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豆腐怪談 38話:猛禽類

「それにしてもいい天気だな」
空を見上げた。山の谷間、木と木の間から見える青空に小さな雲がひとつ浮かんでいる。
渓流釣りにはもってこいの良い日和だった。

この川に来たのは初めてだ。車を止めた空き地から少し川を上がったところに、釣り糸を垂らすのに丁度良い日陰があった。
深い緑色の葉越しに降り注ぐ日光は穏やかで、岩と石が転がる川辺に立つ身を暖めてくれる。鳥の鳴き声だろうか、ピイピイと陽気な鳴声が耳に軽やかに入ってきた。
川は幅は狭いが、爽やかで透明な水を豊かに流し続けている。魚影が岩の影や緑色を写した水面の下で踊っていた。川と木の間を吹く風が心地良い。
これは良い穴場を見つけた。
今日の山は機嫌が良さそうだ。そんな柄にもない感想が浮かぶ。


最初の1時間ほどは面白いように釣れた。成果だけを見れば平均よりかなり釣れたので大漁と言えるだろう。
しかし、日が少し傾きかけた頃から、さっぱりと釣れなくなってしまった。
あれほど見た魚影もいなくなっていた。
鳥も移動したのか静かなものだ。この谷間には流れる水の音と、木々が風にそよぐ音しか聞こえない。

自分が立っている川辺から2mほど下流の岩の上で、どこから現れたのか大きな亀が甲羅干しをしていた。静かだが、長閑とも言える落ち着いた山の時間だ。

急に谷間を鋭い鳥の声がこだました。
あまりにも静かだったので、不意に聞こえた異音に身構えてしまった。
見上げると谷間の青空を大きな猛禽類のような大きな鳥の影がゆっくりと旋回していた。トンビだろうか?
トンビは釣り人の成果を狙うこともある。クーラーボックスの蓋を閉め、空の上を警戒する。

その時だった。大きな真っ黒な影が稲妻のように急降下した!
その勢いに思わずうわっと声に出して身構えた。同時にべき、と何かのヒビが入るような音がした。
音がした方を見ると、あの岩の上で大きなイヌワシのような鳥が亀を掴んでいた。
その姿を見て思わず悲鳴をあげてしまった。

「ひいっ?!」
その脚には猛禽類特有の鋭い爪が無かった。いや鳥の足ですら無かった。
大きな亀を、真っ黒な人間の両腕が掴んでいた。その猛禽類の脚は人間の腕だった。
悲鳴を聞いたのか“猛禽類”はこちらを見る。そして、目を細め、くくく、と笑うような鳴き声を上げた。

“腕”が掴んだ亀を締めあげる。亀は逃げようともがくが身動きができない。甲羅がミシミシと音を立て始め、ぐぐ、と亀から断末魔のような音が聞こえ始めた。
思わず顔を逸らした。
ベキベキベキと何かが割れる音が渓谷にこだまする。やがてそれはべキャ、べキャと粉々に割れる音に変わり、身の毛のよだつ咀嚼音と共に消えていった。

恐ろしい音が消えた。目を恐る恐る岩に向ける。
血を滴らせた真っ黒な人間の腕が目の前をよぎった。
「うわああっ!」
あの“猛禽類”が自分の周りを低空旋回していた。そいつは目の前でホバリング静止し、怯えるこちらの顔をじっと覗き込むように見つめる。
そしてまた、くくく、と嗤うように鳴き、嘴を開いた。

「おまえ、運がよかったな」

刺すように鋭くひと鳴きした“猛禽類”は急上昇し、青空へ消えていった。
青空の一点を呆然と見つめ、危険が去ったと理解するまで暫く時間がかかった。
あの岩の上には、粉々になった甲羅のカケラと僅かな血糊しか残っていなかった。

【終】

※豆腐怪談シリーズはTwitter上でアップしたものを訂正&一部加筆修正などをしたものです。

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