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コクハク

「月が綺麗ですね」
 真夜中の書斎。妻の千秋の呟きに一瞬、僕の手が止まる。
「何、急に?」
「んー、誰が云った言葉だったのか忘れちゃって」
 云いながらも妻の視線はPCに向かって動かない。ちょっと待て。
「……忘れるか普通。そんな常識」
 不覚にもときめいた純な男心を返せ。
「度忘れしちゃったんだもん、仕方ないでしょう? 常識っていうなら悠は知ってるのよね? ねえ、誰が云ったんだっけ」
 僕等夫婦は共に小説家で、物語を紡いでは世に送り出すことで糊口をしのいでいる。お互いのジャンルは異なるものの、執筆は専ら深夜この書斎で背中合わせになって、PCに向かって進めているのだが。
「教えたら面白くないな。少しぐらい自分で考えろよ。あ、ここでググったらカスって呼ぶぞ」
「ちっ」
「ちっ、じゃねーよ」
 舌打ちを口に出す妻に思わず突っ込んで、それから訊ねた。
「意味の方も忘れちゃった?」
「うん、両方。だってさあ」
 彼女は席を立ち、南側の窓に爪先を向ける。
「本当に今夜、月が綺麗なんだもん。満月よ、ほら見て」
 カラリと開かれた窓から身を乗り出して云う妻。こういう無邪気さを僕は大層気に入っている。
 出会ったのは出版社の新年会パーティー。僕はその時、壁の花を決め込んでいた。まだほんの駆け出しのファンタジーライトノベル作家。大御所作家の大先生と歓談する器ではない。そんな時同じく壁に懐いていた女性がのちに僕の妻となる千秋だった。
「いいんですか、挨拶まわり」
 何気なく話しかけた僕に、彼女は困ったように笑った。
「済ませました。深くお話出来るほど親しい先生もおりませんし……正直まだ新人ですから」
「僕もですよ。去年──いやもう一昨年か、初書籍を上梓して、今はまだシリーズ一本持たせて貰ってるだけです」
「そうなんですか? 私も一昨年の秋にデビューして、一話完結の連作ミステリを五冊ばかり出させて貰いました」
「ミステリですか。何かカッコいいですね、女流推理作家。僕はファンタジーなんですよ」
 そのまま新人の苦悩をだらだらと語り合い、アルコールも手伝ってかパーティーが終わる頃にはすっかり意気投合。二人で二次会へと繰り出した。少し綺麗なバーへ。僕達の恰好は大衆居酒屋では些か浮いてしまう程度にはフォーマル過ぎた。
「飲み直しよ!」
「お、いける口ですかな?」
 お道化て云うと彼女は破顔して、
「まあ、嗜む程度には」
「そういう女性に限ってザルだったりしてね。潰すつもりの男の方が先に潰れるっていう」
「外でぼっち飲みしてるときに声かけてくる男性って、お酒は強くないみたい」
 ふふ、と小さく笑う彼女は悪戯が見つかった子供のような目をしていて、ひどく無邪気なものだった。
「あ、僕まだお名前伺ってないですよね?」
 はたと肝心なことに気付いて尋ねると、彼女はコロコロと笑った。
「名乗ってないんだもん。それに貴方からも名乗って貰ってないですよ? 私は黒田千秋、本名で書いてます。貴方は?」
「僕は桐野悠。本名です。同じですね」
 カラン、とグラスの氷が音を立てる。
「web小説に押されてるけど、出版界を盛り上げる野望があるんですよ。やっぱり紙の書籍って好きで。こう、物語を所有して本棚に様々な世界が詰まった感じが」
「判ります、それ。って、原稿はPCなんですけどね」
 千秋さんは小さく笑った。
「僕もです。子供の頃は万年筆を片手に原稿用紙の前で唸ってるイメージだったのに。今じゃPCかじりつきですよ」
「ああ、でも」
 千秋さんが云う。
「桐野さんの著書、読みたいです」
「え、僕だって黒田さんの本、早速明日にでも書店へ……」
「私、献本用に処女出版の見本誌何冊か持ち歩いてるんです。良かったら受け取ってください」
 云って、彼女はバッグから文庫本を取り出して手渡してくれた。
「ではありがたく頂戴します。でもあの、僕自分の本は持ってきてなくて」「大丈夫です。買いますから。彩月書房のライトノベルレーベルで、桐野さんですよね? 探します」
「あざッス! じゃあこれ、早速マンションまでの電車で拝読しますね。ってヤベ、終電逃したくない。すみません、お開きでいいですか?」
「はい。でも……」
「何ですか?」
「感想、伺えたらと。またお会い出来ますか?」
 千秋さんは緊張の面持ちで云った。
「勿論ですよ、お会いしましょう。僕の方は締切まで余裕あるんで、一週間後の十三時くらいに彩月書房のラウンジでいいですか」
「ええ、是非」
 千秋さん、とても嬉しそうに笑ってそう云ってくれたっけ。
 結局そのままお付き合いに発展。仕事の性質上、デート代わりに仕事中のスカイプだったりで会話を楽しむようになり、たまに彼女が僕のマンションで夜食を作ってくれたりしているうちに同棲。そして結婚にこぎつけた。
 互いの両親は当初それはもう当然猛反対だった。作家なんて浮草稼業で生活出来るのかと。まあ想定はしてた。でも。
「私が悠くんの小説好きで、悠くんが私の小説好きでいてくれる限り、それだけで生きていけるわ。それが作家なんだもの」
 絶対の自信。千秋の揺るぎない信条だった。
 そして結婚五年。僕達はコミカライズやアニメ化など、ちらほらメディアミックスのお声が掛かるぐらいには売れているわけだが。
「悠、PCがロック画面になってるわよ。何ぼんやりしてたの?」
「ん? ああ」
 僕は長い回想から現実に引き戻された。だから僕も席を立って千秋の隣で窓の外を見た。まんまるの月が輝いている。
「本当だ。月が綺麗ですね、千秋さん」
「……あ」
 軽い悪戯心でその言葉を口にすると、千秋はぷしゅーっと音が聞こえそうなほど真っ赤になってしまった。
「思い出した?」
「はい、負けました。悠くん不意打ち狡いよ」
 頬を染めて千秋が食いつく。
「夏目漱石がI love youをそう訳したのよね。変なこと訊いちゃった」
「そう? 僕は嬉しかったけど。突然の愛してる」
「事故だもん」
「じゃ、愛してない?」
「なくはない……って、悠くんの意地悪」
 ぽこぽこと僕の胸を叩く姿が可愛かったから、僕は試しにこんな提案をしてみる。
「お互いの気持ちを確かめたことだし、どうかな。そろそろ僕達にも子供がいてもいいんじゃないかな」
 月が綺麗な夜だから。

     了

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