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前編:封印の肖像


 閉ざされた闇の中、私は青年の亡骸を腕に抱えて慟哭する。私という存在があるならばいるのであろう創造の神に問う。何故彼はヒトとして生を受けたのかと。
 夜闇に溶ける黒の外套を纏う私が佇む街角。酒に酔い水商売の女に囲まれて歩く男に、私の存在は認識されはしないらしい。それは多分彼がそれなりに幸福であるからだ。私は現実に絶望感を抱く者の目にしか止まらない。この存在をヒトは悪魔と呼ぶ。ヒトならざるもの。ならばあの日彼は不幸を抱えていたのだろうか。それで巡り会う宿命とあったならば、私は私が悪魔であることを幸福と呼ぶ他はない。

 その時私は、身を置く場所もなくただ、人々の集う広場に佇立していた。それまで契約を結んでいた人間をひとり胃袋に収め、次に私の血肉となるべきものを見定めるために。
 ちらほらと私を認識するものはいた。それは一見幸福そうな家族連れの父親であったり、物乞いに身をやつす子供であったり、上流階級の婦人であったり、実に様々だ。彼等は濁った眼差しをドロリとこちらに向けては不思議そうに歩み去っていく。捕食する人間などどうでも良かった。ただその時食指の動く魂が目に止まらなかっただけで。
 と、そこへたまたま大きな荷を担いで足を運んで来た青年の姿があった。鮮やかなブロンドの髪と海を映す青の瞳をした彼は、私の立つ広場の一隅に画架を立てキャンバスを据え、ごそごそと画材を広げ始める。画家のようだ。白い羽根飾りのついた青の帽子を被り、身なりは悪くない。売れている画家なのかも知れなかった。
(これはまた)
 純真無垢を、それこそ絵に描いたようなうつくしい魂を持っている。なんと美味そうな上物だろう、とその時は単純にそう思った。しかし得てしてこういう魂には欲がない。そういう人間には闇もなく、不幸などありはしないだろう。契約を結び不幸から抜け出す助けを施さない限り捕食する縁は手に入れることは叶わない。収穫なしか、とそこから立ち去ろうと考えた。
「なあ、そこのあんた」
 青年はしかし、そう声を掛けて来た。
「私、か? なんだ見えるのか」
 少々面食らった。この青年に自分が見えるとは。心に闇と欲望の部分があるとは。
「そう、あんただよあんた。見えるのか、ってなんだそれ。そんなことよりあんた貴族か? ご立派な外套を身に着けていらっしゃる。すげえな」
 気安い口調でそう問うてくる。確かに私はそれなりの身分階級を持つものに見えることになっている。施しを求めるならば貴族の者を乞う方が額面は多いと安易に考える人間に、つけこんで契約を結ばせるには都合が良いのだ。
「いや、旅の者だよ。たまたまこの街に流れて来ただけだ。私はひとつの場所に落ち着けない質なものでね」
 それは嘘ではない。老いることのないこの姿で、ひとつところで長く暮らせはしない。
「へえ、でも金は持ってるんだろ? そんな生活でやって行けるなんてさ」
「なんだ、君は身なりはいいのに若しや物を乞う身分なのかね? とてもそうは見えないが」
「物乞いだって? 馬鹿にすんなよ。これでも気鋭の絵描きとしてそこそこにやってるんだぜ? いいか、俺があんたに声を掛けたくなったのは」
 と、少し気取った様子で、
「あんた、描いてみたくなったんだよ。なんつうのか、俺は学がなくて絵しか知らないから判んねえけどさ、あんたは不思議と云うか特別と云うか──そう、住む世界が違う人間みたいで、俺が描き留めないと勿体ない気がしたんだ。綺麗な顔してるしな」
「ほう……」
 私は素直に感嘆の溜息を洩らした。成程見る目は確かだ。私はこの世のものではない、人間がいうところの悪魔なる存在なのだから。
「そうか、モデルとかいうやつかね? どうせ私も旅の者だ。宿を頂けるならモデルを引き受けても吝かではないがね」
「それなら話は早いな。俺のアトリエに泊まるといい。飯代は折半。宿賃はモデル代で代替でどうだ」
「良かろう、世話になる。見せて貰おうか、気鋭の絵描きとやらがどんなものを描くのか、ね」
 興味が湧いた。この画家の何処に不幸があって私を認識出来ているのか。欲望は何処にあるのか。こんな穢れなき魂の何処にそのような闇を抱えているのか。
「じゃあ暫く、日が暮れる頃までその辺で待ってなよ。俺はここいらの風景を描きに来たんだ。ほら、あそこに見える貴族の城なんだが。次の展覧会に出品するものを仕上げたくてな」
 青年は屈託なく笑った。うつくしい魂はひどく輝いて見えた。

「まあその辺に座っててくれよ。飯の支度するからさ」
 大きな画材の荷をどすんと壁際に据えて、青年は云った。自分のアトリエだと云う古びた家はしかし、修繕の跡がそこかしこに目立つもののそこそこの広さを持っている。こんな若造がひとり暮らすには充分に過ぎる家だ。恐らく共に暮らす家族があったのだろう。
「親父のアトリエだったんだ」
 私の考えを悟ったかのように青年は云う。
「母親はいつの間にかまだ幼かった俺を残して出て行った。俺は親父の絵を描く背中を見て育った。だから今も絵を描いてる」
 ジュウッと油を引いた浅い鉄鍋に手際良く刻んだ野菜を放り込んでソテェしながら、そのように語る青年の背中にはしかし、からっとした口調とは裏腹に闇が垣間見えた。
 この生い立ちの中に闇があったのか。親に捨てられた子供に。
「ああ同情ならいらないぜ? 珍しくもないだろ、これくらい──よし、出来たぜ晩飯。なああんた……ってこれじゃ呼び難いかな。名前訊いていいか? 俺はジェラルドだ」
「クリスティアーノだ。クリスでいい」
 テーブルにはパンとチィズに野菜のソテェ、腸詰肉をボイルしたものが並んだ。なかなかに悪くなさそうだ。私には人間の食事にもそこそこの造詣がある。伊達に長く生きてはいない。
「ではこの出会いの晩餐に、私が丁度いい葡萄酒を提供しよう。濃厚な赤がある」
「気の利いたやつだな、クリス。ならグラスを用意しよう。酒なんて暫く飲んじゃいなかった」
と、ジェラルドは食器棚へと爪先を向け──不意に、体勢を崩して座り込む。尋常ではないその様に私は些か驚いた。
「どうしたジェラルド、大丈夫か!?」
 椅子を蹴って立ち上がり差し出した手に、僅かに震える手を重ねてジェラルドは先程までの様子からは程遠い弱々しさで応じた。
「悪いな。何でもない、ただの立ち眩みだよ。このぐらいたいしたことじゃねえさ。この頃多くてな」
「医者にはみせたのか」
「この街にろくな医者はいねえよ。イカれた金の亡者みたいな連中が精々さ。あんな奴らの見立てなんか信頼出来るものか」
「みせたのだね? 診断はどうなのだい?」
「……胃に悪い腫れ物が巣食ってるらしい。臓腑を掻っ捌いて切り取る医術が遠い異国にはあって、それを受ければ生き永らえる希望が持てるとさ。そんなことをして生きたいとは思わないな」
「…………」
 闇は、身体にも抱えていたのか。生きたいと思わぬヒトなんてものには、ついぞお目にかかった記憶はない。首を括って自死しようと、今からただ足元の踏み台を蹴り飛ばすその刹那ぎりぎりまで、ヒトは死することに恐怖する。だから彼等は私と契約するのだが。そして我が餌となることも知らずに。だがそれなのに何故、この青年の魂はこうもうつくしいのだ? 遠くない死を語りながらも輝きは眩いばかりだ。
「次の展覧会でさ」
 ジェラルドは云う。
「最優秀賞を受賞すれば、王族の宮廷画家として認定されるのさ。お抱え絵師だぜ、凄いだろう? その栄誉を手に入れるまで俺は死なないつもりだと云ったらクリス、あんたは笑うかな……なんて、今日出会ったばかりのあんたに話すことじゃねえな」
 身を起こし立ち上がって、彼は笑った。
「乾杯に水を差したな、すまん。グラスを」
「やめておきたまえ。酒は良くない。宮廷画家の称号を得てからでも遅くはなかろう。君さえよければ、私もそれまで滞在しよう」
 この男は。
 そんな壮大な夢に向かって今を生きているのか。だからこんなにも純真な魂を抱いているのだろう。大きな志を持っている人間の、その目標が曇りなきものであればあるほど、魂は輝く。そして夢を叶えた時、最高に美味な生命を私は食すことが出来るのだ。ならば見届けようではないか。この男の魂には多少の時間を掛けてでも頂く価値がある。どうせ私には時間など限りなく持て余しているのだから。
「君はきっと宮廷画家の称号をその手に掴むだろう。私にはそんな未来が見える。後世の歴史家が絶賛する画家となるのだろう」
「ありがとう、クリス。悪かったな。飯が冷めちまった」
「なに、冷えた食事でも食事だよ。じゃあ、頂こうか」
 私たちはテーブルにつき、冷めた晩餐を共に語らいながら食した。

 そこそこの気鋭、とは誇張ではないらしい。ジェラルドは時折懇意の画廊で買われていく絵を収入源に、熱心に画業へと励んでいた。昼間はあの広場から城を描き、夜には木炭で幾枚も私を素描した。
「ふ……」
「なんだ、おかしいかクリス」
 少し笑った私を訝しげにジェラルドが問う。
「いや、熱心なものだと感嘆したのだ。素描の紙とて安くはないだろうに、よく飽きもせずそうも私を描くのだな、と」
「綺麗な顔してるからな、あんた。少しでも忠実に描き残さなけりゃ悔んじまう。そのための鍛錬なら惜しみゃしないさ」
 描き残す、という言葉が、何となく胸に刺さった。そうだ、この青年は長くはないのだ。胃の腑に良くない腫れ物があるのだと語っていたのだから。事実、時折血を吐く様を目にすることがある。彼はそれを見せまいと隠しているらしかったが、私には無駄な努力だ。削られる生命の灯。
「城の絵は」
 私は話題を転じる。
「もう美術館に収めたんだったな。評価されるのはいつなのかね?」
「明日、芸術学校や画壇のお偉いさんのみの閲覧会が開かれる。そこで最も高い評価を得られたら俺も宮廷画家になれるのさ」
「ほほう。それは定めし緊張することだろう」
「寧ろ楽しみだよ、自信作だからさ。明後日には美術館の最奥中央に、俺の絵が掲げられる」
「強気だな」
 軽く笑いながらも私は云った。
「ならばそのときは祝杯と行こうじゃないか」
 胃の腑には少々我慢して貰うしかない。そう笑い合って私は彼に早く休むことを促し、床に着いた。

 翌朝。
 流石にジェラルドも眠れなかったらしく、随分と早くに起き出しては朝食をこしらえてみたり急に片付けを始めてみたりと、そわそわと動き回っていた。私に睡眠が必要なわけではないが、寝たふりを決め込むのも困難な騒々しさではあったので、わざとらしく迷惑そうな素振りを晒して云う。
「ジェラルド、煩い」
「ああ悪い、起こしたか?」
「当たり前だ。どうした、今更緊張してるのか?」
「まあ、な。刻の鐘が鳴ったら美術館が開く。事前の通達はされない事になってるから、確かめに行かなきゃならないんだ」
「そうか。ならば私も共に行こう。君の絵が最奥の中央に飾られているのを見るためにね」
 事実、私にとっても楽しみではあった。彼が熱心に絵筆を奮う様は傍で見て来た。確かに良く出来た作品であるとも感じた。人間の感性がどう受け止めるものであるかまでは詳しく判らないまでも、なかなかに技巧的な作品と思うのは、共に暮らして最も近い場所で作品を見ていた贔屓目だろうか。
 本当ならば彼の絵を優勝させる方向に話を運ぶ手配など、私には容易い。ほんの少し芸術関係の人間どもを操るだけで、簡単に彼が望む通り宮廷画家への道は開ける。けれど私は彼を試したいと思った。自信家のこの青年ならば恐らく、己の力で望みを叶えたく思うだろう。だったら私が手を出すのは野暮というものだ。
 それから後も青年は落ち着きなく刻を過ごした。
「浮ついているぞジェラルド。先刻から僅かたりともじっとしていないではないか。心配せずとも耳という器官は閉じられない。刻の鐘の音を聞き逃しはしないさ。聞こえたら共に行こうと云ったであろう?」
「あんたには判んねえさ、俺の気持ちなんか。結果次第で運命が変わる」
 苛立った口調。何を云ったところで今は無駄であろう。私は肩を竦めて冷めた茶を啜った。
 それから随分の間、迷える小動物の仔の如く室内で落ち着きなくウロウロするジェラルドだったが、人々が労働に動き出す時を知らせる鐘が重々しく鳴り響いた途端、彼はビクリと身を震わせた。
 私は揶揄うように笑い、云った。
「お待ちかねの鐘だ。行こうか」

 美術館の周辺は結構な人だかりが出来ていた。ジェラルドのような芸術家風の者も多い。皆、この発表を心待ちにしていたらしい。誇らしげに闊歩する者、意気消沈の面立ちで肩を落とす者、実に様々である。ジェラルドはと云えば固い表情で美術館の建物を暫し見つめ、それから意を決した様子で静かな声音で云った。
「行くぞ、クリス」
「ああ」
 我々は美術館の大仰な扉を潜った。
 なかなかに圧巻と云うべきか。この国に住まう芸術家崩れ共が描いたものであろう絵画がズラリ壁を埋め尽くしている。箸にも棒にもかからぬ程度のものからそれなりの技量をはかれるものまで、ピンキリと云うやつか。何某かの賞を与えられたと思しきものには花の飾りが添えられていた。そういった末端の絵画には目もくれず、ジェラルドは奥へと足を運ぶ。私は黙してそれに続いた。
 果たして、最奥中央──。
「な……っ」
 そこに、ひと際大きな花飾りの添えられた絵画は。
「俺じゃ、ない!?」
 ジェラルドは瞠目する。彼が描いた城の絵はそこにはなく、全く異なる裸婦像が飾られていたのだ。
 筆致は悪くない。けれどもこれがジェラルドの絵を超えているとは私の目にも到底思えなかった。
「何故だ、何でなんだよ! 俺の……俺の絵は……」
 ジェラルドの作品は、右隣のやや低い位置にやはり大きな花を添えられて展示されていた。並べる程に中央に据えられたものはジェラルドの作品に劣るところが目につく。絵画の技法などに心得があるわけではない。しかしそれでも私の感情を掴むのはどうみても中央のものではない。
「どういう事だ」
 傍で見ていた私が情に溺れて贔屓目に見ている? いや、そうではないだろう。事実他の来館者も怪訝そうに両者を見比べている。ジェラルドは苛立ちも顕わに係員に詰め寄り怒鳴った。
「館長に会わせろ! 館長にジェラルドが来ていると伝えてくれ!」
 年老いた係員の貧相な小男は圧倒された様子でそそくさと奥の部屋へと引っ込み、暫くして恰幅のいい壮年の男を連れて戻って来た。
「ジェラルドくん、やはり来たね」
「当然だ。これはどういう事なんだ館長!? 俺の絵の何処が劣ると云うんだ?」
「いや劣るところなどありはしないさ。寧ろ完璧に過ぎるところが欠点だとでも云いたくなるくらいにね」
「だったら」
「待ちたまえ。これには『事情』というものがあるのだよ、ジェラルドくん」
 狼狽えながらも館長らしい男は云う。
「最優秀賞に選ばれた作品は、芸術学校の学生なんだ。寄付金をたんまりと納めている、上流階級の子息が道楽で絵を描いていてね。しかし道楽といえども意地があるようだ。それに──」
 目を合わせないようにしているのがあからさまに判る仕草で言葉を続ける。
「君が──あの城を描いた者がジェラルドくんでなければ、袖の下とは関係なしに無理にでも最優秀賞を与えていたよ。出来栄えで云えば満場一致だったのだから。理由は君にも判る筈だ」
 ジェラルドでなければ? どういう意味だ。
「俺、だから……? 技量でも表現でも叙情でもなく、俺だからだと……?」
「そうだ。恨むならばお父上を恨むことだな。では私は失礼するよ。画業は続けるといい。君は売れるだろう」
 云いおいて男は去っていった。残されたジェラルドは立ち尽くし唇を噛み締める。ギリ、という音が聞こえそうなほどに。口の端を赤い血が伝った。私は彼の背を押して云う。
「帰ろう、ジェラルド。君の実力は充分皆に伝わるだろう。それでよいのではないかね?」
「あんたは何も知らないからそんなことが云えるんだ!」
 ジェラルドは私の手を振り払って怒鳴った。他の客達が何事かとこちらをチラチラと見遣っているのが判る。
「落ち着け。兎に角ここを出よう。話はそれからでも出来るのだからな」
 彼の肩を引き寄せ、半ば引き摺るように私達は美術館を後にした。
 大衆食堂に連れ込み酒を頼むと、ジェラルドはそれをひと息に煽って乱暴にグラスをテーブルに叩きつけた。給仕の女がギョッとした様子でこちらを見るのを手で制し、新たな酒を持って来させる。しかしそれも直ぐに干してしまうジェラルドだったが、二杯を一気に煽ったためか、いくらか落ち着きを取り戻したらしかった。
「くそ……もっと美味い酒を飲めるつもりだったのに、やけ酒になるなんて」
 彼はテーブルに肘をついて頭を抱え俯き、吐き捨てるように云った。
「父君がなんだと云うんだね? 館長の口振りではどうやら仔細ありげだったが」
 もう一度酒を頼み、私は問うた。ジェラルドは長い沈黙の後、口をひらいた。
「俺の親父ってのはさ」
 運ばれてきた酒に今度は軽く口をつけて彼は云った。
「所謂ゴーストだったんだ」
「ゴースト?」
 問い返すと、彼は乱暴な口調で応じた。
「ゴーストライターさ、先代宮廷画家のね」
グラスをテーブルに置く。
「画廊で親父の絵を買った男が、それで皇帝に取り入って宮廷画家の地位におさまった。けれど親父の違って大した絵心もないその男は大金をチラつかせて代わりの絵を描かせた。まだ幼かった俺とおふくろを養うには金がいるからと、親父はそれで描いて描いて描き続け、愛想をつかしたおふくろは別の男と逃げた。そして親父は酒に溺れて──死んだよ」
 抑揚のない淡々とした口調で、ジェラルドはそう語った。
「宮廷画家になった男は当然除名され、王宮が親父を探し出した時には手遅れだった。皇帝は俺に支援を買って出てきたけれど、俺は俺の実力でその地位を手に入れてみせると断ったんだが、こんなくだらないことで握り潰されるとはね」
「そうか」
 本当の彼の闇はここにあったのだ。つまりこの一件を知る画壇にとって、ジェラルドの父が成した功績は邪魔なものであり、彼には病などこの大望の前には些細なものであるのやも知れなかった。そしてこの率直に生きる様が、ジェラルドの魂を甘美なうつくしいものへと輝かせているのだろう。だとしたら。
「ならば君はもっと絵を描くといい」
 私は云った。
「画壇が黙っていられなくなるまで描くのだ。あの展示を見れば誰もが君の実力を認めるだろう。金で賞を取ったものなど敵ではない。君は描いて、そして認めさせるのだ」
「それで認められると思うか?」
「認めさせるのさ。その実力を、君は持っている。画壇にとって不都合だからと云うだけで大賞を逃したのだからな。そうだな、まず手始めに」
 私は大きく身を乗り出す。
「私を描くのだ」
「あんたを?」
「そう、そもそも私を描きたいと云っていたのは君だ。展覧会までのつもりだったが気が変わった。私を描け。いくらでも付き合おう。金が必要になるならば私は援助を惜しむつもりはない。描いて、そして認めさせろ」
 云うと、彼は真っ直ぐ私を見返して、それから応えた。
「なら、付き合って貰うぞ。地獄の果てまでもね」

 それからのジェラルドはこれまで以上の集中でキャンバスに向かった。木炭の素描も更に枚数を重ね、鬼気迫る形相とでも云うべきか。言葉さえ交わすことなく、ともすれば寝食さえ忘れるほどに。その度に私が指摘し、食事を摂らせ休ませねばならなかった。
 幾度目かの朝を迎えたある日。
「──出来た」
 深く息を吐いて、ジェラルドは筆を置く。疲労の濃い顔はしかし、清々しい笑みを湛えていた。
「どれ、どういう仕上がりかね?」
 私は興味深くその絵を覗き込み──思わず息を呑む。黒ずくめの衣装を纏う銀髪と金色の瞳に捩れた角と黒い翼の、人間が想像するであろう魔性の姿をした私が、そこには描かれていた。
「何か悪いな、こういう描き方で。けどあんたって何だかこういう、闇の中の異形みたいな雰囲気があるっていうか……怪奇幻想的に描きたくなってさ」
「いや、いいんじゃないか? そうか、君には私がこのように見えているのだな」
 勘のいいことだ。悟られたかとも思ったがそう云う訳ではないようだ。しかし的外れでもないとは恐れ入ったものだ。どういう観察眼をしているものやら。
「いつもの画廊に収めるのだろう? 行ってくるといい。そしてこの一枚に限ることもないだろう。君が満足するまで私を描くがいいさ。このような幻想画を描けるならば好事家には引く手数多になるやも知れぬぞ?」
「そうだな。ならこれを預けて来たらまた描かせて貰うよ。不思議だな、これを仕上げたばかりなのにまだあんたを描きたいと思う。この魔性をもっと色々描いてみたいと思うなんて、俺にも信じられないよ」
 興奮冷めやらぬ様子で云って、ジェラルドは私を写した絵を画廊へと持ち込んだ。
 以降もまた、ジェラルドは酷く熱心に何枚も、私をモティーフにした怪奇幻想画を描いた。いずれも私を魔性のものとして描いたものだった。彼の筆致の精巧さはどんどんと増して行き、禍々しくも恐ろしく、しかし随分と美しい魔性がそのキャンバスに封じられた。
 画廊に幻想画を最初に収めてどれくらい経った頃であったか。ある日ジェラルドは酷く息せき切って画廊から帰宅した。
「クリス、いるか!?」
「どうした?」
「あんたを描いた絵が売れたよ! 最初の一枚だけじゃない、何枚もだ。しかも今までつけられた値段よりも高く! こんな高額で売れるなんて一体あんたは何者なんだ!?」
「私はただの君の友だよ。それに売れたのは君が描いた絵だ。私ではない」
 つい我が事のように嬉しく思いながらも、私は応えた。
「云ったであろう? 私を描いて世に認めさせろと。これからも伸びていくであろうな。おめでとう、君はきっとこれから画壇が放っておけなくなる。さあ、次を描くのではないのかな、ジェラルド先生?」
「冷やかしはいい。ああでもあんたを描かなくては……何だろうなこれは。あんたに取り憑かれてでもいるみたいだ」
「ふふ」
 少し可笑しくなる。ああ、確かに君は私に取り憑かれておるのだよ。そう云ってみたくなるほどに。

 このささやかな成功を機に、ジェラルドには画廊を仲介して貴族から肖像画の依頼を受けることが増えた。世代交代した邸や、婚姻を結んだ若い貴族の記念肖像など様々で、次から次へと仕事が舞い込む。急に忙しい身分となったジェラルドだったが、夜は私を描くことに時間を費やした。高い謝礼を受け取っても、それはやめようとしない。画廊で高額で売れている幻想画を求める依頼も少なくないようだった。
「根を詰め過ぎてはいないか?」
 疲労感の漂う彼の様子に、私は問うた。事実、抱えている絵の仕事は随分と多い。私をモティーフにした絵を描き続けなくとも生活には困らない謝礼とて受け取っているはずだ。しかし。
「大丈夫だ。俺はまだ描ける。あんたを描いたものを欲しがっている奴らは少なくないんだ。俺はまだ、あんたを描くことに満足してないのさ」
 などと云って譲ろうとしない。
「そうは云うがな……君はこの頃真っ当に食事も出来なくなっているではないか。野菜のスゥプが精々だ。それに」
 私は云う。
「不浄で何度も血を吐いていること、私が気付いていないとでも思っているのか?」
「…………っ」
 びく、と肩が震える。
「胃の腑の加減も良くないのであろう? 君にも判っているはずだ。随分と痩せてしまっているのも、知らぬふりを続けるつもりかね?」
「それが何だ? 今の俺は俺が目指していたものに限りなく近づいている。これを逃すわけには行かない」
「命を縮めるつもりか!?」
 思わず声を荒げ、私ははっとする。何を云っているのだ、私は? ジェラルドが死するならば、その時に彼を食することを目的にしていたのではなかったか?
「ははっ、あんたそんな顔も出来たんだな。悪魔の形相ってやつみたいだぜ」
 茶化すように云い、ジェラルドは笑った。
「すまない。余計な世話であったようだな。だが頼む、自らを殺そうとするのは止せ。もう少し休むんだ」
「努力はするさ。俺も悪かったよ、クリス」
 嘆息して、彼は絵筆を置いた。

 日増しに、ジェラルドの身体は悪くなる一方だった。
「ああ、俺行かなきゃならないのにどうして、こう身体が云う事きかないんだ? 公爵家に気に入られる肖像を描けるのは俺の筈なんだぜ?」
 寝台から身を起こすのさえ辛そうな様は目も当てられないというものか。そのすっかり薄くなった背を支え、座るのを手伝ってやる。目に見えてやつれて行く姿が痛々しい。
「クリス、いつもの」
「安心しろ、出来ている。さあ飲むといい」
 私は薬湯を注いだ茶碗をジェラルドに手渡した。
「あんたの作るこの煎じ薬は本当に不思議だな。飲めば一日の絵の仕事をこなす間は、病のことも気にならなくなる」
「私の一族秘伝の特別な薬湯なのでな。調合は云ってはならないことになっているが」
「今更勿体ぶるのか」
「流れ者の私が留まる先々で触れ回ったら『秘伝』でなくなるだろう。忘れたのか」
「そうだったな。あんたはずっとここにいるわけじゃない」
 厳密には、薬草もそこいらでは採れないものであったり、いくらかの魔術を施してあるため教えられはしないのだが。
「さて、俺は出掛けてくる。今日中には描き上げられるつもりなんだ」
「あまり無茶するんじゃないぞ」
「毎日それだな、あんた。いつから俺の母親になった?」
「君が全く云うことをきかないのだから、毎日云っても足りないくらいだよ」
 そもそもこの私が絵描きの青年ひとりにこんなにも関わることになろうとは。自分でも呆れるばかりだ。
「よし、今日中には仕上げられる見込みなんだ。頑張ってくるか!」
 ぐっと腕を伸ばしてそのように云うと、ジェラルドは笑みを浮かべながらアトリエを出て行った。
 元気そうに笑う姿は、これが最期だった。

 小じんまりとしたこの家の中、彼に幸福はあったのかと考えた。母親に捨てられ、父親はその尊厳を他者に踏み躙られ、自身は身体に重い病を抱え──それでもあんなに真っ直ぐに生きる、そんな毅さを身に着けて。
「全く、敵わんね」
 ぼそりと一人ごちる。私のつけいる隙なんてあったものではない。そんなことを考えていたところに。
 ガラガラガラッ、と大きな音が聞こえた。馬車の音だと云うことは判ったが、こんな場所にそんなものが来るようなことがあっただろうか? ここは貴族の館がひしめく街ではない。庶民の住まう地域に馬車で乗り入れる者があるなど……と、そこまで考えて慄然とする。それは最悪の想定だった。
 私が向かうより僅かに早く、扉は乱暴に開かれた。
「クリスティアーノとは、お前か?」
 随分と尊大な態度の男が、そこに立っていた。しかしその男の所作に文句ひとつつける暇などありはしなかった。
「ジェラルドに何があった!? 貴様、公爵家の従僕だな?」
「ジェラルド殿は」
 その人物の背後から、やはり従僕らしい若者に担がれるかたちで帰宅したジェラルドは。
「…………!」
 その衣服の全面を、深紅に染め上げていた。
「邸のサロンで絵を描いている中で、大量に吐血された」
 こんな、大量に? 笑って出て行く背を送り出したのはほんの数刻前ではなかったか。こんな。
「カーペットを汚されたと主は大変なご立腹だ。これでは絵も完成すまい。もう来なくていいとの仰せだ。当然謝礼もないが宜しいかな?」
「……ましい」
「ん? 何か云ったか」
「喧しいと云っている! 謝礼? カーペットが汚れた? そんなつまらん話なら聞く耳はない。貴様らはとっとと帰れ! 目障りだ、失せろ──さもなくば殺すぞ!!」
 怒鳴る私に怯む態で、公爵家の従僕は後退った。
「い、いや、もう用件は済んだ。おい、帰るぞ」
 若い従僕はジェラルドの身をそこに横たえ、年嵩の者とともにそそくさと出て行った。私は扉の前に倒れるジェラルドの身を抱き起した。冷たい。激しい出血のために体温を奪われているのだろう。酷く痩せこけた身体は軽く骨っぽく、病状の深刻さを思わせた。
「ジェラルド、私だ。判るか?」
「クリ、ス……?」
 閉ざされていた瞼を薄く持ち上げ、掠れた声音が私の名を呼んだ。
「何であんたが……俺は絵を描いて……いや、帰って来ちまったのか。仕上げるつもりだったんだけどな」
「無理をするからだ。いや、私がそうさせていたようなものだがな」
 与えていた薬湯に施していた魔術は、その場しのぎに病の苦痛を取り除くものだった。だからその進行に気付けなかったのであろう。こんなにもその身を蝕むほどに。
 ごほ、とジェラルドは咳き込んだ。ごほごほと咳をするほどに、その口からはどす黒い血が溢れ出す。なす術はもう残されていないのだと察するに充分だった。
「クリス、頼んでいいか?」
「なんだ、云ってみたまえ。どんなことでも引き受けよう」
「そんな大仰なことじゃないさ。そこの、食器棚の隣にあるキャンバスを取ってくれないか。ちょっと今は動けないんだ」
「動けぬくせにどうするのだね?」
 嘆息して私が問うと、彼は弱々しく笑んだ。
「最後の仕上げさ。今でないときっと後悔する」
「仕方のない男だな、君は。待ってろ」
 私は彼の身をその場に横たえ、云われたキャンバスを手に取る。そこに描かれていたのは私の姿を写し取ったものであった。黒い外套を羽織り、水晶のブロォチに片手を添え、こちらを見据えている。少し尖った耳の形は、私がヒトではないことを表すようだった。
「これをどうしたいのだ?」
 絵を彼に渡して訊ねると、ジェラルドはぎこちない動作で己の身の回りに放り出されていた絵具を引き寄せ、筆をとる。
「このキャンバスにいるあんたに、魂を込めるんだ。すまない、支えてくれないか」
「お安い御用だ」
 恐らく身を起こす事さえ困難であろう彼の背を支え座らせてやると、震える手で持つ絵筆がその肖像に彩りを加えた。ひと筆ごとに画面の私が生きていく。
「あとは──」
 呟いて。
 ジェラルドはキャンバスに封じられた私の瞳に、光を描き込む。それだけで絵の中の私に命が宿って見えた。
「出来た。ほら、あんただよ、クリスティアーノ。どうせ真実の名ではないんだろうが──あんた、人間ではないんだろう?」
「いつ気付いた」
「最初からさ。あんたのその尖った耳は、古い絵画にある魔物のそれと同じだ。魔物に魅入られたなら俺は、何かの機会を手に入れられるのかも知れぬと期待した。俺はあんたを利用したのさ」
「ふ……君を喰らおうと近づいた私を、利用したと? よくそんなことが云えたものだ」
「事実、俺は随分成功したと思っているよ。ありがとう」
 私の腕を支えに絵筆を持つジェラルドは、力なくそう礼を述べる。それからついと眼差しを虚空に向けた。
「ああ随分と暗くなってきたな。陽が暮れるのか? そんなに長く描いていたのかな」
「まだ明るい。どうした、見えないか?」
「見えないんだ。暗い。酷く暗いんだ。なあクリス、あんたの顔を見せてくれ。魔性の、美しい、顔を──」
「ここにいる。見えないか、ここにいるではないか。ジェラルド、判らないのか?」
「見えない。それに酷く眠いんだ。クリス、あんたの顔が見たい──忘れたくないんだ」
「…………」
 私は彼の背を抱き込んだ。折れそうに痩せ細った身体は腕の中に容易く収まってしまう。
「眠い、な」
「そうか」
 終わる、と私は思った。眠ったら彼は、それで──。
「ならば、眠るがいい。私はここにいる。次に目覚めたならばその時また、私を描くといい」
「ああ、もっとあんたを、描きたかっ……」
 ぱたり、と絵筆を握る手が力なく落ちてそのまま。
 眠るように、ジェラルドはその命の鼓動を停止し、呼吸を失った。
「ジェラルド……眠るといい。ずっとこのままで眠れ。次に生を受けたときにまた、私と巡り会ったならばその時、また描いてくれ──私は君の絵が好きだったよ」
 応えのない青年の抜け殻を抱き上げて、私はそれを彼の寝台へと横たえた。
 その時。
 ドンドンと乱暴にアトリエの扉を叩く音がした。私がそれを開くと、上等な身なりの人物が大きなキャンバスを抱えてそこに立っていた。
「何の御用かな?」
「王宮からの使いの者だ。この絵を描いたものはお前か?」
 見せられたそれは、ジェラルドの幻想画であった。
「この絵が皇帝陛下のお目に留まった。描いた者を探せとの仰せで、迎えに来たのだが」
「それは、些か遅かったな。それを描いた男は……ジェラルドはつい先程、息を引き取った」
「死んだと云うのか」
「ああ。彼はもう、絵を描くことはかなわない。無駄足だったな。帰ってもらおうか」
「なんと──宮廷画家に取り立てようとの陛下の仰せであったと云うのに」
「彼もそれを望んでいたさ。だが遅すぎたのだよ。せめて彼の墓碑銘に、宮廷画家の称号を刻んでやってくれ」
「陛下にそう伝えよう。埋葬の折には使いを送られるだろう。では失礼する」
 王宮の使者はそう云いおいて踵を返した。私は扉を閉め、閂を降ろす。これ以上の訪問者に応じるつもりはなかった。
 寝台で血まみれのまま眠るジェラルドの亡骸を見下ろし、私は言葉を見失う。もう彼の青い瞳は私を映さない。彼の手に筆が握られることもない。私をクリスと呼んで微笑むことも、もう、ないのだ。
「…………ッ!!」
 知らない激情が私を襲う。何だろう、これは? 判らないまま、私はジェラルドの亡骸に縋るようにして慟哭した。これまでならば当然のように餌とする筈の遺体を抱き締め、若しかすると、私はこの青年を愛していたのだろうかと、そんな埒もないことを思いながら。

 最期の筆に命を封じられた私の肖像は、柔らかな眼差しで虚空を見つめていた。

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