、そこになぜ人の命が含まれる。肉体が終われば命も終わる。それがこの世の摂理ではないのか。
「いないものはいないんです。さわれないし、声も聞けない。もうどこにもいないんです。それを悲しむなというのですか」
「悲しむようなことではありませんから」
夜の帳のような、どこまでも静かな言葉。それなのに、だからこそ頭に血が上った。それは一瞬のことだったが、それで十分だった。
「ふざけるな!」
声を荒げて立ち上がった。憎しみすら込めて睨みつけた男は、変わらない静けさでこちらを見上げる。
「……申し遅れました。わたくしはフランキンセンス。主人に代わりこの店の店主をしております」
ふわりと、少し酸味のある、深い香りが鼻腔を擽る。この男から香っているのか。香りを意識した瞬間、スイッチが切り替わるように燃え上がった感情が急速に鎮火していくのがわかった。
「す、すみません」
冷静になれば、まず謝罪が口をつく。
「いいえ」
フランキンセンスは、怒りもせず、ただ静かに微笑むだけだ。
「迷える方。どうぞ、これをお持ちください」
ことりと、目の前になにかが差し出された。
店内の弱い照明に照らされて、細工硝子の小瓶が虹色に光っている。中には液体が入っているようだ。
「我らは長らくヒトという種の傍らに寄り添ってまいりました。その本質は未だ変わらず、そうであるなら我らの役目もまた変わらないのです」
芝居がかった物言い。だが、似合うと思ってしまうのは、この男の存在自体が非現実に思えるからか。
「閉ざされた第3の目をお開きください」
フランキンセンスはそう言った。
「これはその助けとなるもの。そうすることで見える真実もございましょう」
さっぱりわけがわからない。どう考えても怪しすぎる。それでも、手が伸びた。自然に、そうするのが当たり前のように、勝手に身体がそれを受け取っていた。
変化が現れたのは、その数日後のことだった。
喫茶店と銘打たれた妙な店の、それに輪をかけて奇妙だった店主からもらった小瓶は、家に持ち帰ってリビングの片隅に置いておいた。
ただそれだけだ。
目に入る位置ですらなかった。自分でもどうして受け取ってしまったのか分からない。中身はあの店主と同じ名を持つ精油だと聞いていたから、なんだか癪で、かいでやろうという気にすらならなかった。いっそ捨ててやろうと思いもしたが、なぜかそれだけは出来なかった。
だが、時々、あの深く不思議な香りが漂う。味のしない食事をしているときに。笑えもしないテレビ番組を見ているときに。
ふと気がつくと、あの押し潰されそうな悲しみが、悲しみという形は変わらないまま、少し軽くなっていた。
子供達も、母親を求めてぐずることがなくなっている。
どうしてだろうと思ったが、答えは見つからなかった。人の防衛反応なのかもしれない。そのことには安堵したが、同時に寂しくもなった。
こうやって彼女のことを過去にしてしまうのだろうか。過去にしてしまえるのだろうか。
それは、彼女に対する裏切りにはならないか。
あんなに愛していたのに。今ですら、こんなに愛しているのに。それを過去にしてしまえるのかもしれない狡さが、吐き気がするほど嫌だった。
その日は、リビングで子供たちを遊ばせて、自分はソファの上からその姿をぼんやりと眺めていた。
妻の遺した忘れ形見。愛おしいという感情は確かにあるのに、この子たちがいなければ妻の元に逝けるのに、と考えてしまう自分がいる。
義理の両親が近くに住んでいて、平日の昼間は義母が子供たちを見てくれている。
「ママー」
双子の片割れが、ふいに声を上げた。楽しそうな声。ぐずって泣いていたのが、もう遠い日のことのようだ。
もう随分と、そんなふうに妻を呼ぶ声は聞いたことがない。当たり前のことだが。
当たり前だと思ってしまったことを、また悲しく感じながら、緩慢な動きでそちらに目を向けると、子供は、水性クレヨンで描いたなんだかよくわからないカラフルな絵を壁に向かって見せていた。
ごく自然な流れで、妻のお気に入りの壁紙が張られた壁に目を向け――ギクリとした。
一瞬、本当に一瞬。そこに、いなくなってしまった人の姿が見えたからだ。
なんだ、今のは。
心臓がドクドクと脈打っている。
あれは妻だった。見間違えるはずがない。あれは確かに妻だった。
幻。白昼夢。ノイローゼという言葉も脳裏をよぎった。
その日から、いなくなってしまった人の気配を、確かに感じる日々が始まった。
仕事から帰ってくると、お疲れさま、と笑ってくれる気配がする。
不器用な手つきで包丁を握っていると、上手上手、と褒めてくれる気配がする。
いよいよノイローゼが冗談ではなくなってきた。
けれど、嫌ではなかった。
その気配に癒されている自分がいることを、はっきりと自覚していたから。
妻の気配を感じていると、出逢ってからの今までのことがありありと思いだされた。
中途入社した会社の地味な事務員。ぱっと光を散らすみたいな笑い方をする人で、その笑顔に一目惚れした。
歓迎会。酔った勢いで告白したら、ほぼ初対面なのに? とドン引きされたのを覚えている。
明けた月曜、飲み会でのことを謝って上で改めて一目惚れしたと告白すると、最初は悪戯だと疑われて。
学生時代にそういういじめをされたのだと知ったのは、結婚してからだ。
厭な思い出があるのに、それでも信じてくれたことが嬉しかった。
りょうくんがね、本心から言ってくれてるんだってわかって、嬉しくって家で号泣したんだよ。
一年目の結婚記念日に、照れながらそう言っていたのは一生忘れないだろう。
こんなあたしでも、こんな風に好きになってくれる人がいるんだって。はじめて、生きててよかったって思えたんだ。
たまらなくなって、抱き締めた。一生をかけて幸せにしようと思った。想い出が魂に刻み込まれるくらい、深く、深く。
そして、夢を見た。
自分の輪郭が、溶けてなくなる夢だった。
――フランキンセンスの香りがする。
妙にすっきりとした目覚めで、ぱちりと開いた双眸は黄金の光を見た。昨晩カーテンを閉め忘れたせいで、夜明けの光を遮るものがなかったのだ。
きらきらと。きらきらと。光の粒子が舞っている。
「……佳代?」
意識したわけでもなく、ただ、ごく自然にその名が口をついた。
もちろん、返事はない。いつもなら死にたくなるほど辛くなるのに、今回に限ってそれがない。むしろ、確かに返答があった、という気さえする。
光の粒子が踊っている。
根拠もなく、いる、と思った。
今までのような、ふとした瞬間に気配を感じる、というレベルではない。この家の中にいる、という感覚が確かにある。
『死は、愛を終わらせるものではありません』
脳裏に、神話から抜け出たような男の言葉が蘇る。
身体を起こして、部屋の中を見渡した。
黄金の光。すべてが優しく煌めいて、まるで夢の中にいるようだ。
……あの香りがする。
『目に見えぬものは、存在してはいけないのですか?』
かちりと音を立ててなにかがはまる音がした。
目には見えないものとは、一体なにを指していたのか。あの時はわからなかったことが、今、わかった。
……"いのち"だ。
目には見えないのに、確かに存在するもの。
それは、"いのち"そのものだ。
「佳代、佳代、そうなのか。お前、ずっと、ずっと……」
それは悲しむことではないと、神話のような男は言った。
その言葉の通りだった。生と死の理に縛られるのは肉体という器に過ぎない。
輪郭が溶ける夢を見た。内側の自分が、どこまでも無限に広がる夢を見た。
それが真理なのだ。命は、魂は、生も死も越えたところに存在するのだ。
「ここに……」
熱い涙が頬を伝った。哀しみの涙ではない。嬉しいのだ。舞い踊る光の粒子。これほどに愛されているのだという事実が。
肉体は命の器にすぎない。器から溢れた水はどうなる。土に染み込み消えてなくなる? いいや、見えなくなるだけだ。水は水として存在し続ける。
見えないものを見る目を開け、とあの男は言ったのだ。
確信があった。
失ったなどと、ただの錯覚だ。
失ってなどいない。ただ見えなくなっただけ。器をなくして、けれどその中身は、ずっとそばに。
もう大丈夫だ。
愛は、今でもそばにいる。
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