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菫色フヱアリイテヰル

     1

 雨は好き。
 レナーテは思う。
 菜種梅雨とも呼ばれる春の長雨である。水の惑星極東の島国では、『雨が降ったら天気が悪い』の言葉が、『当たり前である事』を意味した慣用句である程に厭われるのが『雨』だ。けれども農耕を担う者達には時に『恵み』と呼ばれるが如く、レナーテには在って然るべきものの一つが雨だった。
 というのも。
 少女は水を司るウンディーネ族の中でも年若い──どちらかと云えば幼いと呼んだ方が相応な──人類にとっての『善き隣人』であった。
『善き隣人』。
 これはヒト族の大多数が『妖精』と云う名でカテゴライズしている、人類と異なる高位の階層に存在する『モノ』達(ファーイーストには『妖怪』と呼称される存在もあるが、別個の存在である)の総称だ。善き隣人らの目に映るヒト族とは、何とも滑稽な存在であった。何故ならヒト族には万物に宿る神々や精霊、天使、悪魔などの『善き隣人』たちの存在を認識する事が敵わない為である。加えて彼らを含め『認識の適わぬもの』を『妖精』など云う乱雑な単語で一括りに解釈している。『善き隣人』とされる種族は『妖精』の呼び名を厭う。それは彼らが『ヒトならざるモノ』ではあっても、ヒトの考えるほど珍奇な存在では決してないと云う気高き魂であった。無知が故にわざわざ疎まれる呼び名を用いるヒト族の、この様を愚かしいと思わずにいられるものは『超越界』の住人に稀有なものと云える。
 超越界──『人智を超越するモノ達の世界』は、人類を頂点に配置し哺乳類を『優秀』な存在と謳う事の傲慢さを自覚し得ない、愚かな人間どものフィールドより高位に存在する、『ヒト族』の理解しえぬ世界だ。数多在るヒト族には視認する事の適わぬ魂魄の存在に対して、『科学的根拠』を求め、皮膚感覚で感知すべく努力し得ぬ彼等は、『超越界』の者らに軽視されるのもやむを得ないだろう。
 さて、現在この場はヒト族の階層で、雨とは大気に含まれた『水』である為、レナーテにとっては英気を養える現象とも云えた。余談であるが雪では『氷』に属する者らの分野となる為、彼女とはこれと云って関わりのあるものではない。
 ヒトの住処である邸宅の、無粋なアルミサッシの桟に降りた彼女は、その身に比べて大きく思われる透き通った翅をふるると震わせた。雨だれをその翅は嬉しそうに吸い取り、薄桃色に淡い春の空が入り混じった──柔らかな菫色に色彩の遊ぶような──輝きを宿して煌めかせた。それはサフィレットにも似た陽光を映す水面の様でもあった。
 翅とは彼等の種族では象徴的な部位である。人類が長きに渡り『飛行』を夢見たのも、超越界に属する者らを目にした識者ら(時に彼らは狂人の幻覚と扱われもした)が自在に宙を舞う彼ら超越者に焦がれた結果であった。人類は『飛行機』や『宇宙ロケット』等の開発に日進月歩しているが、個が飛翔する術は未だ敵わずにいる。それらの事象は超越者らがヒト族を嘲る一因でもある。
 ひらりと澄明な翅を翻し、窓の桟に腰掛けたまま華奢な脚をぶらぶらと揺らす。小さな爪先に雨だれが跳ねた。湖面に揺らぐひかりの如く碧い紗の衣は、ノースリーブのAラインマキシワンピースに同系色のショートコルセットベルトで留められ、雨水を吸ってしっとりと濡れそぼり、少し重いなと思った。少女らの種族はヒト社会でなら窓の縁に座れてしまう程に小さかった。六分の一スケール素体の人形に例えれば判ると思われる身体に、翅の大きさは揚羽蝶に近いか。かたちはどちらかと云えば蜜蜂のそれをイメージすると想像し易いかも知れない。ほっそりとした肢体は均整の取れた長身で、形状はヒトのそれと酷似している──彼らの尊厳の為に云うならば、ヒトが彼らに酷似した身体に進化したのだが。
(いる、のかな)
 レナーテは小さな胸の裡に呟く。この窓硝子の向こうに今、あの少年はいるのだろうか。ここの処わざわざ超越界から下界へと降りる理由となっている、彼。ファーイーストのヒト族であるその少年は、柔らかそうにサラサラとした栗色の髪と黒曜石の瞳をした、ヒト世界ではまだ親に庇護される年頃の少年である。彼は今レナーテの関心を惹きつけて離さない。
 うつくしい少年であった。それはただ容姿を指すのではなく、こころをも綺麗な──無垢な少年だ。こころの綺麗なヒトは超越界の民を否定しない。それらが人間界より高い階層に在る『特別』なものだなんて知識もないまま、けれども自然と『そう云った存在の在る事』を肯定する認識を、無意識下に持つ者らを超越界の住人は『うつくしいこころを得る者』と解釈している。『存在の認識が叶う』。それが出来るのは例えば、ロンドンの駅で人の目に見えない魔法学校へ向かう汽車のプラットフォームを、若しくはクローゼットの奥に続いている異国の存在を、胸の裡に求めている者なのであるのかも知れなかった。
<ミシオに逢いに来たの、レナーテ>
 窓の下に咲くヴィオラの花がレナーテに囁く。久方ぶりの雨に花弁を湿らせて心地よさそうに揺らぐ三つ色菫は、恋することに憧れる年頃の娘を象徴するように可憐な花だ。
 ミシオ──水汐とはこの部屋に住まう少年の名である。水汐少年には『善き隣人』を認められる『目』を持っている。囁きを聞き入れる『耳』も。
 しかし『視える』目と『聞こえる』耳はヒトに疎まれる。『人類』を『至上』とする者共は超越の存在を理解しない。だから草木の『聲』を聴く水汐は『夢見がちな』少年として揶揄いの対象であった。けれどここでそのような冷やかしに甘んじない性質を持つ水汐は、揶揄するような言葉を口にする者らに、「君たちの世界は狭いんだね。僕にはこんなにも沢山の聲を識る事が敵うのに。君らはどうして認められないの?」などと云う事をいとも容易く云えてしまう少年であった。
「うん。雨降りだもの、ヒトはそれほど外出を好まないじゃない? だから」
 部屋にいる筈なの、と。
 レナーテはそう思った。水汐は殊更雨を忌避することはない。けれど気圧の変化に敏感な彼は少しの雨で頭痛を起こす。そんな時はしばしば自室で寝むのだ。だから雨降りは、レナーテにとって水汐と語らう可能性を得られ、彼女には僥倖だとも云えた──水汐がレナーテの気配を察し、尚且つ会話を愉しむゆとりがあればの話だが。それ故に彼女にとっては『たまさかの喜び』なのだから。
 ふぅ、と小さな吐息を零して、レナーテは窓硝子に寄り掛かった。癖のない真っ直ぐな青みがかった銀色の髪が肩に流れる。真ん中に分けて垂らした髪は肩に揃えられ、そろそろ髪を結える長さまで伸ばすようにと促されるのが疎ましかった。
(結える長さになったら)
 レナーテは思う。
(人間界に関わることが難しくなるじゃない)
 髪とは神聖を宿すもの。結える程に伸ばす頃には神々の層に近づき過ぎて、ヒト族とは容易には逢えない。などと考える彼女の想いを知る仲間らの多くは、レナーテが髪を伸ばさずにいることを『遊び足りない子供の我儘』と捉えている。『逢いたいヒトの子が在る』からだと理解している近しい年頃の友人らも、しかしそろそろ結い上げられるよう髪を伸ばし始めていた。
(子供っぽい、かな)
 一筋の髪を摘み上げてはらはらと散らしながらそうも考える。判ってはいるのだ、子供じみた我儘を云っている事ぐらい。けれど。
 けれど水汐が。
 窓硝子に微かな『圧』を感じた。ガラス越しに感じる空気の動きは扉の開いた気配。誰かが入室したのだ。
 そおっと、レナーテは室内を覗き見た。水汐が来たのか、それとも彼の家族か。
(あ)
 ざわり。胸の裡が揺らぐ。水汐が居る。
「水汐、水汐。私はここよ。ねえ、こちらを見て。気づいて」
<ふふ、レナーテったら>
 窓外のヴィオラ達がくすくすと笑う。花が揺れたのはその笑声。けれどレナーテはそれどころじゃない。
「水汐!」
「やあ、今日もそこにいるのかな?」
 レナーテの呼び声を察したのか、水汐は庭に面した窓辺へと歩を進める。八畳間程の広さがある洋室はアイボリーホワイトに統一されたあっさりとした調度で、年のころに比べて落ち着いているようだ。テレビやゲーム機、パソコン等も設置されているけれど、触れる時間は少ない。モノに満たされる事は必ずしも幸福であるとは云えない。こんなものは甘やかしと呼ばれる無関心と同義だ──そのような事に気付かずいられたら生きやすい子供であったろうに。水汐は窓のサッシを開けた──レナーテを傷つけぬよう、そっと。
「会うのは久し振りかな、お隣さん?」
 少年は『善き隣人』らを『お隣さん』と呼ぶ。彼らの属性を『善き隣人』とするのが超越界のマナーである事など普通の──と呼ぶには少々浮世離れした─少年が知っている筈もなく、ただ自然と『ヒトに酷似したヒトでないもの』ならば『人間界に近しい違う世界のモノ』だろうと解釈している。しかしこれについて認知出来るのは、ヒトの中でも彼らを察知し得ることの適う、『フェアリードクター』を生業とした一部の探究者がセオリーであるため、彼はそう云った面でも『特別』であると云えた。
「ああ、少し待ってね。雨で母さんが勝手に除湿してて僕も喉が痛いんだ。せめてこの雨くらいの湿り気はあった方が、多分君が辛くないよね?」
(水汐、優しい)
 言葉にすることなく、レナーテは思う。声にしたら『言霊』に縛られる。言霊によらずとも優しい為人を壊したくなかった。
「雨の度にここにいるね、レナーテ。初めて会った時もここにいた」
 機械仕掛けの潤いで『お隣さん』に対してヒーリング効果があるのかは知らない。ただ雨の日にはこの窓辺にいる少女が、恐らく水気を好むのだろうと想像した水汐は、少しでもレナーテの負担を減らしたいと思っている。そうする事は名前を教えてくれた少女への礼儀ではないかとも考えている。水汐の中で『ヒトならざるモノ』の名前は特別であるのだろうと解釈していた。『真実の名』を知られると呪殺されると信ずる民族があるといつの日か聞いた事があったからだ。
 出逢ったのはいつであったか。今よりは幾分幼かったのは確かだ。丁度今日の様な雨の午后、先刻と同じくアルミサッシの桟に腰掛けて、雨だれを小さな掌に集めて大きな雫を形作り、窓の下のヴィオラに向けて落として戯れる少女の姿を見つけた。幼子は超越界との境界の壁が薄く、容易くその狭間を透かし視てしまう。こう云った感覚は成長のうちに視えなくなるのが習いなのだが、水汐は周囲と異なって未だ能力は消えることはなかった。それからも超越界に棲む存在を視認出来たし、言葉も交わせた。大人達はイマジナリーフレンドと思っていたのだろう。水汐が何をしようとも気に留める様子もなかった。
(大人には見えないし聞こえないなら、それでいい)
 彼は思った。
(でも)
(見ることも聞くことも適わなくなるのが大人になることだと云うなら、僕はそんな大人になんかなりたくなどない)
 少年に視えている世界はあまりにうつくしく、甘美で、幸福だった。
 失くしたくないと、希う。
「ええと、雨の日に遊びに来るのは……なんて云うのかな」
 少女は華奢だけれど健康的な肢体を伸ばして、言葉を探る。とてもきれいだな、と水汐は思った。
「そう、雨はね」
 何処か誇らしげに。
「私には、『こちら』へ渡りやすい架け橋の代わりになるのよ。すごく力になるの」
「雨と仲良しなのかな」
 雨だれに戯れていたいつかの少女が、やはりとてもきれいだと思った記憶を手繰る少年は、口の端に優しい笑みを湛えて云う。
「仲良し……そうね、きっと、仲良しになれているんだと思う」
 笑みが綻ぶ様子は風の中の春に咲いた花のよう。
「可愛いね、君は」
 ごく当たり前のように自然と、そんな言葉を吐いた。
「とても可愛い」
 ああ僕は今凄くにこにこしているなと、水汐は思った。彼女と言葉を交わすのがあまりに幸せで、にこにこしているのだな、と。
 さて云われた当のレナーテはきょとんとした眼差しを返して、それからぽぽぽと先の尖った耳──翅以外にヒトと大きく異なる身体の部位はこれだ──まで桜色に染めた。
「水汐、楽しんでない?」
 熱くなる顔を両の掌に覆って、拗ねたように云うレナーテに、水汐はあっさりと応える。
「楽しんでるよ。レナーテと話が出来るの、凄く楽しい」
 嘘でも誇張でもない本当の事を口にする水汐だったが、レナーテの頬に宿る桜は染井吉野から大寒桜になるばかり。
「ああもう、しれっとそういう事云うの狡いよ。沸騰してしまいそう!」
「凍ってしまうよりほかほかと気持ち良さそうだね」
 もう直ぐ凍った方が気持ち良さそうな季節になるけれど、などと無邪気に微笑む言葉に裏なんてある筈もなく、それは素直な感想だった。率直な優しさはあたたかな初夏の雨を纏うように心地良い。
(狡い)
 少女は思う。
(貴方は狡いわ、水汐)
 出逢った時から変わらない。とても幸福を感じられる様子でにこにこと──それが最も相応しい表現だ──微笑み、楽しそうだね、と云ったのだ。君たち『お隣さん』が楽しそうな姿は大好きだよ、と。そこのヴィオラはいつの間にか咲き始めた花だから、種を蒔いたのでも植えたのでもないけれど、痛くしたら駄目だよ、と。
 窓外の花に思いを馳せる少年はクリアな精神世界を保てる。この時からレナーテは水汐が『特別』な存在になった。
 水汐はケースに収めていた銀色のフルートを調整して云う。
「ねえ唄ってよ、レナーテ。いつもみたいに。そこのヴィオラ達と一緒に」
 窓外で雨に揺れるヴィオラ達は、水汐のそんな言葉に花弁を揺らす。
<ミシオ>
<ミシオ>
<ミシオは歌が好き>
<音楽が好き>
<それはとてもとても素敵>
<素敵>
 先程まで沈黙を保っていた花々がざわざわとさざめきのようにお喋りを始める。レナーテと水汐との語らいを邪魔をしない気遣いのつもりだったようだ。ふふ、と水汐は小さく笑う。少女も花々も楽しそうに唄うのを少年は知っている。歌の文句なんて『善き隣人』らなど知る筈もなくただラララと唄うのだが、それは他の何よりとても透き通っていてうつくしい。
 じゃあ、と水汐がフルートを奏で始める。子守歌にも似た、異国の映画音楽。幾度か演奏しているものだから、レナーテも花々もよく知ったメロディを口ずさむ。ヴィオラ達の幾つかに若干の調子外れがあるのもご愛敬である。
 次は邦画音楽。これも幾度か聴いて少女達もお気に入りだった。ファンタスティックに優しい鎮魂歌。ら・ららら・ら・ら・ら。ヴィオラ達の傍らでタクトを振る真似をしてお道化てみせるレナーテが愛らしい。水琴窟に響く雨だれがメロディを奏でるなら、このように響くのであろうか。春の訪れを告げる薄紅を散らす雨の多い季節、音にならない静けさで降り頻る雨か唄うみたいに、高く澄んだ艶やかに響く声。
 けれど。
 少女と花々の歌は徒人には聞こえない。今ここで聴いているのは水汐だけ。なんて勿体ない事なのだろうと思うけれど、超越界と接する事の適うのは一握の者に限られる。幼子であるか、うつくしくこころを保てる者ら、更には『そう云った存在』の専門家ら──かつて陰陽師と呼ばれた存在の様に──であった。大概が長ずるにつれ感じられなくなると云う隣り合った世界の。
(大人になんかならなくていい)
 この存在に触れられなくなるくらいなら。菫に透き通る翅を震わせて舞い唄うレナーテのうつくしい聲に浸りながら、水汐はそう希う。
 失くしたくないと。

     2

「まぁたミシオ?」
 グノームの民でファイルヒェンに属する少女アメリアは、レナーテの楽しそうに報告する出来事を呆れた様子で聞きながら、やれやれとでも云った調子でその若草色に透き通る翅を揺らして、辟易した様子でそんな事を云った。淡く明るいブロンドの髪は緩やかにうねり、長く伸ばしたそれを銀のマジェステで結い上げている。若紫色──レナーテが持つ翅の紫とはまた異なる色合い──をした紗の衣を纏った、レナーテより少しだけ『お姉さん』である。
「また、だなんてそれはないんじゃない?」
 アメリアの言葉にレナーテはぷっと頬を膨らませる。
「ほら、そうやって拗ねるのが子供なのよ、貴女って」
「アメリアの意地悪。水汐はいい子なんだから。あの窓の下に咲くヴィオラ達の方がアメリアより素直だわ」
「あの子達は人懐っこいんだもの。手折られてヒト族の鑑賞対象にされる事を不満にも思わずに咲けるくらい、ヒトの手に掛かってその属性さえも曖昧になってしまってる。『ヒトに関わり過ぎた』草木の民は気の毒ね。自分で考える事を得意としないもの」
  憐れみすら含まれたその言葉が、彼女らの如くグノーム由来の者(あらゆる植物がそれにあたる)と異なり、『ヒトの手に関わること』の為に進化を妨げられようもないウンディーネ族のレナーテにはピンと来なかった。とは雖も、突き詰めれば『上水道』によって『殺菌』されてしまうと、『湧水』に比してどうかと問われれば些か思考力に欠けているのは否めぬ為、強く反論することは叶わぬのだが。
「そういう淡泊なところ、判んないな。アメリアはヒトが嫌いなの? 確かに私達には気づけない者が大多数だから、水汐は『特別』なんだけど」
 率直な思いを訊ねつつ、レナーテは肩に垂らしたシルバーブルーの真っ直ぐな髪を指先でくるくると遊んだ。
 彼ら『超越界』に生きる者は『人間界』への接触に関心の薄くなる年頃になると、生まれついた性だけでなく『髪』をどう扱うかで象徴とする性を選ぶ。少女達は『一人前』の意味を込めて髪を大切に結い上げる。結い髪はそれだけで大人びて見せてくれる為だ。対して少年らはシンプルに束ねたり無造作に垂らす程度だ。男性性でも優雅に結い上げるものもあり、そう云った彼らは大概が高位の精霊となるためしが多い。『善き隣人』と呼ばれる者らにとって髪は、成長と属性とを表す霊力を象徴するもの。レナーテの如く曖昧に肩口程度の長さにあるのは幼さを示す、云わば子供の証でもあり、まだ性差すら定まらぬ存在に過ぎない。少年も少女もそう云った中途半端ななりのままにしているうちは、精霊の類としては超越力も足りず、容易くヒトの子の目に触れてしまうのである。
 しかも、だ。加えてヒト族も幼い年頃にあるうちは感覚も鋭敏である。そもそも性別も姿もヒトとの差異が曖昧な彼ら『超越者』の中でも、『善き隣人』や『下級天使』──基本的には第九階級のエンジェルズであり、第八階級アークエンジェルが視認される事はない──は殊更に区別され難いがために、結って女性性、結わずして男性性を選択する頃にはその選んだ性の立場に扱われ、またヒト社会との繋がりは遠退くのだ。より厳密な超越者として。ただこう云った事柄はあくまで『概念と属性とを象徴とするもの』に過ぎず、男性性か女性性か、そして性別は選ばず無性とも両性とも成り得る選択肢を選ぶのは当然あり得るべき事であり、ヒト社会の概念より遥かに柔軟であるのは云うまでもない。ただ霊力を強く持ち得るには、長く伸ばす程に優位となる傾向は存在する。高位の魂魄たるアメリアは勿論、柔らかな淡い金糸の髪が大層長く伸ばされていて美しい。
「そうは云っても、よ? 愚かな生き物だとは思ったりもするけれど……嫌いなわけでもないのよ? 彼らは短い生命の中で目まぐるしく生を受けて育まれ成長し老いて死にゆく忙しない存在だから。滑稽なほど小さなことに喜怒哀楽する感情的な面も面白いもの」
「ねえ少しも褒めてないみたいに聞こえるけど?」
「あら、勿論貶しているのよ?」
「アメリア!」
 気色ばむレナーテにアメリアは少し眉を顰めて、けれど悪びれる様子もなく云う。
「そうね、ごめんなさいね。でも揶揄ってはいないのよ? ヒトが浅はかな存在であるのはレナーテだって知っている筈だわ」
「……っ」
 強く否定出来ないのが歯痒い。レナーテとてヒト族は愚かだと思う事は少なくない。しかし。
「違うんだもん。水汐だけは違うもん」
「知ってるわよ。何度も聴いてるわ。ミシオは少し特別なのかしらね。私たちの事も、咲いている花の聲も聴く事まで叶うのだから少しだけ特別。だけどヒトは大人になって行くと『こちら』が判らなくなるものよ。だとしたらいくらミシオがいい子でも」
「いいの」
 続く言葉を遮ってレナーテは云う。仮令これから水汐が彼女らを認識出来なくなるほどに育って行ったとしても、彼は少女の焦がれた少年であることに変わりはない。ひっそりとその姿を追って見守りたい。ヒトとしての、超越界の民とは異なる僅かばかりの生を終えるその日まで。
「お熱い乙女心ね」
 アメリアは苦笑気味に云う。レナーテだって少女趣味な空想にも近い気持ちだと知っている。けれど知っていれば抑えのきくものであるならば、わざわざ人間界になど訪ね行かない。恋愛にもなれない程に幼い思慕の念はただ、少女の胸をかき立てる。
 好きだ、と。
 好きだと思った。水汐と云う少年も、少年の吹くフルートの音色も、変声期前のボーイソプラノで話す穏やかに優しい言葉も、その何もかもを、好きだと思った。だから。
(いつしか)
 こんな気持ちは今だけのもので終わってしまうものなのかも知れないけれど。
 刻が過ぎるにつれ醒めてしまうものなのかも知れないけれど。
(いつしか、この気持ちが薄れて、忘れてしまうものだったとしても)
 今は、彼を見つめていたい。
 今だけは。
 想いに焦がれる眼差しを伏せたレナーテを見て、アメリアは小さな溜息を零す。
(失くした時に泣くのは貴女なのよ──いつかの私にも、そんな日があった事を告げるのは残酷に過ぎるだろうから、今は云わないでおくけれど)
 ヒトの子と親しく関わるのは罪ではない。でも。
 恐らくより深く傷つくのは超越の民なのだろう、と彼女は思う。かつてのアメリアがそうであったように。
 そう、アメリアにもヒトの子に惹かれた経験があったのだ。叶わぬものと知りながらも止められなかったそれが、互いにとって不幸せな結末に終わった記憶は、どうしたった忘れることは出来やしない。それはアメリアの恋は叶わずとも、幸運な事に存在を霧散させることなく生き永らえた為であった。想いを寄せたヒトの子がもし、妖精の存在を否定する文言を口にしていたならば、アメリアは今ここに存在し得なかった。それは『言霊』と呼ばれる『呪い』。けれども件の子供はただ「楽しい幸せな夢を遊んでいたみたい」とだけ云ったのである。あの子供に『夢』とされた時、互いを結ぶ絆は解け、アメリアの想いは届かなくなった。この出来事についてアメリアはレナーテに語り聞かせてはいない。何故ならレナーテが胸に抱く浪漫を強引に押し潰してしまいそうであるからだ。
 そう、そんな思いを経験していたが為。
(貴女が泣かないで居られるなら)
 彼女は胸の裡に呟いた。
 ──ミシオの責任は重いのよ? 言葉にしてはいけないだろうから云わないけれどね。

     3

 街の楽団合同レッスンから帰宅した水汐は、日課となっているフルートのメンテナンス道具を揃えて──少しだけ演奏しようかと思い直す。今日のレッスンで巧く出来なかった処を少しだけ。
 水汐の住む家は住宅街から僅かばかり外れていて、『隣家』らしい距離に家はない。だから夜更けにフルートを演奏しても、迷惑をかけてしまうようなご近所さんと云ったものはなかった。そうでなければレナーテの現れる雨の日に彼女と花々の歌の為、フルートの演奏などしていられないのだから。そんな事を思いながら今夜楽団での課題になっていた楽曲の譜面を鞄から取り出して、自分のパートを確認する。全体譜とパート譜。楽譜を見ただけで楽団全体の音が水汐の中で湧き出る泉のように響き始める。全ての音が聴こえるこんな時、音楽を嗜む事に歓びを感じられた。
 けれど最近では。
 楽団の皆とのみでなく、特定の誰かの為に音楽を奏でる悦びを知った。レナーテは聴いてくれる。唄ってくれる。窓の下の花と共に、水琴窟がメロディを奏で唄うならかくあるのだろうかと思わせる、小鳥の囀るような癒しをくれる声音で。
『彼女』を視認し、草木の聲を聞き取る事が可能である自分自身が、実年齢より幼少の者に多い、シャーマニズムと近しい感覚を所有しているらしい事については自覚している。花々の囁きを、様々な場面にて密やかに見え隠れしている『小さなお隣の人々』の会話を、未だ認識し得るのは本来安易に敵う事ではないのだ。多くはもっと幼い時期に手放してしまう能力である。
(僕は幸福なのだろう)
 恵まれた能力だ、と水汐はそう理解している。勿論全てに渡り幸福な事柄ばかりが聞こえているわけではない。手折られて泣き叫ぶ野草がある。蜘蛛に囚われ怯える小さな羽虫がいる。と云っても、彼らの『聲』は所謂『四大元素』の精霊達のもの程くっきりと鮮明に聞き取れはしない。ただ四つのエレメンツに密接な『善き隣人』達の聲は理解出来る。だからこそウンディーネのレナーテと、グノームと密接に関わるヴィオラの花々に唄って貰う事を雨降りの日を楽しみとしているのだが。
 雨の増える季節。これからはもう少し頻繁に会えるだろうか。雨が降ると水気に誘われこちらの者が認識し易いとの言葉通りならば。
 ──と。
 窓外にひらりと揺らいだ、淡い桜色と水面の優しいブルーとが入り混じった菫の遊色を閃かせるものに、あれ? と水汐は思う。知っている色のひかり。知っているけれど、雨の降らない今この場所にはないはずの──いや。
 ずん、と頭が重く感じられた。これは。
 カラリとサッシを開けると、湿度の高く生温い、この季節特有の空気が滑らかな頬に触れた。それは如何にも雨を呼びそうな湿度で、菫の煌めきの意味を悟る。
「こんな時間に逢えるのは久し振りだね」
 親しみの籠る優しいボーイソプラノは穏やかに云う。
「でも夜は元々君たちの領分かな。ヒトの灯りは君たちの世界を侵食するばかりだから、闇あってこその朝が来ることすら、僕らは忘れているんだ」
 誰に聞かせるでもなく──寧ろ自戒を込めてなのか──そう独白する水汐に、菫色のひかりはふうわりと舞い降りて水汐の部屋と入り込む。蜜蜂のそれに似た翅を降ろして、レナーテはふふ、と小さく笑みを零す。
「そうね。陽の光より月灯りは私達を癒すわ。でも世界の狭間が透けるのは彼わ誰時なのよ。世界も景色も時間も、とても不均衡で危うい刻限──水汐は敏感だから気をつけて。『こちら』へ攫われないように」
 レナーテが話す言葉は薄ら寒い異世界の話であるはずなのに、水汐には何故か不安なんてありはしなかった。
「もしも、ね」
 水汐は云う。真っ直ぐに本気の顔で。
「もしも『隣の世界』へと攫われる事があるなら、僕はきっと今のような花の季節の朔月に、桜の下で攫われるのだと思うよ。ずっとそう知っていた気がするんだ。朔の夜に桜を見たら違う世界に連れて行かれるんだって」
 頃は花の盛り。月に輝らされる桜を愛するもの達が多く存在する。くまなく輝る望月の桜はことの他美しいと持て囃す。けれど水汐はそうでなかった。夜闇に埋もれる薄紅は何より恐ろしくうつくしい禍いだと。真昼の桜を言祝ぐ唇が夜闇の桜を呪うのだと。
「だからね、さっき楽団のレッスン帰りも少し怖かった。闇が怖いのでなく、桜並木がね。魂を喰らおうとするように咲き誇る桜はうつうしいけれど怖いよ。『隣の世界』に興味が無いと云えば嘘になるけれど、そちらに攫われたら帰りたくなくなる気がするから、多分僕はどうしたってこちらのヒト社会に執着してしまうだろうね。家族や友達って、『現実』へと束縛する為にあるのだと、僕は勝手に信じているから」
 甘いかも知れないけれどね、と困ったように笑う水汐が、いつか本当に超越界へと渡ったのならば、『視える』ままでずっと一緒に居られるのに。少しだけそう思ってしまうレナーテだったが、狭間を識る水汐だからレナーテは彼が好きなのだと自覚している。だから多分渡ってはいけないのだろう。それはとても哀しいのだけれど。
「水汐はとても沢山の事に気づけるのね。それは本当に素敵な事なのよ。絶対、ずっと忘れないで」
 大好きよ。
 その言葉はそっと飲み込んで。
『棲む世界が違う』などというつまらない文句が存在する。ヒト社会では陳腐なものだが、自分たちはそうではない。本当の意味で異なる世界の異なる時間を生きるのだ。
 何故私はヒトじゃないの。
 どうして僕は超越界に棲むモノとして生まれなかったのだろう。
 そんな互いの境遇に落胆するも、だからこそこの世界での巡り会いを果たせたのかも知れない可能性は存在して、ただここで共に過ごせる時間だけを幸福であったのだと自身に云い聞かせようと真剣になるのは、彼等の幼さが呼ぶ純真。
 過ちではない出会いとするためにも、今在る場所を呪わないと決めた。
 それこそが二人互いに希うものだった。

     4

 アメリアは判然としない不安にこころを揺らめかせた。
 近頃は水汐の元に足繫く渡るレナーテの執心に空恐ろしさを禁じ得ない。水汐の世界は雨の続く季節。ウンディーネの民は境界を渡るのが容易くなる。
(だったら)
 この長雨に土砂崩れでも起きてくれたのならば、その土はグノームの民を由来とする野草の霊体アメリアにも渡り易い架け橋となるのに、などと物騒な事さえ考えてしまい、ふるふると頭を振る。
 どうして。
 何故、こんなにも不安になるのか。ファーイーストにある小国に雨季が訪れると、レナーテが人界に渡るのはいつもの事だと、自分は理解している筈だ。それなのに何故。アメリアは苛々と爪を噛んだ。レナーテのあれは恋と呼んでいいだろう。けれどアメリアは知っている。ヒトに惹かれたがためにその魂を喪った同胞があることを。そして己自身にもあった叶わぬ想い。ただの悲恋に留まるならばまだ良い。だが『言霊』に左右されやすい彼らがヒトに心を寄せてしまった時、その人物によって『存在を否定する言葉』を云われると、彼らはその姿を保てなくなる──消滅、するのだ。
 アメリアは消えるのを免れた。恋をした人間が『妖精』を愛する文化を持つ民族であったことが幸いして、存在を否定されはしなかったために救われた。相手の人間にその認識があっての事かは定かでない。しかしだからこそ、そういう相手にばかり巡り合えるものではない。ヒト族の大概が『隣人』らの存在を信じないのだから、認めて貰えぬまま自らの存在を喪うことの方が寧ろ多い。ヒトとの行き過ぎた関わりが疎まれるのはその為だ。自身を守りたくば無為にヒトと関わってはいけない。見られてはいけない。『禁忌』とまでは云わずとも、それに準ずるのがヒト族との距離感。無垢であるが故の無知はレナーテの愛らしさに伴う愚かさとも云えた。
 それでも。
 想いが届いて、それを受け入れられる少年であったとしたらと、アメリアは思う。少年が語ったと聞かされた事。彼は花の盛りの朔夜に桜に攫われるだろうと。だとしたら桜を唆してこちらへと呼び込もうかと、大胆に過ぎる企みさえ抱く心持ちにさえなってしまう。そもそもがアメリアの棲み処とする花は桜の花開く季節に近い。誠実の花は清純の花とは通じやすい。桜を魔性としたのは近年の小説家達であり、元々は純真で清らかな花なのだから。咲き始めの花弁は白く咲く花であることに、多くは気付いていないだけで。
 ざわりと『風』を司るシルフィードの戯れに揺らぐ桜。はらりはらりと花弁が舞った。
 ──いっそ。
 彼がそう信じるのならば、真実この花が少年を向こう側に連れ去れば良い。アメリアは思う。そうだ、いっそこの花々が彼を超越界の向こう側へと攫ってしまえば。
(いけない)
 危うい考えに捕らわれた少女は些か狼狽えた。そんな事、当のレナーテは求めはしないだろう。水汐と云う『個』として想いを寄せるあの子に限って、世界の狭間を渡る事など望むべくもない。超越の優位に自惚れる様な少女とは違うのだから。
「怒られちゃうわね」
 小さく独り言ちて嘆息した。ゆるゆると頭を振る。自分は思いの外超越の立場に溺れていたらしい。『こちら』へと連れ去ってしまうくらいなら、あの少年の記憶を消して自らをも封じてしまいそうに純粋な──そして幼い──レナーテの欲しいものはそのように『神隠し』に遭わせる事である筈がなかった。そうだ。自分だって。
(私だってあの子をこちらへと引き摺り込んでまで想いを遂げるつもりなんてなかった)
 子供染みた淡い恋だった。その姿を目にするだけでどきどきして、こちらの眼差しに気づいたあのひとが照れくさそうに微笑むのが大好きだった。手を振れば小さな首肯を返してくれる優しいひと。離れているのは不安で、けれど傍にいるだけで苦しくて。いつでも胸の裡を満たすのはあのひとの存在だけ──けれど。
 長くは続く筈もないものだった。その人物には同じヒト族の恋人が出来て、アメリアに気付いても笑みを返して呉れる事が日増しに減っていった。もう見つめ返しては貰えない。一方通行にしかなれない気持ちに、先に見切りをつけたのがどちらであったか判然としなかった。逢いに行くのを諦めたのか、アメリアを視ようとしなくなったのか、そのどちらが先であったのであろうか、もう思い出す事さえ難しくなっている。それでも。
(けれど忘れてはいない。忘れたくなんかない)
 失くせば忘れる領域の想いではなかった。それだけは間違いない。思い起こす毎に痛む胸が覚えている。でも。だからこそ。
 レナーテが泣くのは見たくない。それだけに水汐の責任は重い。彼にしてみればこんなところで重責を背負わされている事など考えもしないのであろうが。
 水汐が好きだと。
 そう語り聞かせてくれる時のレナーテが、どんなに愛らしく微笑むのかを知っている。水汐自身と共に在る時もあんな顔をするのだろう。恋を識ったばかりの少女にあんな顔をさせることの意味を、水汐は果たして知っているのか。
 見たくないのだ。レナーテの哀しむ姿なんて。
 彼女は今頃水汐の元に居るのであろう。こちらの気も知らないで、と思ってしまうのは年長者故の傲慢さだろうか。それでも。
 ──貴女を心配するくらい、許して呉れるわよね?
 届かぬ心が小さく軋む音を聞いた。

     5

 親友の懸念など露とも知らず人間界に戯れるレナーテは、その日もさらさらと霧の如くしめやかな雨に濡れる水汐の庭先を訪ねていた。水汐はいつも通り窓を開けてレナーテを招じ入れ、蜂蜜を垂らしたミルクを人形サイズのミニチュアティーセットでもてなす。甘い香りはレナーテの表情を輝かせた。彼女達は生命を育むものを好む。それが蜜やミルクだ。他には空洞の繭や花粉、そして属性により血液も好まれるだろうか。だから水汐は、以前庭の白百合から採取した花粉をコルク瓶に詰めて、彼女の前にことん、と置いた。明るい黄色の粉末が封入されている。レナーテの表情は明るくなった。
「カサブランカね」
「判るの?」
「勿論よ」
「母の好きな花だから、少しだけお願いして分けて貰ったものだよ。好きなんだろう?」
 と、彼は蜂蜜ミルクに花粉を散らす。それだけで瞳を輝かせるレナーテは正直なものだ。水汐はクス、と小さく笑む。
 ──愛おしくて。
 堪らないなと、水汐は思う。住む世界が違うとか、種族さえも異なるとか、そんなことはどうでもよくなるくらいに心惹かれるのだからどうしようもなかった。誰かを好きだと思う事を本当に理解出来た様な気がした。
 これまでだって誰も好きにならなかった訳ではない。ささやかで幼いそれであったが、学校で、所属する街の楽団で、気持ちを揺るがす少女だって存在した。けれどあの頃本物と信じたあの想いが児戯であったのだと知る程に、レナーテに惹かれる感情は異なるものだ。
 触れてみたい。
 そんなことを思った。想いを込めて触れてみたいと。
(そうも行かないんだけどね)
『お小さい人々』と触れ合うのは難しい。触れるという行為に『ある感情』を含めるなら尚更だ。これは殉教する聖職者にも近いのかも知れなかった。水汐の少女を見つめる眼差しは、それが何処までも優しく慈愛に満ちたそれであるのか、はたで見ているものですら理解するのだろうが、当事者である二人に自覚は足りていないらしい。
 この極東の島国で長く販売され続ける少女人形(六分の一ドールとも呼ばれるサイズだ)とほぼ同じ大きさしかないレナーテの肢体は、強すぎる触れ方では毀してしまいそうで、水汐にはどうにも思うまま触れられない。異なる種族である事を恨めしく思われるのはこういう時だ。
「……君と」
 ぽつり、水汐は云う。
「同じものなら良かった」
「なぁに、突然?」
 きょとんとするレナーテに水汐は笑いかけて言葉を継いだ。
「同じなら、抱き締められた」
「……」
 思いがけないその言葉に。
(私ったら、何の期待を)
 鼓動が熱っぽく早まる事を自覚して、頬が薄紅に染まる。それは『異性に惹かれる』意味を孕むのだと気づけないようなレナーテではなかった。
(駄目)
 求めては。
(駄目)
 期待しては。
(駄目!)
 ……今以上に惹かれ合うのは──赦されない。どれほどに愛しさを募らせても、互いに流れる時間軸それ自体からして異なる二人は求めるまま生きて行けない。
 なのに。
 知っているのに。
『知って』いたとて『理解』し得ぬこころは、ある。想いを止める術などありはしない。どうせ叶わぬのなら拒まれた方が諦められたかも知れないのに。少女はその小さな身を震わせた。
『好き』に蓋をせねばならぬ関係でしか有り得る事の叶わぬ立場なんて、捨ててしまえたらいいのに。幸せになれないなら何故惹かれ合うのか。
「……水汐」
 小さく、その名を呼んだ。強ばる声音を自覚する。それに続く言葉を水汐は待っている。どんな言葉を欲しているのか、互いが知っていた。それが赦されないことも。
 けれど。
「貴方が好き。大好き」
 大きく胸の裡を焦がすこの感情を、どうして見ないふりしていられる? 叶わぬそれと識っている。禁忌の想いと判っている。しかしだからとて告げる事無く殺してしまえる程度の気持ちであったなら、こんなにも心臓を握り潰されるかのように辛くなんかならないだろう。
 こんな。
 愛でしかない想い──否定出来ようか。自らを謀ることで目を背けられるものであったなら、こんなにも痛い苦しさなんか知らず過ごせたのに。互いに抱えるは同じ気持ちなのだと、想像さえもしていなかったのに……想いは通じあっていたと、信じていいのだろうか?
「──うん、僕も好きだよ」
 万感の思いを込めた言葉は、その甘やかな意味に反して酷く重い。魂の乗り移った、真実という『言霊』なのだろう。大人達が考えるような戯れなら良かったのかも知れなかった。
 しかし。
 そうはなれなかったのだ。
 惹かれ合うことを識る歳の頃を迎えていた少年と少女に、その巡り会いを恋にならない距離で保てる筈がなかった。互いに焦がれてしまったから。彼女の湧水の水面の如く碧い、潤みを湛えて揺らぐ大きな目が水汐の胸に刺さる。この想いを知らぬまま大人にはなれない。誰もが通過して行きいずれは忘れてしまうそれは、とても甘やかに心を抉る熱に浮かされたような情動。恋でないと云うなら他になんと呼ぶのか。それは大人たちのそれよりも純粋に求め合う自然な想いだった。
 好きに。
 なってしまったから。
 あどけなさの残る恋が始まってしまったから。
 何も知らなかった頃にほもう、後戻りできない。黙したまま絡む視線に熱っぽさが籠る。結びついてしまった思慕は取り消せはしない。ましてやまだ互いに幼い子供染みた恋。気づかなければ知らないで済んだ筈の。だから水汐は片手でくしゃくしゃと己の髪をかき混ぜて、困ったな、と呟いた。
「云わないつもりだったのに。こんな言霊の束縛みたいなこと云いたくなかったのに──でもふざけてなんかいないよ、レナーテ。君の事とても大切に愛おしく思ってる」
 迷惑かも知れないけれど。そっと笑む水汐は少し淋し気に見えた。時の流れさえ異なる世界に生きる同士、交わり得ない生命なのに。──いや、寧ろ。
 身体で繋がる事は求めていない恋であるなら、いっそ他の何より純粋な恋愛であるの矢も知れなかった。掌サイズの人形の如く小さな身体しかない娘に、肉体的な欲望なんか抱くことなどある筈がない。ヒトの世でその身には大きすぎるものに戯れる、邪気を持たずにただきらきらとした眼差しを向ける少女を愛おしく思うだけのもの。そこに束縛はない。
 けれどそれが判るから。レナーテは。
(水汐、狡いね)
(貴方は知っているから)
(ヒトの外側の民に向ける距離感を弁えているから)
 ──束縛してくれるひとなら良かった。愚かしい行いと誹られても。こんなこと水汐自身にさえ告げられないけれど。だって困らせてしまうと判ってる。だから。
「……ん!」
 レナーテはおいでおいでをするように水汐を手招きした。少年はレナーテに顔を近づける。
 ──と。
 MWAH!
「!」
 驚いた瞳で少女を見る。レナーテは水汐の鼻の頭にキスをしたのだ。レナーテはみるみる真赤になって俯いた。あまりに可愛らしい仕草に、くす、と水汐は小さく笑ってそれから彼女の名を呼んだ。弾かれるみたいに顔を上げた彼女の唇を、水汐はトンと人差し指で突いて、それから指先を自らのそれに触れさせる。意図が判らないままキョトンとするレナーテに水汐は微笑した。
「間接キス、だよ。勝手に貰っちゃってごめん」
 悪戯ぽく笑う水汐につられてレナーテが相好を崩す。
「おあいこ、よね」
「そうだね」
 くすくすと笑い合い、この距離でずっと一緒にいられたらと云う叶うはずのない想いを密かに確かめ合うふたりだった。

     6

 ことん、と陶器の音。
 デミタスカップに蜂蜜入りのミルク。窓際に設えたオフホワイトのカラーボックスが、このカップの定位置だ。水汐は今日も蜂蜜ミルクを支度出来たことに安堵する。大丈夫──まだちゃんと『認識』出来ている。彼は寒くもない肩を軽くさすった。
(多分、近づき過ぎた)
 原因は他に心当たりがない。これまで当たり前であったものが当たり前でなくなる理由。
 距離感が──バグを起こした。だから。
 どうすればいい? 問うことも能わぬ世界の狭間を見てしまった。『境界に佇んでいた自分』が『向こう側』に爪先を踏み込んだ、その結果が『これ』なのだろう。
 気持ちを伝えあうことが叶ったと思った。階層の異なる属性に想いを募らせて、けれど云ってはならないのではないかと言葉にするのは堪えていたもの。それを交わしてしまった。
『それ』は矢張り『超えるべきでないボーダー』だったらしい。
 恐らく気のせいなんかではない、明確な変容。間違いなく『聞こえにくく』なってしまった──窓辺のビオラのさざめく聲にノイズが混じる。あんなにもクリアに聴こえた聲が。
 うまく聴こえない。
 耳の加減かと思った。気圧とかそう云った──元々気圧の変化に過敏な体質だから──環境で崩れる程度の聴こえの不具合と思いたかったけれど。
 うまく聴こえないものが『限られている』ことに気付くのはあまりにも容易だった。本当ならそちらをもっと明瞭に聴ける感覚が欲しいのに、聴きたいものをこそ聞き取り辛くしてしまった、その要因を招いたのは恐らく自分自身の短的に過ぎた行動だと云うことは明白に過ぎた。
 云わなければ。
 告げなければ良かった──!
 水汐は額に掌を押し当てて俯く。告げなければ良かったのだ。多分きっと。だって他に理由がない。だから。
(どうしよう)
 失くせないのに。これだけは譲りたくないと思っていたのに。『判る』ことをある意味『特権』であるかのような驕りを抱いていたことを、否定し切れずにいる己を自覚している。
(……ううん。大丈夫、まだ)
 まだ『そういう存在』に対する『認識』を喪ってはいない。大抵の者がいつの間にか失くしていくものを僕はまだ掌中に残している。
(判るよ)
(まだ君の事が判る。忘れていないよ。だから)
 おいで。
 ──ここにおいで。
 ざわり。膚が粟立つ。
(なんだろう)
 漠とした悪寒を、レナーテは感じていた。
 何か──先の事を懼れるような、そんな寒気のようなもの。
(変なの。やだな、きもちわるい)
 レナーテには判らない。『それ』は『アメリアなら経験として識って』いる、ある種の予兆であることを。
 真実大切な何かを『失くしてしまう兆し』であることを。
 だから。
「!」
 レナーテの顔を見るなり『そう』と気づいた──『気づいてしまった』アメリアはただ、強く強くレナーテの細い身体を抱き締めた。
「大丈夫……大丈夫よきっと──あの子なら、ミシオなら……貴女はきっと、大丈夫」
「アメリア? なあに、突然……」
 レナーテにはそれでもまだ、判らなかった。何ひとつ。

     7

 菜種梅雨の春先から本当の梅雨前線北上を過ぎ初夏へと季節は移ろい、夏の暑さも朝夕には冷え込むほどに和らでいく秋へと季節は進んだ。雨の多い国だ。秋の長雨とはよく云ったもので、存外秋は雨との相性が良い。雨に恵まれる折ではあるものの、木々や草花はその葉を落とし、陽射しの及ばぬ冬に向けて生命の息吹は形を潜める。静寂を誘う季節。水汐の窓辺に咲くヴィオラにも眠る時間が増えて、春に比べて唄いさざめくことは随分と減っていた。
(まだ──)
 水汐は己に確かめる。
(まだ判らなくなっているわけじゃない)
 ──聲、が。
 聞こえていた。花々や小鳥、虫たちの『囁き』に語り掛けながら過ごしていた。幼子の多くはそれを持つという生命あるものたちとの対話。水汐にしても本来なら疾っくに失せていたであろうその能力を、彼は他の者らよりずっと長く保持することが叶って、つい先日まで辺りはうつくしい囁きに満たされていたけれど。
 聞こえにくくなってしまったように思う。何も聞こえなくなってしまったのではない。時に語り掛けて来てくれる花の聲を聞ける。蜘蛛の巣に困惑する昆虫の悲鳴を察して、ごめんねと蜘蛛に謝意をみせつつそっと外すこともある。それでも以前の様に容易には聞こえなくなっていると感じていた。
『超越界』との障壁に厚みが増してみえる、と呼ぶのが感覚的に近い。年のころからすれば遅すぎる程の『超越界』との決別が、特別異質な変化ではないのだと水汐にも薄々感じ取れる事象ではあった。でも。
(まだ)
(好きだって告げただけ)
 けれども言の葉は時折彼等への冒涜となることも知らないわけではない。或いはヒトでありながら人間界より高位の存在超越界の者に想いを寄せ、のみならずそれを告げてしまったこと、これは罪として処せられはしないか。だとしたら──。
 自分にはもうレナーテと逢って言葉を交わすのも叶わぬのでは? それは限りなく確信に似た予感。厭だ。そう思った。そんなこと受け入れられる筈がなかった。多分これは初めての恋。ヒトならざる者に惹かれるのはそんなにも罪悪なのか。水汐自身は判り易い特定の神を崇める習慣はなく、かと云って『神』という『絶対者』否定する理由も根拠もありはしないと考えるから、レナーテとの絆は何らかの絶対者による導きとさえ思いもした。それこそが真実の超越者なのだから。でもその筋書きに少年と少女が心を通わせるのを確かめてしまう現状を容認する理由もありはしなかったのだろう。
「雨、降らないかな」
 ぽつり、と少年の想いは零れた。
「逢いたいよ、レナーテ」
 他に聞く者のない掠れた声音の呟きが風に溶けて、窓の下に咲くヴィオラ達の花弁を打った。

     8

「三八度五分」
 溜息交じりの宣告が水汐の母親から投下される。云い訳も反論も聞いてくれる母ではない事は経験上承知だ。それに、反論したくとも云える筈がなかった。夜更けに振り出した雨と共に、レナーテが訪ねてはくれないものかと淡く期待して、遅い刻限には幾許か冷える季節となってきているのにも関わらず、自室の窓を開け放っていたのだ。お蔭で窓際は少々振り込んだ雨だれに湿って、室内をうすら寒くさせていた。
「気圧に弱いくせに雨を好むなんておかしな子ね。いいから寝みなさい。学校には電話してあげるから」
「はい、お願いします……ごめんなさい、朝から面倒掛けて」
「しおらしさを装って可愛い年頃は過ぎてるのよ? 声も掠れてるし、不摂生気味なのかしら。ともあれ判ってるならもっと弁えて頂戴」
「ごめんなさい」
 レナーテなら苛立っていたかも知れない母親の態度を、水汐は別段違和感を持ってはいない。この母親は水汐の幼い頃からこういう──些か威圧するような──対応しかしたことがない。父はそんな母の事を素知らぬふりで押し通す代わりに、物質的金銭的な面でカバーしようとした。水汐の私室がモノにだけは満たされている理由だ。この環境が逆に水汐を優しくさせたのだろうとは想像に難くない。彼は布団を引き上げてすっぽりと潜り込む。母親は大仰な溜息と共に退出する。
(情けないな)
 水汐は思う。母に手間を掛けさせてしまった。欠席する事を殊更に厭う母が不機嫌なのは当たり前なのだ。何故なら勉強が遅てしまう事を懸念される理由として、一日の欠席で聞き逃した授業の穴を埋めることは思いの外厄介であることは理解している。勿論、一日を取り戻す為に教科書を自らさらうくらいは出来るし、ノォトを借りられる友人くらいはあるけれど、自分で聞いていない授業の、板書丸写ししただけのノォトにはそれ程価値なんかなかった。真実ただの備忘録だ。進んでノォトを貸してくれるクラスメイトの親切についてはとても嬉しく有難く思うのだけれど、自分でとるノォトとは矢張り異なる。挽回の適わない遅れでなくとも、少しばかりの懸念が残るのは払拭し切れずに棘が残る。母の剣呑な態度の根拠はそこだ。
 ──しかし『自覚』はある。
 酷く稀な事ではあるのだが、意図せず『身体が拒絶してしまう』のだと云う事を。判り易い理由も明確でないまま、ただ『登校したくない』と強く考えてしまう日はこんな風に突然発熱する。クラスメイトによれば「身体は正直なんだよ。無理が祟るんだ」ということらしい。
 甘えだと思う。
 学校を大好きだと手放しに喜べる性質ではそもそもない。恐らくそれは少数派であろう。だったら皆が行きたくないと思っても休まないよう通う学校に、行きたくないから熱を出してしまってまで休みたいなら、そんなのは甘えだ。そう理解しているためどうにも己を責めてしまうきらいがあるのだが、周囲からはこのような考え方が逆効果なのだと指摘される。僕は何か間違っているのだろうか? 未だ自分では判然としない。
 レナーテ、君に触れたい。水汐は思う。彼女は水を司るものだ。発熱した額に触れて貰ったらきっと心地良い。この発熱が風邪をひいたものではないと認識しているので、伝染すことを懸念する事もないだろう。彼女に逢えたならこの情緒不安定も解消されるに決まっている。幸いにして今日の空も雨模様である。水汐はレナーテの窓に眼差しを向けた。『ここにおいで』。そう伝えられたら。
(強く願えば叶うかも知れない)
 体調に不具合を起こせるほどに思い込む事が出来るのならば、超越界との繋がりを求めれば若しかすると。
 ──本来。
 ヒトの子が『善き隣人』に会いたいと望んだ処で会えるものではない。そんなことが容易に敵うならこの異なる世界に境界線は存在しなくなる。上位階層の超越者、と云う区分そのものがナンセンスとなってしまうからだ。
 しかしそれは『本来ならば』の話。境界の壁を薄く繋げられる水汐になら、願っても叶わないとは云いきることも出来ない。──出来なかった、のであろうか? 何故なら。
『在る』と。
 そこに少女が『在ること』を察し得ない事実に気付けなかったのだ、この鋭敏過ぎる感性の少年が──。
 体調の不具合に鈍っている。それもある。しかしそれだけでもなく。
『呼べる』程に鋭い彼をして彼女を見つけられない。奇妙ですらあった。だから。
(水汐、こちらを見ない)
 レナーテは思う。『水汐の部屋の窓の外』で、室内のベッドに疲れた様子で寝む少年を見つめて歯噛みした。ここのところ『察して』貰えない事が増えている。呼び掛けねば気づかれないためしもあるくらいだ。互いを隔てる何か生まれてしまったと感じた。あの些細な触れ合いを境に何かが、何処かボタンを掛け違えたみたいなすれ違い。それぞれに惹かれる想いを抱いていると識ってしまった事は過ちだったのかと不安にさえなってしまう。そして──その懸念は間違いでない事なんて知りたくはなかった。
<それはね>
 アメリアの言葉を思い出す。
 ここのところ水汐に伝わらない事を嘆いた折に聞かされた言葉。
<それはね、レナーテ。人間とこちらの世界との狭間を越えてしまうと、ままある事よ。関りを閉ざそうとする圧力みたいに、境界を隔てる魔性なの。だからもう止した方がいい。ミシオにはもう会わない方が……>
 これは咎。狭間に足を踏み入れた者たちに下された罰。アメリアは自身の経験として知っている事。天地創造から定められた擦れ違い交わらぬ路。
<駄目なの。通じ合ったら終わらされるものなの。駄目なのよ……>
 多分あの時アメリアは泣いていたのだろう。レナーテの気持ちと、自らの過去を重ねて、その叶わない想いを悔いるように。
「水……汐……」
 はらはらと零れ落ちる涙は砕け散る水晶の欠片みたいに煌めいた。小さく口の中で唱えた少年の名前は音にもならないまま消える。彼はこの窓の外に気付かない。
 ──気付かない。気付けない。こんな傍にいてこんな遠い、何が『隣人』かと哀しみに憂う。
「水汐!」
 悲鳴の様な声音で。
 名を、呼んだ。
 少年はそれでも流石に気付くことがかなって、発熱に重たい身を寝台から起こした。
「レナーテ、いるのかい? 気付けなくてごめん、この頃の僕て鈍感だよね」
 眉を顰めて困惑の様子で云って、彼はレナーテのいる窓辺へと爪先を向ける。恐らく自分があのとき間違えたのだと、気付かぬふりを貫いて。だって心配させてしまう。不安にさせてしまう。それは望まぬこと。
(こわい)
(こうしている間にも僕には彼女を認識出来なくなろうとしているのが判る)
(不可ない、哀しませてしとても
(どうせ)
(どうせ『終わらせ』なければならないなら)
 クレセント錠を外して窓を開けると、ひらりと菫に似た品の良い紫と水の気配とが室内に舞い込んだ。肩に切り揃えた青銀の髪がさらりと揺れる。やっぱり綺麗だなとちらと思って低く呟く。伸ばしたならどんなに綺麗だろう。ああでも、髪を伸ばすのは大人になる意味だと話してくれただろうか。大人になればこんなかたちでまみえることも叶わなくなると。大人になった彼女はどれほどうつくしいのだろう。空想に描くもよくは判らない。だいたいがその姿を目にする事自体が叶わぬのだから。
「その髪とても綺麗だよね」
 何気なさを装えているのか自信はない。判らなくなって失くすなら自ずからひっそりと拒んで喪った方が辛くない。彼女の事を判らない等とは云いたくない。自己保身の予防線だと知っていた。けれど。
「髪を伸ばすといい。きっと君はもっと綺麗なレディになる」
 レナーテが身を堅くする気配。
(そうだよね)
 云っている言葉に偽りはないけれど──『断腸の思い』と云う決断はこれかとまだ幼さの残る少年は思った。この言葉が婉曲的に示す距離感の意味を判っている。
「嫌」
 ぽつり。レナーテが云う。
「嫌よそんなの。私たちにとっての髪は」
 云い募る自分の必死さが哀しくなる。狭間に遊べるのは『曖昧さ』があるからだ。髪を伸ばせばそれは敵わなくなる。ヒト世界の『隣の住人』な立場が確定してしまう。そんな大人になるのなんて今じゃなくたって。
「それでも君はいずれ今よりも更に高位の霊体となるんだ。僕達はずっと子供でいることなんか敵わない」
「…………」
 言葉はレナーテの説得ではなかった。どちらかと云えば水汐が自分に云い聞かせているかみたいに。
「だって僕は……から」
 掠れる声音。
「僕は君が好きだから、こうしている事なんて君の為にはならない」
 掠れて聞き取りにくい声の筈なのに、やけに判然とその言葉は胸の奥に突き刺さった。意味を確かめるように胸裏で反芻されたその科白は、彼自身の意志で逢いたくないのだとは言外に否定する。『レナーテの成長を希って』の、逢瀬の拒絶。そんなもの。そんなものは。
 いっそただ我儘だけで云っているのだったら憎むに敵ったかも知れないのに──厭うて云うのではないのだ、この少年は。ただ、少女の幸福を希うが故に。
「多分、僕も初めてだったんだよ」
 掠れ声の水汐は云う。
「特定の女の子を、こんなに特別に思う事なんて、多分初めてだったんだと思う。だからね」
 子供らしい脂肪が落ち始めてやや骨っぽくなり始めつつある、まだ小さめの掌でレナーテの頭を包むように撫でて、語を継ぐ。
「レナーテには本当に幸せになって欲しいんだよ。だとしたここで、僕の傍にいつまでも居てはいけない気がするんだ。君はもっと僕を超えて行くはずの存在なんだからね」
 僕の為だけの君にしてしまいたいのも嘘ではないのだけれど。その想いは言葉にすることなく胸に仕舞い、水汐は柔らかなレナーテのシルバーブルーを指席に遊ばせる。レナーテは指を捕えてするりと頬を寄せた。堪え切れず流れた涙に湿る頬がひやりと冷たい。苦しい胸の痛みはどちらが感じるものなのか。人間世界と人間を超越する世界。境界で惹かれ合ったふたりの狭間の想いはこうして引き裂かれてしまうのか。
「それが、水汐の本当の望みだと云うなら、超越者ウンディーネの民は期待に背いてはいけないと、きっと貴方は判っているのね」
 溜息交じりに云うレナーテに水汐は困惑の色をした眼差しで応えてごめんねと呟いた。その声が掠れて聞こえる事に、少年の掠れ声の意味に、気付ける程レナーテはヒトの子を知らない。
 知らない。
「それなら水汐、ひとつだけ」
「何かな。お願い事?」
「うん、あのね」
 大人になった証の髪を結える長さになったら、その姿で一度だけ逢いたいの。それはレナーテのねがい。成長した超越者をヒト族が視認するのは難しい。それでも見て欲しい、逢いたいとは、それが叶うくらいに感覚を研ぎ澄ませて純粋なまま居るようにと云う言の葉をまじない。水汐はくす、と小さく笑んだ。
「いいよ。きっと見つける」
 必ずとは応えない水汐の誠意に偽りはない。それを知らないレナーテではなかった。首肯してひらりと窓外を舞い、祈りを込めた囁きを残して彼女は超越の世界へと還った。
 ええ、約束。きっと見つけてくれるよね? 信じてる。
 水汐は確かにそれを聞いた。

     9

 自ら拒んでいた成長を受け入れたレナーテの髪は、いとも容易く成人女性のそれとして結い上げられる長さとなった。アメリアがその心境の変化に驚きと不安を綯い交ぜにした瞳で云う。
「きめたのね?」
「うん」
 察して貰えずとも責めはしないと極めている。髪を結うと決めた時、同時に諦めることも極めた。少女が女性へと『羽化』した刹那、狭間への糸がふつりと断たれるのを膚に感じ、レナーテは全てが昨日の続きになり得ない過去となったのだと察した。
「でもね、約束したのよ」
 たった一度でいいから、このうつくしく青みがかった銀の長い髪を見て欲しいと、希ったから。
「ああほら、『向こう側』に雨が降り始めるわ。これが最後になるのよ」
「いってらっしゃい、レナーテ。安心して泣ける胸は空けておくわよ?」
「泣かないもん。──行くね、私」
「うん」
 レナーテはひとり、境界の向こうへと渡る階に足を掛けた。

 果たして水汐はいつもの私室でフルートの手入れをしていた。真剣な横顔は前に会った日に比べて大人びた様子だった。レナーテは暫し、その作業に没頭している想い人を見つめる。
 ──と。
 水汐はふと顔を上げた。掌中に在るフルートは綺麗に磨き上げられている。
「雨か」
 ぽつりと云う声は聴いたことのない低音。あの日掠れていた声は『変声期の』それだったのだ。少年はもう青年になろうとしていた。
(──やっぱり)
 少しだけ懸念を抱いていた、彼の成長。本当にもう『妖精』なんて見えない大人になっているのだろうと、レナーテは諦めの気持ちで嘆息する。
 けれど。
 水汐の視線はレナーテのいる窓辺に向けられ……。
「ああ、漸く来て呉れたね。とても綺麗なレディだよ、レナーテ」
 ふわと優しく笑みを浮かべるから。
「水汐……判るの?」
「判るよと云えるほど鮮明には視えないけれどね。菫のように上品な紫と明るいシルバーブルーが微かに透けてるだけだよ。君の翅の色と髪の色。──僕の声、低くなってるよね。やっぱり子供では居られないらしい。けれど良かった。君のねがいに応えられたみたいだね」
「うん……ありがとう水汐。集中し続けるの、疲れるでしょう? ねえ、本当にこれが最後よ。だから」
 泣いてしまいそうな自分を押し隠してレナーテは云った。
「貴方に逢えた事も貴方を好きになった事も、忘れないわ、きっと。──ありがとう。大好きよ。さようなら」
「違うよレナーテ。そこは『ばいばい、またね』でなくちゃ不可ない。生きていく限り、絶対の終わりなんてありはしないのだから」
 などと嘯く水汐に苦笑して、レナーテは云った。
「だから貴方が好きよ、水汐。ばいばい、またね」
「うん、いつかまた、何処かできっ──」
 聞こえなくなる声と探す眼差しと落胆に顰められた眉を見て、レナーテには判った。
 本当に、水汐にはもう見えなくなってしまったのだ、と。
 不思議と涙は零れはしなかった。哀しさはキャパシティをこえているようだ。泣けもしないまでに。これではアメリアの『予言』立証である。
 帰ろう。泣かせて貰う為に。レナーテは世界の狭間へと踵を返した。だから知らない。水汐がひと雫だけ涙を落として、唇だけで呟いた言葉を。
 君を忘れない、本当に好きだったんだ、と。


 ──これはほんの細やかな、菫色した翅の妖精譚。

<了>

あとがき

 最後までお付き合いありがとうございます。
 去年の今頃(いつ月半ば)に書き始めて、仕上がったのは年末という難産だった物語、堂々完結でこちらに掲載となりました。私のメインフィールドはpixivなのですが、あちらでは非公開。BOOTHにて冊子のかたちで受注頒布しております。紙本買えますよ宣伝。紙本の表紙はminnneでご活躍のla bijou様に画像提供頂きました。美しいので見て! もぎ取った私偉い! そしてらさんお優しい……(滂沱)。
 説明嫌いの蒼月ですが、こればかりは世界観に拘り過ぎて説明を削られず。大変読み難いものとなってしまったのが不本意ではありますが……これでもめたくそ説明分けたり削ったりしたんだよおおおう。
『妖精』という俗称を持つ高位の見えないモノたちを、単純に『妖精さん』で済ませてしまえばもっとシンプルに出来たと思います。ですが『妖精』とは俗称であり、そう呼ばれる彼等にとっては寧ろ『蔑称』でもあります。お小さい人々をどうか差別なきよう。……まあそんなもんに拘泥すんのは、妖精と呼ばれるものが本当に『隣人』として扱われるアイルランドの人々や研究者の皆様ですけども。

 お読みくださった皆様に善き隣人の祝福がありますように。
20240112    蒼月里美

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