パルファム・オレンジ

 交互に点滅する赤いランプ。甲高い耳障りな警告音。それに負けじと声を張り上げる赤ん坊の泣き声は、雑踏の音に紛れて消えていく。
 疲れていた。疲れていると自覚できないほど、深く疲れていた。乳児は朝も昼もなく泣き、母親の精神をすり減らす。目の下にくっきりと刻まれたクマは黒くどんよりと陰を落とし、ただでさえ落ち窪んだ目を更に鬼気迫る印象にさせる。

 正常な思考力などとうになかった。誰も味方のいない、一人きりの部屋。逃げ出したくて、なにも持たずに家を出た。逃げられなくて、我が子を抱いて家を出た。置いていくことができなかったのは、この子には自分しかいないというほんのすこしだけ残った母としての矜持が、擦り切れる寸前の理性が、赤子を独り家に置いていくのを良しとしなかったからかもしれない。

 路線の集まる駅に最も近い踏切は、一度遮断機が降りるとなかなか通ることができない。渋滞の原因になり、血栓のようにわだかまる人の群れを作り上げる。人々は皆一様に疲れた顔で、濁った目で遮断機を見つめる者もいれば、大して面白くもないスマホの画面を惰性で見続ける者もいる。
 彼らはみな他人への興味を失っていた。だから、ひどく草臥れた様子の母親の腕の中で乳児が火がついたように泣いていても、その赤子の身を案じる者はいなかった。
 ふと、母親が俯けていた顔を上げた。虚ろな目が西陽で真っ赤に染まった空を映す。遮断機は降りたままで、列車の接近を知らせる警告音はけたたましく続いている。
 母親の目の中に、遠い過去の幻影が閃く。赤い夕暮れ。その中を息急き切って走ったあの日。帰り着いた自宅には、いつだって「おかえり」と笑ってくれる人がいた。
 帰りたい。帰れない。帰りたい。帰れない。
 産むつもりなら二度とうちに帰ってくるな。そう怒鳴った父親の声が、今も耳の奥に残っている。
 母親は泣き喚く我が子を抱く腕に力を込めた。痩せた腕だった。両親を裏切ってまで選んだ男は、他に女を作って帰ってこない。
 いっしょに、いこうか。母親は、愛しながら憎んだ我が子に、心の中で声をかけた。
 踏切の向こう、降りた遮断機をくぐれば、きっと楽になれる。
 その時だった。

「赤ちゃん、かわいいね」

 世界から音が消えた。点滅する赤いランプ。降りた遮断機。踏切が開くのを待つ車と人の群れ。泣き喚く赤ん坊。その姿は変わらないのに、ただ、音だけがミュートボタンを押したように消え失せた。聞こえたのは、背後からの若い女の声だけだ
 虚ろだった母親の、どろりと濁った双眸に、ほんのわずか光が戻る。向こう側へと一歩踏み出すはずだった足が、中途半端にひび割れたアスファルトの凹凸を踏んだ。

「……え?」

 鼻腔に馨しい果実の香りがふれた。かいだことのある香り。とっさに思い出せず、ただ、なんだろうと考えた。思考力も麻痺していた。
 ノロノロと振り返った母親の目に、にこりと笑う少女が映った。長い睫毛に縁取られた大きな瞳が、優しく微笑んで母親を見つめていた。その眼差しがゆっくり赤ん坊に注がれる。それから、うんとひとつうなづくと、視線が母親に戻される。いつの間にか赤ん坊は泣き止んでいた。

「ママのこと、大好きなんだって」

 少女が細くたおやかな手を母親の頬に差し伸べた。西陽を浴びていることを差し引いても陰影の濃い肌。日に焼けているのかもしれない。ふれることはせず、ただ仕草だけで頬を撫でる。ふわり。再び果実が香った。オレンジだ、と思った。太陽の恵みを一身に浴びて実る南の果実。
 何かが、胸の奥で身悶えた。
 母親のくちびるが震えた。眼球の奥が熱を持つ。耐えられない、と思った瞬間、ぽろり、涙がこぼれた。

「あの…大丈夫ですか?」

 我が子を抱いて嗚咽を漏らす母親に、ハンカチが差し出された。人気のマスコットキャラクターがプリントされたタオル地のハンカチだ。
 いつの間にか踏切は上がり、往来が再開されていた。車の列が徐行で駅前の人通りの多い道を進んでいく。帰宅ラッシュに重なるこの時間は、ドライバーにとっては悪夢のような時間帯だろう。駅へと向かう人の群れが、あるいは駅から出てきた人の群れが、母親と少女を避けて二つに割ける。
 なんてことをしようとしたのだろう。深い悔恨が母親を打ちのめしていた。涙と一緒に流れ出たのか、思考を覆っていた靄がわずかに晴れている。ごめんね、と我が子に繰り返した。赤ん坊はすっかり泣き止んで、じっと母親の顔を見上げている。そのつぶらな瞳が自分を責めているようで、ますます心臓が激しい痛みを訴えた。

「あの……」

 母親は、何度目かの呼びかけでようやくハンカチを差し出す少女の存在に気が付いた。あの馨しい果実の香りはすっかりと空気に溶け消えてしまっていた。はっとした。馬鹿な真似をしようとしたところを救われたのだ。その礼をしたくて顔を上げた母親は、だが涙に濡れた目を丸くしてハンカチを差し出す少女を見た。
 違う。明らかに、さっきの、オレンジの香りを纏った少女ではない。今そこにいるのは、どこだったか、近くの高校の制服を着た少女だった。ブレザージャケットの胸ポケットについた校章のワッペンのデザインに見覚えがある。母親は瞬きをした。涙の粒がまた頬を滑り落ちる。

「さっきの、子は?」
「さっきの子?」
「甘い匂いの」

 そう言うと、女子高生の目が丸くなった。それから、少し考える仕草をしたあと、プリーツスカートのポケットの中から小さな巾着袋を取り出す。あ、と思った。ふわりと香った香りは、間違いなくあの香りだ。

「もしかして、こんな感じの匂い、しました?」
「ええ、ええ」

 甘く優しい柑橘の香り。涙腺が刺激され、じわり、涙が滲む。赤ん坊が「あー」と可愛らしい声を上げて、そのもみじのような両手を母親に伸ばした。女子高生が目を細めて赤ん坊を見つめる。可愛いですね、と言われて、さっきの少女を思い出した。
 夢だったのだろうか。今なら、自分がひどく疲れていると自覚できた。その疲弊した心が、白昼夢を見せたのだろうか。

「すごく、良い香り」

 差し出された匂い袋に顔を近づけ、その香りを胸いっぱいに吸い込む。満たされる、という気分になる。状況は何も変わっていないのに、確かに安心している自分がいるのだ。

「あの、ここじゃなんなんで、移動しませんか? 近くによく行く店があって、そこ、一応喫茶店? なんですけど、アロマもやってて、これ、そこの香りなんですけど」
「……ごめんなさい、財布を持ってないの」

 母親は心底申し訳ない気持ちで断りの言葉を告げた。本当に、我が身と赤ん坊だけでここに来たのだ。申し出は嬉しかったが辞退する他なかった。こうして他人と会話するのも久しぶりで、心は一緒に行きたいと言っていたけれど、高校生にお金を払わせるわけにもいかない。

「……いえ、あの……うまく説明できないんですけど、レン、あ、お姉さんが言ってるの、たぶんレンって子のことだと思うんですけど、そのレンが待ってるっていうか……むしろお姉さん連れてかないと、わたしが文句言われるというか……」
「どういうこと?」
「これ、レンの香りで、お姉さんがこの匂いがわかるなら、やっぱり連れて行かなきゃいけないんです。だから、お願いします」

 少女は深々と頭を下げる。なんだかよく分からないし、言ってしまえば怪しすぎる言動だったのだが、なぜか警戒という気にはなれず。

「……じゃあ、ちょっとだけ」

 自暴自棄になったわけでもない。本当なら断るべきだとも理性が言っている。だが、本能と呼べる部分が「一緒に行け」と訴えている気がして、母親はおずおずと頷いてみせた。

 少女は椎名さゆりと名乗った。高校二年生であり、聞いた高校の名前は、公立ながらも県で二番目に偏差値の高い学校だった。「頭が良いのねえ」と褒めると、はにかみながら「ありがとうございます」と頭を下げる。

「色々あって、確実だって言われてた第一志望には落ちちゃったんです。合格発表の時は、もうこの世の終わりのような気分になりました。学校にも結構な間馴染めなくて、馴染む気がなかったというか」

 案内する道すがら、少女は自分の身の上話をした。望んでいたのとは違う未来。剥離していく理想と現実。その狭間で一人苦しんでいたのだという話は、母親の胸に鈍い痛みを与えた。その苦しみはよく分かる。何故なら、今まさに自分がその苦しみの中にいるのだから。
 隣を歩く女子高生の横顔を盗み見る。背筋をピンと伸ばし、顔を上げて、くちびるには自然な笑みが浮かんでさえいる。今どきの女子高生で、いや、それに限らずとも、これほど姿勢よく、颯爽と歩く子は少ないのではないだろうか。背中を丸めて、俯いて、そうやってなにかから隠れるように生きている人間のほうが大半なはずだ。
 私とは違うのね、と母親は思った。この子は、堕ちこんだ理想と現実の狭間から、どうやってか脱出することが出来たのだ。勉強が出来たこと、まだ年齢が若かったこと、なにが要因かは分からないが、それと同じものが自分にもあるとは思えない。
 少女に先導され、繁華街の路地裏を行った先に、ぽかりと口を開けた空間があった。そこに、外国の建築様式の瀟洒な建物がこじんまりと鎮座している。それはフランス式と言われるような建物だったが、詳しくない母親には、かろうじてヨーロッパの方の建物だと推測できたくらいだ。
 アーチ状の門をくぐり、表札も看板もない扉を開くと、ふわり、不思議な香りが母親を包んだ。花のようにも、ハーブのようにも、蜜のようにも思える、今までにかいだことのない、けれど心地の良い香りだった。
 店の中には誰もいなかった。さゆりが、「こんにちはぁ」と声を上げる。母親は店内を見回した。天井が高く、乳白色の壁にはいくつもの額縁が飾られている。描かれているのは、花や木や草といった植物ばかりだった。印象としては、喫茶店というより、小規模の個展か美術館といったところか。フローリングの床には、二人がけのテーブルセットが六つ並んでいる。机の位置を頂点として線を結ぶと、やや平らな六角形の形になっていた。すべての机から見て中心に位置する場所に、青々と葉を茂らせる観葉植物の大きな鉢植えが置いてある。
 喫茶店というにはあまりに殺風景で、そして人の気配のない店だった。けれど、閑古鳥が鳴いている、というような寂れた雰囲気はない。空気が澄んでいるような気がする。ここはこれでいいのだ、と思った。ここはかしましい賑やかさとは無縁の場所なのだ。

「やっほー、さゆならちゃんと連れて来てくれるって思った」

 店の奥から、こんがりと健康的に日に焼けた少女が現れた。流暢な日本語を話しているが、日本人には見えない。日本人ではないなら、アメリカ人か。もっとも、人種に詳しいわけではないので、日本人でなくアジア系でもないならならアメリカ人、という先入観だけが根拠だが。
 ふわりとオレンジの香りが一瞬強く漂った。あ、と思った。この子だ。あの出来事は一瞬で、しかも燃えるような夕暮れ――黄昏の中だったから、細部までしっかり覚えているわけではない。それでも、心が強くこの子だと訴えていた。そのせいか、不躾なほどまじまじとその姿を見てしまった。ちょっとハッとするほど造形が整っている。それは顔だけでなく、スタイルも含めてのことだ。腰の位置が高く、長い足がデニム地のミニスカートの裾からすらりと伸びている。だが、一番母親の目をひいたのは、その大きな瞳が、カラーコンタクトでもつけているのか、鮮やかなオレンジ色をしていたことだった。

「中途半端は良くない」
「しょーがないじゃん。もどるとちゅうだったんだよ。あれが限界。むしろ間に合ったことをほめてほしい」

 白い歯を見せてオレンジの少女が笑う。さゆりは「仕方ないなあ」というふうに苦笑すると、母親のほうに向き直った。

「この子がレンです。ええと、こいつだと思うんですけど……」

 レンと呼ばれた少女は母親のほうに顔を向けると、照れを誤魔化すようにへらりと笑った。赤ん坊がご機嫌に声を上げる。

 喫茶店と銘打ってはいたが、メニューがあるわけではなく、ただあたたかなハーブティーが出された。店側の人間がご馳走しますと言ったので、恐縮しながらもその好意を受け取ることにした。普段は絶対にしないのに、なぜ今だけは受け取る気になったのだろう。赤ん坊は乳児用の椅子に座って店のおしぼりで遊んでいる。その相手はさゆりがしてくれていて、母親は久しぶりにゆっくりとしたティータイムを楽しめていた。

「こういうの、久しぶり」
「そうなの?」
「この子が生まれてからは、全然。友達とも疎遠になってたし……」

 目の前には、レンと呼ばれた少女が座って母親の話を聞いている。日本人には見えないが、日本語は堪能だ。オレンジ色の大きな瞳がくりくり動く。レンは明るく、無邪気で、愛嬌のある少女だった。少し幼い喋り方をするが、そこもまた魅力だと言えるのだろう。

「ヒトリでそだててるの? ニンゲンって、群れを作るイキモノだと思ってたけど」

 母親は苦笑した。奇妙な物言いに、あるいはその内容そのものに。あたたかな液体が身体の奥まで染み込んでいくようだ。物質は熱せられると柔らかくなる。そのせいだろうか。

「……助けてって、言えないの」

 言葉にしたら負けてしまうような気がして、今まで誰にも言えずに飲み込んでいた言葉が、縺れた糸が解けるように唇からこぼれでた。

「人に頼るってことが出来ないの。してはいけないことのような気がして」
「どうして?」
「さあ、なんでかしら。昔からそうなの。自分でやった方が早いって思っちゃう」
「そっかあ」

 そうやって無理をして、どうにもならなくなって折れてしまうなんて、馬鹿げた話だ。でも、そうは思っていても、ならばどうすればいいかなんてわからない。
 カップに注がれた液体を、ひとくち飲む。
 こわい、と思う。未来が怖い。先の見通せない未来が怖い。母親は目を伏せた。振り払えないイメージがまた脳裏に翻る。目の前には闇が広がって、きっとその奥には落とし穴がたくさんある。落ちてしまえばどうなるだろう。あるいは、落ちてしまう方が楽なのかもしれない。郷愁の向こうに踏切を越えて帰りたくなったように。

「私、昔から父親とそりが合わなくてね。いつも喧嘩ばっかりしてた。仕事人間で、いつも家にいなくて、たまにいるかと思えば、小言ばっかり。大嫌いだった」

 なぜそんな話をしたのか、自分でも分からなかった。ただ、言葉が口をついて出た。奈落へと落ちるイメージから目を逸らしたかったのかもしれない。
 ふと、子を産むことを決めたのも、駆け落ちをするように反対された結婚を決めたのも、すべて父親に対する反抗だったのでは、という気分になった。

「……くるしい?」

 レンが問う。あざやかなオレンジ色の虹彩が、真っ直ぐこちらを射抜いてくる。

「いいえ。もう、慣れちゃった」

 母親は首を振り、いびつに笑った。慣れてしまえばどうということはないのだ。どれほど呼吸をするのが苦しくとも。もがきながら生きることが辛くとも。溺れているのが当たり前になったのなら。

「あのね、言いたいこと、言ってないから」
「え?」
「本当に言いたかったこと、なかったことにしてるから、だから苦しんだよ」

 レンはにこりと笑った。ふわり、また甘い匂いが鼻腔をくすぐる。

「お父さんがキライ、許せない。うん。でも、それって最初からなの?」
「……さいしょ?」
「根っこにあるキモチがね、叫ぶんだ。ちゃんとこっちを見て! って。キモチは見てほしいから、色々やるの。手段なんて問わないよ。なりふり構ってる場合じゃないって、一番知ってるから」

 ふわり、甘い果実の香りが、母親を包む。

「……あなたは、一番最初に、一体何を望んだの?」

 不意に、意識の奥に、遠い情景が蘇った。
 ずっと忘れていた記憶だ。小学校に上がったばかりの頃だったと思う。それよりも前だろうか。春だった。桜が綺麗に咲いていた。
 父は仕事人間でいつも忙しかった。その頃から、休日もほとんど仕事で家にいなかったように思う。だが、その日は珍しく違っていた。
 翔子、桜を見に行こうか。
 なにがきっかけだったのか。母親にそう言われでもしたのか、たまたま見ていたテレビ番組でそんなことでも言っていたのか、とにかく、父はそう言って、近くの公園に幼い娘を連れて行ったのだ。
 手を繋いで、道を歩いた。
 あたたかかった。大きな手が、ちいさな手を包んでいた。

「……おとうさん」

 ころりと、頬を涙が滑り落ちた。遠い記憶の中の自分が、父を見上げている。嬉しかった。なぜ嬉しかったのだろう。けれど、確かに嬉しかったのだ。

「そうだ……そうだったわ。約束をしたの。また遊んでねって。いいよって言ってくれたのに、結局どこにも行けなかった」

 あの時の気持ちが、まるで昨日のことのようによみがえってきて、母親は悲鳴を上げる心臓を抑えた。こめかみが熱くなり、涙が次から次へと溢れていく。苦しい、けれど。

「……喧嘩をしたの。嘘つきって。そしたら、怒られた。わがまま言うな、甘えるなって。……わたしは、ただもっといっしょにいたかっただけなのに」

 幼い自分が泣いている。ごめんなさい。ごめんなさいおとうさん。もうわがままいわないから、だからおねがい。
 わたしを、きらわないで。

「……やっと言えたね」

 嗚咽を上げる母親に、慈しむような、包み込むような、優しい声でレンが言う。

「ずっと押し殺してきた、ほんとのキモチ」

 抱きしめてほしかった。ただ、抱きしめてほしかった。けれど、それを口にするのは「いけないこと」で、だから自分はそう叫び続ける自分自身を「ないもの」として扱ってきたのだ。

「抱きしめてあげなよ、ずっと昔に置いてきぼりにしちゃったキモチ。今でもずっと待ってる。アナタが迎えに来てくれるのを。だから、これ、あげるね」

 レンはそう言うと、手品のように手をひらめかせ、机の上にちいさな小瓶を置いた。中にオレンジ色のとろりとした液体が入っている。レンの目と同じ色だ。

「アナタの願いが叶いますように」


 ふと、意識が浮上した。床に横になって、天井を見ている。子供の寝かしつけをしている最中に、そのまま自分も寝てしまっていたらしい。
 夢を見ていた気がするのだが、内容が思い出せない。夕暮れ。踏切。遮断機のけたたましい警告音。断片だけがひらひらしている。甘く芳しい香り。こじんまりとした瀟洒な喫茶店。誰かとお茶をしていた気もするのだが。
 何気なく動かした指先が、硬いものに当たった。半身を起こして指先を見てみると、……なんだろう。フローリングの床の上、色硝子の小瓶が転がっている。
 手に取ってみた。小瓶。中身は液体だった。すこし粘り気があるようだ。色硝子だと思ったのは、中身に色がついているからで、瓶自体は透明だった。
 香水瓶のようだと思う。これ、なんだっけ。……そうだ、貰ったのだ。でも、誰に?
 コルクで出来た栓を抜き、中の匂いをかいでみる。甘く爽やかな、果実の香りだ。馴染みのある香りなのに、今までかいだことのあるどれとも違う、という感じがする。それほどに、深い。
 ずっと昔、父親のことが好きでたまらなかったころを思い出した。
 愛していたからこそ、憎んだのだ。
 寂しいと泣いていた自分がいる。そういう自分がいたのだと、いてもいいのだと、なぜかそう思った。
 考えてみれば、選んだ男は、父親と正反対のような人間だ。不真面目で、女にだらしがなく、無責任。それは言いすぎか。でも、今になってみると、父があれほど身を粉にして働いた理由がよく分かる。妻に、娘に、苦しい思いをさせないためだったのだろう。
 それなのに、当の娘は自分から苦労の中に飛び込んだと来た。親不孝だなあと、苦笑する。父は裏切られたような心地だったことだろう。
 ふと、声が聴きたいと思った。電話をしてみようか。でも。耳の奥に、あの日の怒号がよみがえる。怖い。でも。
 携帯をどこにやっただろう、と首を巡らせて、ダイニングのテーブルの上に置きっぱなしにしていたことを思い出した。赤ん坊はすやすやと寝息を立てている。起こさないように静かに立ち上がり、ダイニングキッチンに向かった。
 テーブルに置きっぱなしにしていたスマートフォンを手に取り、スリープを解除すると、不在着信の案内が表示されていた。番号は母親だ。母親とは、頻度は低いものの、時折連絡を取り合っていた。といっても、邪険にするばかりで、ろくに会話らしい会話もしていないのだが。
 メッセージが残っている。

『あー……もしもし、翔子か?』

 何気なく再生ボタンを押して、流れてきた声に目を瞠った。男の声。父の声だった。
 涙があふれた。
 少しばつが悪そうに、それでも「戻って来い」と締めくくられたメッセージに、嗚咽が漏れた。
 なぜ忘れていたのだろう。
 なぜ忘れていられたのだろう。

「おとうさん」

 私は貴方を愛している。



 ねえ、レン。この前、あのお姉さん見たよ。
 ほ、どうだった?
 ベビーカー押しながら、年配の人と買い物してた。お父さんかな、あれ。


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325字

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