見出し画像

3月歌会報告

3月19日(土)、久しぶりの対面歌会ができました。
ですがわたくしめ、個人的にどうしても外せない用事のため欠席……。
スペシャルゲストに白夜(さや)さんもお越しくださったというのにお会いできず残念でした。
ということで、今回のレポートは歌会中の素晴らしいコメントが書けなくて申し訳ありません。
私の独断と偏見に満ちた感想だけですがよろしければお読みください。

まずは1席歌。いつも素敵なご褒美画像をつけてくれる稲本さんが1席だったので、自分でご褒美画像を作ってくれました!
(ほかに誰もやってあげないのか……って?いやいや、あのクオリティが出せないのよ。)

2022.3月歌会1席歌

「仰いで」「屈んで」「近づいて」「嗅いでみる」……思いっきり人間の動作中心の春の表現が面白いですね。
最初に読んだ時は作者は伏せてありましたが、花の写真を撮る自分の姿を詠んでいるのかなと思っていたら、やっぱりうちの専属カメラマンでもある稲本作品でした。
4~5行目の「春は/先端から綻んでいく」という表現も、まだ硬い蕾が枝の先のほうから順に綻んでいく感じを表わしていて、我が家の桜も本当にそんな感じなので納得でした。
春の訪れをこんな風に表現するって新鮮!
作者曰く「この写真のとおり菜の花畑で這いつくばって写真を撮っているときにできた歌」だそうです。

そして2席と3席はこちらです。(3席は同点で2人)

画像2

2席歌。漢字で「木蘭」とも書くのですね、「木蓮」に馴染んでいたので新鮮でした。こう書くとなんだかより高貴な感じもして、3行目の「漂う寂しさ」という表現にも納得です。
個人的には木蓮に「寂しさ」をあまり感じたことがなかったので新鮮でもあり、なんだか腑に落ちる気がしました。
他の花がまだあまり咲いていない頃から木蓮は白い大きな花を咲かせます。
木蓮にしてみたらちょっと孤独感味わっているのかもしれませんね。

白夜さんの3席歌。(ゲスト参加の方が入席されると嬉しいな。)
これは一読して今の有事のことを思い浮かべてしまいました。
人間のどんな諍いにも哀しみにもびくともせず、空はいつものように青く広がっている。……淡々とした詠み口と、事情を説明しない書き方がかえって読者の想像を膨らませてくれます。
もちろん、あの有事とは無関係の個人的なことだったとしても、「当たり前が/当たり前じゃなくなる」ことは誰にでも起こりうるので、読者それぞれに解釈し共感できる歌ですね。

南野さんの3席歌。今回の歌の中で作者が分かってしまった数首のうちの1首です。あの方があの方を詠んだものに違いない!と(笑)。
そうでないとしても、読み手が自由に当てはめていい歌だと思いました。
(ちなみに私は推しの藤井風さんにすぐ重ねてしまい妙に納得しました。)
使っている言葉がすごいです。「祭司」という非常に特殊な言葉をもってきたり、「犠牲」の「牲」で「にえ」と読ませたり、「驕慢」という文語的な言葉を使ったり「許し」ではなく「赦し」であったりと、随所に作者のこだわりが見えます。
私の推しにせよ、天からのタレント(ギフト)を受けて生まれてきたような人たちは、もちろん素晴らしいその才能によって花開いているのだけれど、きっと自らを奉げるようなことも多いのだろうと思います。「祈り」とも言えるようなものをその表現なり作品なりに託して日々邁進しているけれど、そのためにたくさんのことを犠牲にしなければならなかったり、色んなものを背負って生きているのではないかなと思います。
私たちはその犠牲に上に成り立っている芸術をある意味能天気に享受しているけれど、それも赦してもらっているのでしょう。
……あ、すみません、語り過ぎました(笑)。

というわけで、参加はできませんでしたが大いに楽しませていただきました。ご参加の皆さんお疲れ様でした。
来月は絶対参加するぞー。(対面でできるかなぁ?)
ではでは、また。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?