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後編:永遠の眠り姫

 ガタン、ガタタッ!
 馬車の激しい揺れと急停車で、伯爵令嬢は体勢を崩しかける。令嬢付きの小間使いは咄嗟にその身を支えようと手を差し伸べるが、逆に車内での転倒を阻んだのは令嬢だった。普段から領民からもじゃじゃ馬レディとの呼び声高いのはやはり伊達ではないのだと小間使いは思った。それしきのことで無礼と騒ぎ立てる人柄ではない事を承知した上での率直な感想だった。
「御無事ですか、お嬢様」
「ふふっ、転びそうなのはエイダの方よ? 私は何でもないわ。それよりも突然何が起こったのかしら」
「確認します」
 エイダと呼ばれた小間使いは扉を少し開けて馭者に声を掛ける。
「グレッグ、どうかしたんですか?」
「ああ、この男が飛び出して来たかと思ったら、そのまま倒れてしまったんですよ。参ったな」
 それを聞いた令嬢は好奇の眼差しで訊ね返した。
「男性の方が? お加減でもお悪いのかしら。邸に連れて行って医師に診せましょう」
「お嬢様、そんな素性の知れない者を連れ帰るなんて」
「放って行くわけにもいかないわ。それにこの男性の羽織っている外套も上等なものみたいだから、下町の荒くれ者ではなさそうよ。私の勘は外れないこと、知っているでしょう?」
 令嬢は悪戯っぽく片目を瞑って見せた。

***

 ──ふわ、と意識が浮上する。
「……?」
 ふわりとしているのは私の方らしい。真白で柔らかな寝台には豪奢な天蓋があしらわれ、さぞ贅沢な暮らし向きの邸だろうと察するに造作なかった。私はずんとした重みを感じる身体をゆるりと起こした。少しだけくらりと眩暈を覚える。その原因なんてものは自分でもうんざりする程判っていた。
「我ながら難儀な性格に堕ちたものだな」
 呟いて自嘲気味な笑いの衝動に駆られる。ああ本当に、我ながら厄介な事だよ。そうは思わないか? 問い掛けても応える者はない。私は胸元に指を伸ばしかけて──止める。知らぬ間にこちらも真白の夜着に着替えさせられていたらしい。絹織物の上等な品である。けれど良質な夜着等より大切な。
 素早く身の回りに目を遣る。物盗りの手に掛かる程まで落ちぶれては居ないつもりなのだがと少々狼狽えた。盗みをはたらく無頼には『同調』の容易い私が察せぬ筈はない。案の定寝台脇の卓子に私の身に着けていた物が並べられていた。窓辺からの陽射しに煌めく水晶のヴロォチに、私は手を伸ばした。このヴロォチの中には。私は黙してその多面に研磨された冷たい石に唇を寄せる。この石に封じたお前はもういない。
 かちゃ。扉が開いた。
「ああ、お目覚めになられたんですね。良かった」
 年若い娘がそこにいた。小間使いらしき衣服を纏っている様を見るとこの邸の使用人だろう。紫水晶の瞳で明るい茶色の髪をきつめに結い上げている。
「二日間お眠りでいらしたんですよ。脈も呼吸も弱くて、お医者様もご心配してらして。今お嬢様をお呼びします」
 上流階級の御令嬢か。恐らくその娘が私を拾ったのだろう。小間使い如きがこのような邸に私を連れ込める筈がない。お嬢様の興味本位か。
「ああ、礼を述べねばならないようだな。そこいらで行き倒れたに過ぎない私をこうも鄭重に迎えて頂いたのだ。非常に有難く思う」
「好奇心の塊のようなお方でいらっしゃるものですから。お気になさらずご静養頂きたいと。お話なさりたいご様子ですので、お呼びしますね」
 明るく笑んで云う小間使いは溌剌とした娘で、令嬢付き小間使いとしても年若い様子から御令嬢にとっても友人のように気安い存在なのであろう。好奇心か。私のようなものを拾って来るとはなんとまあ軽はずみな、と失笑する。所詮は有閑貴族か。
「まあ、目を覚ましたのですって?」
 ハイトーンだが柔らかな響きの愛らしい声音でそんな言葉が聞こえる。社交界披露を漸く済ませたばかりの年頃と云った処でほんの幼い娘だ。冴え冴えとした月灯りに似た明るい白金の髪をゆったりと結い、海のように青い瞳は何処か既視感に近い懐かしさを覚えた。ほっそりとした身に初夏の蒼穹を思わせる蒼い衣を纏っている。小間使いが扉を開くのも待たない勢いで令嬢は部屋へと駆け込んで来た。
「お身体は大丈夫なのかしら、お客人? 突然意識を失われたので大層驚いたのよ?」
「君が私を救ってくれたのだね。感謝しよう」
 寝台から上体を起こした姿勢のままそう告げると、令嬢は寝台の脇に据えてあった椅子に掛けてきょとんとした目で私を見返し、それから不思議そうに問うてきた。
「助けられて嬉しい、ってお顔には見えませんわね。まるで野垂れ死にでもしたかったかのよう」
「──ああ」
 私は応えた。
「そうかも知れないな。私は生きている理由を見失っているのかも知れない。私にもよく判らぬのだよ」
「判らないならまず生きてみればよろしいのではなくて? ヒトは生きるものだわ」
 妙案を思いついたかのように彼女は云うが、私としては笑うしかない。
「はは……ヒトならばそうであろうな」
「まあ、まるでヒトならざる者であるかのような仰りようですのね。でも貴方ならヒトではないと云われても私驚かないと思いますわ。だって貴方、とてもおうつくしい眼差しをしていらっしゃるのですもの。まるで黄水晶のようなその瞳は、魔性が潜んでおられても不思議ではないようにみえます」
 なんという慧眼の御令嬢であろうか。そうとも。私はヒトならざる魔性の──この世界に生きる者どもの言葉で云う処の悪魔と呼ばれる種族だ。神の在り様を否定する者。
「私がヒトではなく魔性の者であったなら、君は私に何か望むのかね?」
 悪戯にそう訊ねると御令嬢は大真面目な顔で応じた。
「恋をしたお相手と結婚したいですわね。と申しましても、私は恋というものを物語の中でしか存じ上げないのですけれど。親の決めたお相手と神様に誓うのは何か違うのではないかと思いますの。可笑しいと思われますでしょうか」
「いや、それも悪くないのではないかな」
 くす、と小さく笑って私は応じる。この御令嬢はやはり上流階級の姫君だ。望むこともほんの少女が求むるに変わりない頑是なき願いで、私との取引に祈るにはあまりにも不似合いだ。このような娘には魂と引き換えに乞う希みもありはしないのであろう。
「ああ、そう云えばお客人、お名前を伺って宜しいですかしら。私はレディ・セラフィーナ・エルフィンストーン・アールス・オーゼロフと申します」
「クリスティアーノ・アマーティだ。二日も眠り続けたようで世話になったな」
 この御令嬢の大層な名前から、この辺りオーゼロフの村を治める旧い貴族の──アールスの称号とレディと呼ばれるのは恐らく伯爵家の──姫と知れた。その様な邸宅にしてみればどこの馬の骨とも知れぬ私など滞在して良いものでもなかろう。暇を告げる思いで礼を述べたが、セラフィーナは意に介さぬ様子で云う。
「あら、まだこの邸から出て行こうなんて思わないで頂けますかしら? お医者様は脈も体温も随分と低くて生きていらっしゃるのが不思議なくらいだと申していらしたのよ。この邸でご静養くださいな」
「いや私は」
「貴方が纏っていらした外套は兎の毛を織ったとても良いお品でいらしたもの。ご身分の低いお育ちではないので御座いましょう? この邸に不釣り合いだなんてお考えはお辞めくださいね。今は医師を呼びに行かせておりますの。目を覚まされたなら診察もお受け頂かないと」
「なんとまあ至れり尽くせりと云うか、抜け目のない御令嬢だな」
「用意周到と仰って頂いても構いませんのよ? その身おひとつでこの街にいらしたのなら旅のお方ですかしら。お名前もこの国のものではありませんわね。何処かの小国の、素晴らしい弦楽器を作ると評判の工房と同じアマーティのお名前だなんて珍しいですもの」
 ころころとよく笑う娘だ。そして無知な子供でもないらしい。弦楽器工房アマーティは私が作らせた楽器でこの近辺の国々へと広まる職人となった。ヒトを魅了する特別な音色の楽器を作ることが叶うようにと望んだから、私の名を与えその才を授けた。彼の一族は楽器を作り続ける限り永劫に私の糧として魂を喰らわれ消滅し、冥府への旅路につくこともなく──そう、本来ならば喰ろうていたであろう。私に彼との出逢いがなかったのならば。あの青年を看取ったあの日から私は。
「どうかなさいまして? まだお加減がよろしくないのかしら。お医者様がいらっしゃるまでおやすみくださいな。エイダ、お願いね」
 セラフィーナ嬢は不安そうな眼差しで私を覗き込み、気遣うように云うと客室なのであろうこの部屋を出て行った。
「ヒトの医者に何が判るものか。……いや、ある意味ではヒトの栄養失調に似ているのやも知れぬが」
 私は自嘲気味に独り言ちた。ヒトではない私はそれでも人界に潜むがための擬態をしている。体温や鼓動のあるふりをする。けれどそれは意識のない状態では疎かになりがちだ。さきに私を診た医師はその状態から健康に疑問を持ったのだろう。だが私にとっての『生きる』とはそういうものではない。ヒトの姿を形作って言葉を話すには、仕組みとして発声が適わないので呼吸だけは概ね同じだが、心拍も体温も本来の私には不要な構造だ。ヒトならざる者としてそれは当たり前の事。魔力などさして必要とはしない。私が不調なのは──。
(どれだけの間、私はヒトを喰らっていないのだ)
 もう数百年の刻の中で私は、ヒトの魂をまともに喰うていない。アマーティの一族とて、下級の魔性に分け与え自分で喰うてはいないのだ。ヒトを喰らうことなく生きることが魔族にとってどれほどの無茶であるかは、今己の身をもって理解している。著しく肉体が摩耗するのだ。それこそ今回のように野垂れ死にしかけるほどに。
 身を削りながらもヒトを喰らわないで、死することもなく生き永らえている理由。それは。
「アマーティ様。お医者様がいらっしゃいましたよ」
 エイダの声に思考が止まる。
「ああ、入ってくれて構わない」
 応えると、細身の老紳士然とした白衣の男がエイダの案内で入室してきた。この邸に住まう侍医のリンメルと名乗った老医師は私の脈を取り、喉、下眼瞼の裏側を覗き込んで一人満足そうに首肯するとゆったりとした笑みを見せた。豊かだが真白の短髪は丁寧に撫でつけられ、細く整えた白髭は好々爺の趣がある。
「お嬢様が貴方を連れて来たときは停まってしまうのではと云うほど弱々しい心拍で、どうなることかと思いましたが、随分と眠られてよくお休みになられたようだ。些か血が足りない気配はありますが脈拍は乱れなく強くなられた。まずは薄い麦粥やスゥプから少しずつ食事をお摂りなさい。大丈夫、セラフィーナ様も御主人様も行き倒れられたようなお方を簡単に放り出すようなお人柄ではありませぬ。私もこの邸の世話になっております故、ご安心なされませ」
 白髭に指を遊ばせほほと笑いながらリンメル医師は云った。
「リンメル医師、この邸は長いのかね」
「気になりますかな? 代々エルフィンストーン伯にお仕えする医者の家系ですぞ。こう見えて診立ての評判は悪くありませぬ」
「いや、医師の仰せは聞こう。疑うわけではないのだ。ただこの部屋の調度も旧く上等なものをしつらえていると見受けたものでな。由緒ある家柄であろうかと訊ねたくなったのだよ」
「お客人こそ身なりのよろしい方ですな。あのような道すがらに彷徨われておられたとは、仔細ありのご様子だが……何、爺の詮索もお見苦しいでしょう。伺いはしませぬ。お嬢様はそうは行きませぬがね。あの方は好奇心の塊で少々お転婆姫ですぞ」
 孫娘を語るように邸の令嬢を話すリンメル医師は人の好さそうな微笑みを浮かべる。愛されたお嬢様だ。
「小間使いからも聞かされたよ。あの御令嬢に誰しもそれを云うならば、これは覚悟するとしよう」
 そう応じるとリンメル医師は愉快そうにそうですな、と云って暇を告げた。私ももう一度礼を述べて医師を見送る。
 ──と。
「リンメル先生の診察、終わりましたのね」
 扉からひょっこりと御令嬢が顔を覗かせる。待っていたのか。その奔放な人柄に私は苦笑する。
「退屈かね、セラフィーナ嬢? だが姫君が隙見など感心しないな」
「お行儀悪いと思いましてよ。ごめんなさいね。でももう一人いるのよ」
「……申し訳御座いません、お客様」
 セラフィーナ嬢の背後からエイダまでもが現れて、呆れながらも可愛らしい幼さにほのかな安らぎを感じた。年若い娘の素直な好奇とは然程不愉快でもない。私のようなものが闖入するなど日常にない大きな刺激なのであろう。
「怒っているのではない。構わぬよ」
 云うと、二人は悪戯な子供のように楽し気な様子でこっそりと入室して来た。当主や夫人などはこのような無頼者を拒まずとも歓迎はしないだろう。こうして訪ねるのも秘密なのやも知れなかった。
「アマーティ様は何処からいらしたんですの? お倒れになった場所には何も御座いませんでしたし、殆どお身体ひとつのご様子でしたけれど。だってお名前も異国の響きをしておられますもの」
「ずっと旅をして定住はしておらぬのだよ。暫し滞在する街が出来る事もあるが、そんな場合は酒場で見知った者の処に身を寄せたりして過ごしていた。様々な国を往来して海も渡った。何処から、と問われた処でどう答えたものか判らぬな。名は──真実の名を持たぬ暮らしをしていたので、たまたまこの国とは異なる響きとなっただけだよ」
 そう、私の名は真実を偽るために持つものだ。神の子をもじった、ヒトから見れば神聖ですらあるこの名は、寧ろ神を穢す為に選んだ。
「クリスティアーノ様と仰るのは本当のお名前ではありませんの? 私と同じ、祝福されたとても素敵なお名前でいらっしゃるのに、違いますの?」
 セラフィーナ嬢の眼差しが悲し気に揺れる。そうか、この娘の名は神の使いを意味している。ならば私の名を近しく感じられたのかも知れない。
「私には親も家族も何もなかったのだ。だから名も持ち得なかった。それでは不自由であったから今この名前を名乗っている。真実の名とも云えぬが全くの出鱈目だとも云わぬよ。そんな目をせずとも良い。君の名はその姿と同じく美しいよ、セラフィーナ嬢」
 慰めにもならないであろう言葉を掛けるとセラフィーナ嬢は少し俯き、それからふわりと微笑んだ。
「セフィとお呼びくださいな、アマーティ様。呼び難く御座いましょう?」
「そうだな、では私の事もクリスと呼んでくれたまえ。様、などつけることもない」
「いけませんわ、お客人にそんなこと」
「爵位のある御令嬢に『クリス様』など、呼ばせる程でもないのだが?」
「淑女としての作法ですもの、クリス様はクリス様です」
「柄にもないのだが……そう云われては引き下がるしかあるまいな」
 これでは私も困惑するしかない。すると傍らで聞いていたエイダは小さく笑った。
「お嬢様は云い出したら聞きませんから、お諦めになってください、アマーティ様」
「エイダ、君もクリスと呼んでくれていいのだよ? 呼び難いだろう。実は私も余り慣れておらぬのさ。家との関わりのない生き方で過ごしたものだからね」
「お客様がお望みということでしたら、失礼ですがそうお呼び致します」
 呼び名ひとつに拘る事もないのだが、どうやら暫く滞在する事になるようでは呼称も必要だ。使用人如きならば遠慮も要らぬであろう。なんとかその決着をつけたところでセフィは云った。
「クリス様、お元気があるようでしたら邸をご案内しますわ。少し運動なさった方が宜しいんじゃなくて?」
 明るく輝かせた瞳がくるりと私を見る。やはりこの海の色をした瞳は知っている気がした。けれど何故そう思うのかは判らない。永く生きている私が巡り会った人間は少なくはないのだ。そのいつしかにこのような眼の者もあったのだろうか。
「はは……そうだな、確かに眠り過ぎて身体が軋む。しかしこのような夜着で邸内をうろつくのは見苦しいだろう」
「勿論こちらにお連れした時のお召し物は用意して御座いますわ。きちんとお洗濯もさせてありますしご安心なさいませね」
「……」
 やれやれ。本当に随分と奔放なお嬢様だ。とんだ者に拾われてしまったらしい。笑いを堪えるエイダと視線を交わし、私は小さく肩を竦めた。

***

 エルフィンストーンの邸に滞在して数日が過ぎた。
 伯爵も夫人も鷹揚として私を迎え、暫くの間セラフィーナ嬢の話し相手にと引き留めた。この邸にはセフィの兄ウィルフレッドがいるのだが、現在は寄宿学校生活をしていると伯爵は語った。兄の不在を退屈に思うセフィのじゃじゃ馬が過ぎるのだと云う。
「長く旅をしておられるとのこと、セフィの見聞を深める意味でも色々聞かせてやって貰いたい」
「微力を尽くさせて頂こう。身に余る歓待に感謝する」
 当主に面会した折のそんな挨拶のなか、伯爵は少し考える素振りをして云った。
「アマーティ君は」
「何かね?」
「当家に以前いらしたことがあっただろうか? 初めて会った気がしない」
 この国に渡ったのは然程旧い話ではない為、私には心当たりもなかった。
「口説き文句としては今どきの社交界でも淑女は靡かぬと思うが」
「止してくれ、妻がいい顔をしない。そうではなく、貴君の容貌には既視感があってね。無関係ならば気のせいなのかな。気になさるな」
「ほう。私も卿のお嬢さんの瞳を知っている気がしたのだよ。縁でもあるのかな?」
「娘はやらぬぞ?」
「流石に彼女は若いな」
「はは、まあ良い。思い出せた折にまた話でもしよう。オーゼロフの村もなかなか良い処だと自負している。散策されると良かろう」
 人の良さそうな伯爵はそう云って笑った。暇を乞うて応接室を出ると廊下にはセフィがエイダを連れて待ち構えていたらしく、すぐさま駆け寄って来た。
「お父様は何か仰ってらして?」
「セフィ嬢がお転婆姫で困ると云っておられたな。オーゼロフ村を見て行って欲しいとの仰せだよ。案内は任せられるかね?」
「私、お父様にはどう映っているのか心配になりますわ。仰るほどやんちゃしてなくてよ? けれど領地のご案内ならお任せくださいませね。皆素敵な人たちばかりなんですの」
「楽しそうだな、セフィ嬢」
 少女の華やぐ声音に小さく笑いが漏れた。何だろう、この娘が楽し気な様は気持ちが安らぐ。私はなんとなく胸元のヴロォチに手を遣った。屈託のなさが若く純粋で、幼くもある心のうつくしさに私の本性を惹きつけるのか。
「ウィル兄様は長期休暇でもなければ帰って来ないのですもの、寂しかったんです。でも貴方がいらして下さったからついはしゃいでしまいますわ。だって退屈に飽きて死んでしまいそうなぐらいでしたのよ?」
「そのようにあまり簡単に死んで貰っては困るな。伯爵殿が嘆かれるであろう」
「跡目を継ぐのはお兄様ですもの。お父様はお困りになるかしら。お母様だってお兄様への御文をしたためるのが日課で、私の事は眼中にない様に思ってしまいますの。子供みたいですわね、私」
「そうか。ならばもう暫く子供でいるといい。御両親も子供に甘えられて嫌がる事もなかろう」
「まあ」
 セフィは驚いた様子で私の目を覗き込んだ。
「子供でいていいなんて仰る大人は初めてですわ。家庭教師の先生方も皆、社交界披露を済ませたらもう淑女なのだからと、子供染みた事には叱責ばかりよ」
「デビュウしたと云っても、君は若いだろう。幾つになる?」
「もうすぐ十五歳になりますわ」
「そうか。ではそろそろ縁談も持ち込まれよう。だからかな、最初に恋をしてみたいと話していたのは」
 十五歳なんてほんの子供だろうに、こういう家に生まれると自由も利かないのだろう。嫡男でなくその妹であるだけ幾らかの自由を認められはすれども、婚姻となると伯爵の決めた者としか叶うまい。不自由なく育てられた環境のようで存外不自由を強いられるのも貴族階級の慣例であろう。
「セフィ嬢はロード・ウィルフレッドに邸を任せられる御身分だ。精神的圧力を受けるなど云われもないこと。兄君は寄宿学校だそうだが、お幾つになられたのだね?」
「十八歳で寮の監督生をお勤めですの。兄の立場も御座いますし、私には淑女らしく振る舞えとお父様は仰いますわ」
「淑やかな姫には見えぬな」
「クリス様までそんな! お父様もお母様も歴史の長いこの邸に相応しい令嬢の自覚を弁えなさいとばかり仰るのですけれど」
「何、その好奇心故に私も拾われた身。悪いとは思わぬよ。村の案内はセフィ嬢にお願いしたい」
「それはお任せくださいな。家庭教師の先生がお休みの日が御座いますから、その折には是非! ああ、馭者のグレッグにも確認しないと。今から楽しみよ」
 楽しそうなその様は屈託のない笑顔でつい私までも笑みが綻ぶ。
「村の催し物がありますの。その日ばかりは私も予定は御座いませんから、オーゼロフ村の祭をご覧頂けると思いますわ」
「期待させて貰おう」
「きっとですわよ。私はこれから音楽のお稽古ですから、お庭の散策でもなさってくださいね」
 ひらりとドレスを翻すセフィの背を見送り、私は穏やかな気持ちに戸惑いを覚えながらも彼女の勧めに倣うべく踵を返した。

***

 或る食卓の席。
「……何だこれは。苦いな」
 瑞々しさに満ちた野菜のようだが、咀嚼するとじわりと苦味が拡がる。美味とは云い難いサラドが卓子に上がり、私はつい眉を顰めた。そんな私にセフィは怪訝な様子で云った。
「何って、チシャのサラドよ。召し上がったことはなくて?」
「チシャ? 乳草のことか」
 乳草は生食の野菜で、収穫の折切り口に白い水分が滲むことからそう名付けられたものだ。サラドやソテェで食するが苦味を好まぬ向きもあるようで、これまで契約した人間にも嫌う者がいた。
「あら、随分と旧い云い回しをなさるのね。お祖母様がこれを乳草と呼んでらしたわ。病み上がりのお身体によろしくてよ。お召し上がりなさいな」
「これは好かぬ」
「まあ」
 セフィは愉快そうに笑った。
「でしたらこちらのお肉を包んで召し上がって? 私も幼い頃はそうしましたの。ちょっぴりお行儀悪いですけれど」
 云われて、やむなくソテェされた鹿肉と共に食すと肉の臭みとチシャの苦味が相殺して食べやすい。
「成程、これなら食べられるな。作法としては褒められたものでもないが」
「子供を持つ年頃になった時食べられないと困るだろうと、お母様に云われましたの。慣れてしまえばそのままで戴けるようにもなりますし」
 澄まして云う。そういうセフィもまだ子供のようなものだが、それは云わずにおいた。こういう家柄では早い婚姻も珍しくないことも鑑みると、少女は早く大人になろうとする。
「アマーティ君」
 食卓を共にしていた伯爵は云った。
「セフィにそう云われておっては良くないぞ。その娘は好んで食さぬものも多い」
「お父様!」
「ははは。否定は出来まい?」
 伯爵が云うと、夫人も小さく声を立てて笑った。
「あなたはセラフィーナで遊ぶのをお止しくださいな。だからこの子はいつまでもあなたにべったりなのですよ?」
「お母様まで私を子供扱いですの?」
「子供だろう」
「子供でしょう」
「子供だと思うが」
「今どさくさに紛れて何か仰ったクリス様とは後でじっくりお話致しましょうか」
 何か云われた気がするが、仲の良い親子は微笑ましい。こういう関係でいられるのは良い事だと、そっと胸元のヴロォチに手を遣る。彼には得られなかった平穏な親子の関係だ。
 邸に雇われた料理人に謝辞を述べ、食事を終えた我々は各々卓子から席を立つ。
「ああ、そうだセフィ、ちょっとおいで」
 私に続いて食堂を退室しようとしてたセフィに伯爵が声を掛けた。
「クリス様、ちょっと失礼致しますわね。なぁに、お父様」
 父親の元に駆け寄るセフィを見送り、私は退席する。この頃は過去に契約した者たちの成功と終焉を物語めかして話し聞かせるのが常となっていた。呪わしい話ばかりではあったものの、そういったものと無縁の育ちであるセフィには新鮮に映るらしかった。皮肉なものだ。我が邪悪さがお育ちの恵まれた姫君の好奇心を満たすのだから。
「クリス様!」
 セフィの声が背を叩く。
「お父様が貴方を知っているように思われた理由が判りましたの。お父様の蒐集品室をご覧になって」
 客室へと戻りかけた私の後を追って、セフィが小走りに駆け寄って来た。エイダがその傍らにラムプを掲げている。先程伯爵と何やら話し込んでいた理由はこれか。ラムプもなしに見られぬものとは? 私は首肯して彼女の華奢な背を追うと、伯爵が蒐集した品を集めた部屋には美術品や古めかしい甲冑などが整然と並べられていた。その夥しい絵画の一枚を前に立ち止まったセフィが呼吸を弾ませて云った。
「この絵に描かれている魔物が、クリス様にとてもよく似ていらっしゃるのよ。恐ろしいのにうつくしくて、邪悪なものの筈なのに優しくて、不思議な絵ですの。ご覧になってくださいな」
 ラムプに浮かぶ大きなキャンバスに目を遣ると。
「……!」
 息を呑んだ。
「これ、は」
 何故だ。
 どうしてこれがこのような場所にある? まさか。まさかこんな。
「あまり高名な画家ではないみたいなんですけど、好事家の間では評価の高い画家さんなのだそうよ。名を、ジェラルド・ピエリ。──この絵があったからなのかしらね、貴方に魔性を感じたのは」
 楽し気な少女の声を余所に思う。ジェラルド・ピエリ。それは契約を結ぶことなく終わったかつての獲物……いや、ただひとりいとおしく思った人間の青年。こんな場所でお前の絵と再会するなど誰が思う? ジェラルド、お前の絵は認められたのだな。懐かしむ思いでその画面に指を伸ばす。繊細でありながら力強くもある筆致で写し取られた魔性の者は、まごう事なき私の姿だ。
「……願いを叶え彼を我が糧としたならば、何かが違ったのだろうか」
 ぽつりとそう呟いて、ヴロォチを強く握った。このヴロォチの水晶には彼の髪の毛を封じている。あの青年を喰らうていたなら、彼は私の一部として永らえることも出来た。ジェラルドに会うまでは当たり前にしていた事なのだから。魂を喰らい、肉体を頭ごと喰らい我が血肉とし、天にも地にも堕ちる事のない永遠を与え生まれ変わる事もなく永らえる、生でも死でもない終焉。そうやって終わらせた命のただ一つさえ、私は記憶してはいない。身体の裡から泣き叫び解放を乞う魂の声なんてものは雑音でしかない。しかし彼ならば、私は私の裡に彼を住まわせ語らうことも。
「……様、クリス様!」
 セフィの声に私は我に返った。
「そんなに驚かれまして?」
「いや、ああ、すまない。ぼんやりしていた。懐かしくてつい、な」
「懐かしいだなんて、もしかしてこちらの絵画を御存知でしたの? お父様はこの邸に旧くからあるもので画家も有名な者ではないと。クリス様の故国のお方かしら」
「そうだな、『今の私』の始まりではあるから故国と云うのも間違いではないであろうな。この絵のモデルとなったのは私なのさ」
「え? これ、とても旧いものですわよ?」
「信じられぬやも知れぬな、私の本来の姿が魔性であると。もう何百年とこの世を彷徨い、生き続ける魔物なのだよ。そしてこの絵の作者であるジェラルドは私の──友だ」
「そんなお戯れを仰るなんて──御冗談ですわよね?」
 少女の眼差しが揺れる。その傍らでエイダが後退った。それまでになかった畏怖の色が浮かぶ。エイダのヒッと息を呑む音が微かに聞こえたのは、恐らく昏い室内でも私の金の瞳が煌めいて映ったのだろう。こういう室内でこそ私の眼差しは際立って魔をさらけ出す。
「これまでに」
 私は云う。
「私が話し聞かせた、魔物に魅入られ欲望を果たし喰らわれた人間たちの人生を、少しは記憶しているかな?」
「願いが叶った者は生きるでも死ぬでもなく、魔性の身体に取り込まれて消えないという、あのお話かしら? あれは物語なのでは」
「否」
 それを語るのは容易い。
「全て現実だよ。彼等の魂は我が身の裡にある。今も泣き叫んでいるのだよ。終わらせてくれ、死なせてくれ、解き放ってくれ──と」
 転生も叶わぬ魔性に取り込まれた亡者たちの悲哀。食すことに憐みを覚えたのはジェラルドに巡り合ったからだ。澄み渡る魂に疵をなすばかりの希みを刻み、うつくしいものを描くことのみに生きた男。私は彼を愛したのだろうかという疑問は消え遣らぬまま数十年の刻を永らえた。
「私には出来たのだよ。その青年が宮廷画家になる夢を叶えることも、悪性の腫瘍を消し去り命を長らえさせることも。けれどそれをしなかったのは彼との出会いを尊重したかったからだ」
 古の彼方となった、けれど深く刻まれた記憶は褪せることなく私の中に留まり続ける。
「彼の望みを彼自身の実力で勝ち取らせ、私との契約とならぬよう、死して私の贄とならぬよう、幸福な最期を看取りたかったのさ。なんという女々しさだろうな。可笑しいだろう? 笑ってくれたまえ。彼を失って以降ただの一人として喰らうことなく生きた。朽ち果てるまで魔力を行使して下級使い魔の餌にしてやるだけで生きている。愚かだと、私でさえも思うよ」
 誰に話す事もなかった過去。この少女に語り聞かせた処で戸惑わせるだけだろうに、それでも話してみたくなるのは、彼女の瞳が懐かしさを誘うためだろう。何故ならそれは。
 ──似ている気がしたから。
 そう、似ているのだ。彼の──ジェラルドの眼差しに。
 セフィは暫し押し黙った。エイダさえも私への畏れを忘れた様子でこちらを見つめる。魔を背負いながら何と云う矛盾かと呆れたかもしれない。憑り殺す事無くヒトとしての死という祝福を与えた愚かさを。
「祝福ですって? そんなことに囚われて生きるでも死ぬでもなく彷徨い続けていたと仰るんですの?」
 静かに、独白に近い声音でセフィは云った。
「貴方が真実魔の者であるなら御存知ですわよね? 祝いと呪いは表裏一体。祝福を求む裏側で呪いが生まれる事もあるのだと」
 ラムプに照らされた薄闇の中でさえもうつくしい色白の肌と淡い金髪が仄かに浮かび、美貌の少女はいやに大人びた表情で密やかに言葉を紡ぐ。
「その方に死の祝福を捧げたと仰るなら、私が貴方を呪って差し上げてよ? 恨んで差し上げても良いですわ」
 しずかな声音。
「救えたはずなのにそうはなさらなかった。みすみす見殺しにした。それはお相手の方を失いたくないただの欲望。生まれ変わって来世こそ幸福に在れと希ったから。そんなの愛なんかじゃないわ。身勝手な欲望よ。お相手の方は寧ろ貴方の糧となって死すことを望んだ筈だわ」
 ついと腕を伸ばし、しなやかに細い指が私の頬に触れる。セフィの大きな海の瞳は濡れて揺れていた。
「だって今の貴方はこんなにもボロボロなんですもの。このような様の貴方をお相手が望んだと思って? 判らないのなら私が云って差し上げますわ。私は貴方の中で貴方の糧となって生き続けたかったと」
「願いも満たすことなく死なせたのはエゴだと思うかね? そうだったやも知れぬ。彼は私がヒトではない事を知りながらも短い期間ではあったが共に暮らした。そこには私が彼を殺しはしないとの信頼ゆえと、そう受け止めたものだったがね」
「あら、きっとそれは私でも信じましたわ。殺されなどしないと。だって」
 彼女は言葉を探す素振りで、けれど続けた。
「貴方は魔性の者であっても、とてもお優しい方だと思いますもの。それにね」
 小さな笑みを浮かべて云う。
「チシャも食べられない魔性なんて、私は怖くなんてありませんわ」

***

 陽光の射し込む窓に目を遣ると、外から小鳥たちの啼き交わす囀りが聞こえた。
 夜が明けたか。私は寝台に身を起こした。
 かつては特に睡眠を必要としない身体であったのだが、魂魄も肉体も喰らう事を止めてしまって以来、眠りもヒトのような食事も要する構造に変化したらしかった。ヒトを超越する者であったのにヒトと変わらない生き方。とは云っても人間ほど頻繁な睡眠や食事が必要なわけでもなく、ほんの僅かばかり膚に触れればその者の精気を吸収しエネルギィと成せるのだが。
 昨夜は随分と旧い話をしてしまったものだ。けれどこの胸裏に深く刻まれたあの青年を想う気持ちは忘れ得ぬもの。児戯のような恋に似たそれを、悔んでも恥じてもいない。それよりも私がヒトでなく魔族であることがセフィにとって忌まわしきものとならぬか、些か気懸りにもなった。伯爵の耳に入ればこの邸での滞在も続かぬであろう。平穏も終わるか。そのようにみえた。
 だが。
「クリス様。お目覚めでいらっしゃるかしら?」
 少女の声が聞こえた。
「どうした? 入っても構わぬが」
 応えると、かちゃ、と扉が開いてセフィが勢い良く室内に駆け込んで来た。
「とても吃驚致しましたの、聞いてくださる? 先程電報が入りまして、ウィル兄様がもう間もなくお帰りになりますのよ! 嬉しくて私、どうしたら良いのかしら。ねえ、お判りになりまして?」
「ううむ。生憎離れて暮らす肉親と云うものを知らぬのでな、私では判り兼ねるよ。嬉しそうだな、セフィ嬢?」
「嬉しいに決まっておりますわ。ウィル兄様、休暇でも時折にしか邸に戻られないのですもの。とても久し振りにお会い出来ますの。ああ、お兄様の好きな生姜の焼菓子を作らなくちゃ」
「菓子を焼けるのかね?」
 少々感心した。厨になど入った事もないのではと思っていたのだが。
「生姜をすり下ろして小麦粉を練って焼きますのよ。少し固いのですけれど、爽やかなお菓子が作れますの。私の得意でウィル兄様もいつもお喜び下さるんです。腕を奮いますからクリス様も召し上がってくださいね」
 はしゃぐ様子に少々圧倒される。無邪気なもので先程の懸念はあっさりと払拭された。この娘には要らぬ考えだったらしい。久しく会う兄君か。このような娘に慕われる兄も幸福であろう。
「それでは君はエイダと菓子作りなのだね? ならば私はオーゼロフ村を散歩させて貰おう。近頃は何かと世話になったものだ、解放せねばな」
「では失礼しますわね。でも朝食はまだご一緒出来ましてよ」
「そう急くな。着替えねばならぬのだからな。さあ乙女は退出するものだよ」
 セフィを追い遣って、私は絹の夜着を着替えいつも通りヴロォチを留める。ジェラルドの遺髪を封じているこの多面に磨かれた水晶のヴロォチは、肌身離さず身に着けているものだった。彼の髪は鮮やかな金髪だった為、ヴロォチはさながら金針水晶のように煌めく。今朝はひと際透き通って見えるのは、彼を喪った過去を吐露したことで私の中のわだかまりが幾らか解き放たれたのかも知れなかった。
 ずっと胸の裡は濁っていたのだろうかと食堂に向かう廊下を歩みながら思った。これまで誰に話す事もなかった、一人の絵描きとの魂に刻まれた記憶。ジェラルドの絵と再会して、彼に似た海の瞳がそれを思い起こさせた。
「不思議な娘だよ、セラフィーナ」
 そっと独りごちた。村へ出掛けたら蚤の市で何か見繕ってやろうかなどと考えながら。

 彼誰時のエルフィンストーン邸は蝋燭の灯りでオレンヂに浮かび上がって私を迎えた。馭者のグレッグが馬車を厩舎に向けて進める様子が目に留まる。セフィの用事ではないであろうから、噂のウィルフレッドが帰ったのだろうか。そう考えて問うてみた処、グレッグは幼子を見る眼差しで微笑まし気に目を細めた。
「久しくご家族がお揃いになられて、御主人様も大層お喜びでいらっしゃいます。お嬢様のはしゃぎようと云ったらそれはもう可愛らしくおられまして、我々も喜ばしい限りでございます」
「従者からもその様に思われるとは、いい主に仕えたようだな」
「お客様こそ、あの時セラフィーナお嬢様に救われたのは大層な御好運であったことと思います。あの方は御不自由にしておられる者を放っておけない御気性であられますから」
「その節は感謝している。ありがとう」
 グレッグに銀貨を握らせ、私は邸へ戻った。セフィへと髪飾りを見繕って来たのだが、兄君の帰邸にはこのようなささやかな贈り物など比になるまい。思わず微苦笑が漏れた。これでは兄君への嫉妬ではないか。
「ああ、クリス様お戻りですのね! ウィル兄様、この方ですのよ。とてもお優しい方」
 邸に入るなりセフィの明るい声がした。
「セフィ、そんなに引っ張らなくていいよ。僕はここにいるから」
 応える甘いテノールは優しく響いて、これがセフィの大切な兄君かと顔を上げると、兄妹と云われて納得出来る面差しがそこにあった。すっきりと整えられた短髪は明るい白金。瞳は母親譲りと思われる橄欖石の緑。スポォツを嗜むのか、優男然とした容姿に対してなかなか精悍な身体つきをしている好青年だ。
「ロード・ウィルフレッド・エルフィンストーン・アールス・オーゼロフです。妹の我儘に付き合わされているそうですね。困惑されてなければよろしいのですが」
「クリスティアーノ・アマーティだ。君がエルフィンストーン伯の後継者かね? セフィ嬢自慢の兄君と聞いている。いい娘だな、君の妹君は」
「恐縮です」
 握手と共にそう挨拶を交わすと、傍らでセフィがムッとした表情を浮かべる。
「ウィル兄様もクリス様も酷いこと仰るのね。私そんなに我儘かしら」
「我儘と云うか」
「まあ淑やかとは云えぬであろう?」
「お二人とも失礼なんだから! ふふっ」
 拗ねた顔をしながらも笑い出すセフィにつられて私達にまで笑みが零れる。このような妹を持った兄君も苦労が絶えまい。頃合いも良さげであったので、私は懐に収めていた銀細工の髪飾りをセフィへと手渡した。
「蚤の市で見つけた。百合の花を透かし彫りした銀細工が美しかったものでね。君の髪によく映えよう」
「素敵ですわ。頂いてしまってよろしいのかしら」
「寧ろ受け取って貰わねば私も立つ瀬がない」
「ふふ。では頂戴致しますわね。ねえエイダ、夕食の前に髪を結ってくれるかしら」
「かしこまりました。きっとよくお似合いになられますよ」
 エイダが微笑む。娘たちはこういう時の華やぎが愛らしい。きゃあきゃあとはしゃぎ声で廊下を行く二人を見送って、ウィルフレッドと笑い合った。
「良い妹君だな」
「そうでしょう?」
 当然と云わんばかりに応えるウィルフレッドはさも妹が愛おしいようで嬉しそうだ。
「あ、でもあげませんよ、僕の目に敵わない人には」
「ふふ」
「なんです?」
「父君にもやらぬと云われておってな。狙って見えるのかな、私は」
「あの娘を要らない男は許しません」
「……どちらなのだそれは」
 可愛がっているらしいことは非常によく判った。
「ああ、間もなく夕食の刻限です。外套は客間へどうぞ。セフィも髪を仕上げれば食堂に来る筈です」
 金の懐中時計を開いてウィルフレッドが云った。私は首肯して客室へと爪先を向ける。その後の晩餐は日頃より豪華な振舞だったのはウィルフレッドの帰省を祝しての事であろう。伯爵も葡萄酒が進み饒舌になって、ウィルフレッド不在の退屈とセフィの事、果ては私がここに厄介になった経緯も含めひどく愉し気に語った。真っ当に機能している家族の団欒というものは美しい。私は杯を煽りつつ話を聞いて過ごした。いつになく賑やかな食卓は華々しく、ヒトではない私でさえも心安らぐひと時となった。

***

 短い休暇を邸で過ごしたウィルフレッドが、寄宿学校へ戻る汽車に乗るため、駅へ向かう馬車に乗り込もうとした時、不意に思い出した様子で振り返り私を見た。
「そう云えばクリスティアーノさん」
「私かね」
「以前何処かでお会いしてますか? 最初にお話した時も少し思ったんですが、初めて会った気がしなくて」
「……それは」
 少々言葉に詰まった。私が人外であることを知っているのは、あの絵を前にした時共に居たセフィとエイダだけだ。
「ウィル兄様、その件につきましては吃驚する仕掛けがありますのよ。次にお戻りになられた折に種明かし致しますから、暫くお悩みくださいな。そうしたらまた邸に帰りたくなるでしょう? 偶にしかお戻りにならないんですもの、セフィは退屈ですの」
「秘密の仕掛けがあるのかい? じゃあ次の休暇も寮には残らずに邸に戻るしかないかな」
 軽く笑って応じると、ウィルフレッドは馬車に乗り込んで家族と私に軽く手を振った。グレッグが合図して馬車は走り出す。名残惜し気な様子で馬車を追うように駆け、見えなくなるまで手を振っていたセフィが落胆したように云う。
「これでまたウィル兄様に会えないんですのね。ああ、私も同じ寄宿学校に行きたいくらいですわ」
「それは女性の地位向上を目指して革命するしかないだろうな。これでも今は随分と女性に優しい時代に進歩しているけれどね」
「先は長いですわね、その計画では……今すぐ一緒に行きたいくらいなのに。でも就学するのは十一歳ですから、私は今から学校に行く理由が見つからないし……」
「本気で企むのは止めた方がいいと思うぞ」
 真顔で思案に耽るセフィに釘を刺して、邸の中に戻るよう促すつもりで彼女の肩に手を掛けた。その刹那。
「──!!」
 稲妻めいた衝撃が全身を貫いて、私はセフィの中に『何か』を見た。セフィが驚愕の瞳で私を見返す。
「今……」
「いいや、気のせいだよセフィ嬢」
「見えましたわ、何かが! 貴方の触れた場所から何かが流れ込んで、何か……何かが……」
「気のせいだ、忘れたまえ」
「でも」
「いけない。これは君の為にならないものだよ。忘れなさい」
 繰り返した。そうだ。これは『良くない記憶を呼び起こす』ものだ。だからこの娘の為にも。
「私もそろそろ旅立たねばならぬ。だから──忘れなさい」
 華奢な肩に触れた掌を強く握り込んで私はそれだけ云った。絞り出す思いで。
 ──何故。
 臙脂の絨毯が敷かれた長い廊下を客室へと進みながら私は思う。
 何故これまで察する事も出来ずにいたのだろう。それとも気付きたくなかったのだろうか。こんな見え透いた簡単な事実から目を叛けようとして私は。
 けれど。
 けれど叶うなら。
 気付かぬままこの邸から旅立つ事が出来ていたなら──いや。
 こんな形にしかなれはしなかったのだ、多分、あの娘とは。きっとこのためにあの日、私は彼女に──と、巡る思いの中、私は客室にあった荷をまとめ旅立つ身支度を整える。そこへ。
「クリス様!? ねえ、ご様子がおかしいですわ。それに先程何か」
 セフィが後を追って駆け寄り、私の腕を掴もうとするのをやんわりと振り解いて云う。
「触れるな……!」
 低く抑えた声を絞り出した。
「触れないでくれ、頼む」
 気付いてしまうから。君が。

 セラフィーナがジェラルドの転生した存在であることに。

「……!」
 私は片手で顔を覆って天を仰いだ。
 あの時いつの日か転生する事を希って、喰らうことなく往くべき場所へと還したあの青年の魂魄。それがこんな場所で出会うと誰が思う? 気付かなかった。気付けなかった。先刻彼女の肩に触れたその瞬間まで、少しも。思えば彼女が伯爵令嬢と云う事もあってかその身に触れるのは避けていたように思う。触れればその刹那、判ってしまう事を半ば知っていたのだろう。だから触れられなかったのだ。
「君は知らぬままでいた方が良かろう。だから私に触れてはならぬ」
「知らない方がよろしいことなどありませんわ。後で悔やむ事になろうとも、真実を知らずにいて良い事などありはしません」
 真っ直ぐにこちらを見つめる海色の瞳に既視感を覚えたのも、それがジェラルドと同じ眼差しであったからなのだと、今更のように思い知らされる。この瞳をずっと見ていた。
「強気だな。本当に後悔するぞ」
「しません、絶対に。仮令悔やむ事となっても構いませんわ。貴方がそんな──哀しい眼差しをなさるほどの事があるのなら、寧ろ知らなければならないと思いますもの」
「……ならば視るがいい。これが君の『記憶』だ」
 私はセフィの腕を掴んで引き寄せ抱き竦めた。押し寄せる記憶の奔流。私の腕の中で絶筆の筆を取った、死を目前にしてさえも絵筆を離さなかったジェラルドの最期。腕の中で小さな身体が僅かに震えた。
 細い背中を抱いた腕を解き、セフィの瞳を覗き込むと海色の濡れた眼差しが揺れた。それはもう知ってしまった色だった。
「……視え、ました……貴方と暮らしていた頃の私が。私は画業に務める男性だった事があったのですね。いつも小さな画廊へ絵を持ち込んでは生計を立てて、暮らすには困らない程度の収入があって。今の私のように裕福ではないけれど満ち足りてました。けれど叶えたい希みがあって──これは何? これがあの、前世の記憶とか云う……?」
 セフィは少々混乱している様子で呟いた。自分自身に確かめるが如くに。私は身を引き裂かれる気持ちで応えた。
「そうだよ。君は君の希みを自ら勝ち取ろうと生きていた。そして君は今を生きるよりも随分と昔に私と出会っていた。名もなき画家のジェラルド・ピエリとして、束の間の刻を共に過ごしていた。私は君の転生を希み、待っていたのだよ。いつか再び君が幸せな生を享ける事を確かめる為に」
 生まれ変われるならば幸福に生きられるよう願った。ヒトならざるモノ、神を否定するモノでありながら神に運命を託した。どうか幸福な生を享けてくれと祈った。魔性であることも顧みずに祈った。巡り会う事は叶わずともただただ幸福に生きることを。
「クリス様はずっと御存知でしたの? 私をジェラルド・ピエリと知って──ああ、違いますわね。貴方がヒトではない事を告白して下すった折にはそのような事は仰らなかったのですもの。ではいつから?」
「先刻、君の肩に触れた瞬間に気付かされた。君の魂魄がジェラルドのものだと、君に触れた時に知ったのだ」
 知らぬままでいたなら、何と云う事もなくこの邸を出て再び新たな旅へと向かい、二度と巡り逢わぬままこの娘は生を終え、違う時代へと転生したのかも知れない。それでも。
 知ってしまった。あの日私の腕の中で鼓動を止め体温を失い、指先から硬直して死出の旅路へと向かった青年は今、少女の成で私の前にいる。これは出会わなければならない事と決まっていたとでも云うのであろうか。
「だからあの日私は、貴方をこの邸へと連れ帰ったのかも知れませんわね。魂が覚えていたのかしら、貴方がクリスティアーノであることを」
「判らぬさ。それでも私達は出会ってしまった。だから今私はここに在る」
「私にも判りませんわ。ただ私共の馬車の前に倒れた貴方を見つけた時、貴方が悪い人だとは少しも思いませんでしたの。何処かで知っていたのかも知れませんわ。貴方と会っていた遠い昔を。これまでセラフィーナとして生きていた事に偽りは御座いませんけれど、覚えていますの。今更のようですけれど思い出しましたの。貴方は誰よりも近い場所で私を見守ってくれていた事を」
 つうと透き通った涙が白い頬を伝い落ちた。堪らぬ思いで私は胸元のヴロォチに手を遣った。ジェラルドの遺髪を封じた冷たい水晶が、今は酷く熱い。この石の中でジェラルドが喪った魂魄との再会を歓んでいるようにも感じられて、痛いほどに熱い。
 セフィの眼差しがヴロォチを捉えた。するりと伸ばされた指が石に触れる。
「私の遺髪でしたのね。いえジェラルドの、と云うのが正しいのでしょうけれど──不思議ですわ、懐かしい心地さえ致しますの」
「欲しいかね?」
「え?」
「望むなら君にやろう。そして私はこの邸を出る」
「そんな、だって漸く私は貴方を」
「だからだよ」
 私は云う。
「この邸から旅立たねばならぬ。思い出したのだから尚更だ。いつまでもここに留まっている訳には行かぬ。君の──あたらしい人生を幸福に生きて貰う為にも、私はもうこの場所にはいられぬのだ」
「何故ですの? こうして再びお会い出来て、互いにそれを理解して、それでも尚共にいることが叶わないなんて」
「簡単な事さ」
 真実だけが全てではない事など、この娘にはまだ理解の及ばぬものやも知れぬが。
「今の君はジェラルドではない。『ジェラルドの記憶を持ったセラフィーナ』だ。それは君自身もそう云ったではないか、セラフィーナとしての生は偽りでないと。同じ魂のうつくしさを持っていても違う個体なのだから、君は君の生命を全うせねばならない。私と共に在る事など叶わぬことだよ」
「でも……!」
「君は君のお父上とお母上、そして兄上を捨てられるのか。エイダも残して私について来られるのか。人間の女の身で私と共に生きる事は容易くはないのだぞ」
 漸く見つけたお前を手に入れる事が叶わずにいて良いのではない。ただお前には生きて欲しい。このような環境に生まれ落ちたならば、今生ではもっと幸福に生きる事も出来よう。それを奪う事など私は求めない。
「かつて君は云ったな、ジェラルドは私に喰らわれて血肉となり私と共に生き延びる事を望んだはずだと。それは今の君もそうなのか? しかし仮令そう望まれていようとも、君はこの伯爵家の令嬢として今の生を全うする事こそが私の望みなのだ。君は私の願い通り転生した魂でこうして私とまた出会ってくれた。それだけで充分なのだよ。理解しなさい」
「……」
 セフィは言葉を失う。ジェラルドの記憶を持った上でこのように私と対峙したのだ。迷いもあろう。けれど私はこの娘を連れ出す事は望まぬのだ。
 ──と。
「お嬢様? どちらにいらっしゃるのですか!? どうしてそう目を離すとお逃げになるんですか。今日もそろそろ家庭教師の方がいらっしゃるので、お部屋にお戻りください。何処にいらっしゃるんです?」
「ああほら早速エイダが君を探している。逃げられぬよ」
「でも」
「聞き分けなさい──君が年老いた時幸福でいられなかったらその時は、今度こそ君を喰らうと誓おう。だから今はさようならだ」
 海色の眼差しが涙に濡れて煌めく。その美味しそうな魂の色そのままにうつくしく透明に光る。私は滑らかな柔らかい頬を辿り、顎に指を絡めた。
「迎えに来る。約束を残そう」
 囁いて。
 幼さの抜け切らぬ少女の唇にそっと接吻した。涙の味を舐めとり、解放する。
「幸せになりなさい、レディ・セラフィーナ・エルフィンストーン・アールス・オーゼロフ。君に逢えて良かった」
「クリス……」
 哀しみの色濃い声音を背中で聞いて、私はエルフィンストーン邸を去った。途中廊下ですれ違ったエイダが不思議そうに私を見たが、特別言葉は掛けない。魔性の者に出会ったことも、エイダにはひと時の記憶としていずれ過去になる。ジェラルドだった頃を知ってしまったセフィが、初めて会った時に云っていた『恋をしたい』と云う願いを叶えられるかは私の知るところにはならないが、それでも。
 私とこうして巡り逢った悪戯な運命を呪ったとしても、この縁があったならばいずれ彼女が年老いてその鼓動を止める時、私は再びセフィとまみえるだろう。
 そうして。

君は永遠の眠り姫の如く、私の裡で生を閉じるのだ──。


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