『ウクライナと新しい戦時下』を読んで
ゲンロン16に掲載される東さんの文章を読みました。
シラスで配信していただいた内容が、より深く書かれていて、とても読みやすかったです。
「新しい戦時下」を非常にリアルに感じることができました。
▼1 リアリティ
ウクライナに行った人でなければ絶対に書けないこと、行っても例えば記者やジャーナリストや大学教授だったら書けなかったであろうことを、書いてくれたことに感謝したい。
ウクライナの戦時下の日常のリアル。
泣く女性のそばにいる着ぐるみ。
ぬいぐるみ。ワッペン。Tシャツ。ミーム。戦争をモチーフとしたそれらの「かわいさ、ポップさ」。
似た光景が「ピックアップ」される昔と今の写真。
ロシア語で育った人とウクライナ語で育った人の夫婦。
美術家の寄付。
警報が鳴っても毎回防空壕に行くわけではない、という箇所に、特に「わかりみ」を感じた。
他方、私は、東さんがおそらく一番直接的にショックを受けた、現代美術の件は最初よくわからなかった。
「そういう美術家もいるだろう」と反射的に思ってしまった。
つまり私は美術家を、結局はあまり信用していないということになるのだろう。自分でも何か強いものや流れに「抵抗できると思う」「抵抗したい、せねばならない」そういう感覚があまりないと思う。そんな自分を再確認してしまった……。
▼1.5 『戦争語彙集』
実はこの文章の「1~終わりに」までを書いた後で、『戦争語彙集』(オスタップ・スリヴィンスキー作・ロバート・キャンベル訳著)を読んだ。
東さんの文章の感想途中にいきなり他の本の話ですいません。ぜひ両方とも読んでください。
この本には、戦争によって意味が変えられてしまった普通の言葉――なんでもなかったのにある日別の意味合いを持つようになってしまったウクライナ語の単語――が、アルファベット順に並んでいる。本文は淡々と話し言葉で書かれている。
「バスタブ」「ココア」「愛」「地下室」・・・。
キャンベルさんはこの本を訳すにあたり、2023年6月にウクライナを訪れたそうだ。その時に経験したことも書かれている。というかそれがこの本(日本版)の半分くらいを占めている。
私がこの本のことを知ったのはNHKの番組でだった。キャンベルさんはウクライナを訪問する際もNHKのクルーと一緒に行ったと記載している。
その後、何度か新聞紙上でもこの本の話題を見かけた。
キャンベルさんの文章によると、滞在中、ホテルやレストランにいるときに警報が鳴って他の人と一緒にシェルターに避難したという。他方、朝ごはんのおいしさや、電車の旅、大学の日本語ゼミでの講義についても記している。
率直に、この本はいい本だと思う(もちろんこんな本を編まなくて済んだ=戦争がなかったら、それが一番だったと思う)。声高な戦争反対とかロシア非難よりも響く。ウクライナの市井の人々の強さと、言葉への信頼も感じた。このような身体的・精神的危機にあっても人はなお、言葉を使って、言語化することで、精神的にも生き延びようとしているのだと思った。戦争が始まっても、結婚して、子育てをして、ペットを誰かに預けて。現実離れした現実に対処していかなくてはならない。
これは災害が頻繁に襲う本邦でも、おそらく人々が自然にやっていることなのだろうと思う。
キャンベルさんはジェシュフ、リヴィウ、ブチャ等へ行ったそうだ。ジェシュフとリヴィウは、東さんと上田さんも行っている。
キャンベルさんのこの訳出の仕事とウクライナへの取材は素晴らしいものだし、彼が感じたことは全て本当だと思う。
ただ、キャンベルさんの文章には一切、東さんが書いたようなことは出てこない。警報が無視されたことも、バイラクタルのぬいぐるみも、ネットミームも、比較の軸がずれた歴史の展示も。
もちろん、行った時期(キャンベルさんは6月、東さんと上田さんは11月)も、行ったところ(お店等)も目的も異なるため、それはありうることだと思う。どちらが良くてどちらが悪いということはない。
でも、キャンベルさんの旅はテレビ映像にできるが、東さんの思索や論稿は「取り上げにくい」のだろうな、と思った。
この『ウクライナと新しい戦時下』の論稿で、東さんは「モヤ・・・」を感じている。何かを断定せず、「モヤ・・・」と感じたことをいくつも教えてくれている。
この「モヤ・・・」は、テレビや限られた紙面では伝わりづらいかもしれない。
ウクライナがロシアに侵攻されても仕方ない、とは一切思わない。
それとは全然別に、私たちの世界は本当は複雑である。
複雑というのは「モヤ・・・」にいっぱい出くわすということだ。
ここからはロシアのウクライナ侵攻に伴って私が体験した「モヤ・・・」を書きたい。
▼2 学校の話
私が勤務する日本語学校では、ウクライナ避難民が数名受け入れている。
ほとんどのウクライナの学生達は日本語は全く話せない状態で来た(1人だけ、もともと日本のサブカルが大好きで独学で勉強していた人がいた)。
年代はバラバラだ。
20代の女性達。
若い男性(原則18歳以上の男性は国にとどまらねばならないため、それ以下の年齢なのだろう)。
ウクライナ人と日本人の夫婦にも出会った。開戦前は2人ともパフォーマンスを伴うアーティストだったそうだ。今は2人とも全然違う仕事をしているという。
並行してゲンロン/シラスが発信してくれるロシア・ウクライナ情報も見た。キリル文字がちょっと読めるようになり、余計にウクライナ語がロシア語とは異なることも実感した。
そしてウクライナ学生を担当することになった。
クラス替えなどで、これまであわせて4名ほどに出会った。
日本語教師として勤務し始めて数か月経った時期だった。
受け入れの前、私たち教師は
・辛そうにしているときは必ず報告
・こちらから戦争の話は絶対にしないこと
を厳命された。それ以外は普通の学生と同じように接するようにとのことだった。
避難民だからといって勉強の面で優遇したり、なんでも許すということはしないという約束で受け入れたという。
他の先生たちと、「ロシア」「ロシア語」という言葉すら言ったらダメなのではないか? と緊張していた。
結果的に私が会った学生は、話の文脈上出てきた「ロシア」という単語も、ロシア語も拒絶しなかった。教科書にマトリョーシカの絵が出てきたときも流していたという。
そういう「程度」すら私たちには分からなかった。
▼3 アジアと欧米の狭間
私の勤務校の学生は、ほとんどが20代でアジア圏出身(主にベトナム、ミャンマー、ネパール、バングラデシュ、中国 等)である。
ウクライナ学生の受け入れ時、他に白人の学生はいなかった。
ウクライナ学生は語学レベルによって各クラスに振り分けられたが、黄色い、浅黒い、もしくは黒い肌の学生たちの中で、ウクライナ人の彼ら彼女らの肌の色・薄い瞳の色・顔つきは、浮き上がって見えた。
圧倒的に違う。そのことに、気圧された。
アジア人・日本人である私の白人への劣等感(裏返せば、それはおそらく他のアジア圏の学生への差別意識)は根深いと思い知らされた。
正直、ウクライナ学生に話しかける時は今も緊張する。
しかし授業のとき、安心できたのもウクライナ学生だった。
というのは、私はこの仕事を始めたばかりだった。
そしてその時期、アジア学生の「教養の背景」が、日本のものとはかなり異なることを思い知らされていた。
私が普通だと思っていることが通じない。
「そんなことは大したことではない。知らないから勉強しに来たのだ。これからちょっとでも興味を持ってくれたらいい」
今なら私もそう思える。
しかし、仕事――全く違う環境で育った、日本語がほぼ通じない、年下の人間に、日本語を教える――を始めたばかりの私が、上記のように思ってしまったことは事実である。
それは知らず知らず、私を疲弊させた。
かなり疲弊させた。
(これには色々な事情もあり、くれぐれも誰かや、どこかの国が悪いということではない)
それに対し、ウクライナ学生は・・・そもそも教養の範囲が私たちと同じだた。おかしな言い方になるかもしれないが、私が知っていること、習ったことを、彼らも知っている、という安心感があった。
ウクライナ学生はほぼ全員、英語が流暢に話せた。彼らの多くは多言語話者である。
自立学習もできた。勉強の仕方を知っておりノートを取ることもできた。
うまく言えないが、日本で教育を受けた私と「プロトコル」が同じだと思った。
もちろん習慣や価値観や民族性などは異なるが、様々なことに対して共通理解があると思えた。
それでとても精神的に癒された。慰めだった。
私はアジアの学生とウクライナの学生と両方に出会うことで、いかに日本が、アジアの位置にいながら「欧米化」しているのかを思い知ったのだった。
そして私はアジアについて何も知らなかった。考えたこともなかった。あらゆる意味でアジアについて関心がなかった。
それは個人的に、この仕事をやる上でかなり重要な「気づき」だった。
戦争がなければ会うことがなかったであろう、欧米の、ウクライナの学生に出会うことで、私はこれを得た。
▼4 個人的な話
何度か書いているが、私は中学生の頃、数か月、ウクライナの男の子と文通していたことがある。
90年代である。
学校に「チョルノービリ(当時はチェルノブイリと言った)原爆事故」の講演をしに来てくれた方がいた。おそらくウクライナ人だったのだと思う。私が理解できたので、たぶん日本語の講演だったと思う(定かではない)。
最後に「ぜひウクライナの子どもと文通してほしい」と呼びかけがあった。数名が呼応したと思う。
文通は「日本語でも大丈夫」ということだったので応じたのだが、返って来た手紙は英語であった・・・。
私は今も昔も英語はほぼできない。
90年代である。インターネット翻訳も辞書アプリもない。
中学1年生のようなぶつ切りの英文でなんとか書いて送った。
当時、ウクライナのことはほとんど知らなかった。原発事故と、国旗しか知らなかった。ウクライナ語を話していることも知らなかった。ロシアとの関係も分かっていなかった。
彼は、私よりいくつか年下で、たぶん小学生だったのだろうと思う。
住所はキーウ(キエフ)だった。しかしキエフ以降のストリート?の名前は全く読めなかった。英語のアルファベットで書いてあるのだが、読めない、発音できない、接したことのない綴りだった。
キーウの少年と、ただ日常のことを書いて送り合っていた気がする。
そして確か”クリスマス”の頃(ウクライナではクリスマスは別の時期に祝うのかもしれないが、いわゆるクリスマスだったと思う・・・)、プレゼントが同封されてきた。
それは白地に赤と黒の糸で幾何学的な花のような模様が刺繍されたハンカチだった。
それが初めて触れた「ウクライナ」の文化だった。
彼との文通は自然消滅してしまった。ハンカチも手紙もずっと実家に置いてあったはずなのだが、どこに行ってしまったのだろう。
住所同様に名前も馴染みのない響きだった。
ファーストネームだけを覚えている。Ivan(イヴァン)だった。
▼5 その後
私はそれからなんとなくウクライナを気に掛けるようになった。辺見庸の『もの食う人びと』を読んだ。
新聞やニュースでウクライナという単語を見たら読む・聞くようにした。
しかしあまりになんとなくだったので、ゲンロンのチェルノブイリツアーには行き着かなかった。マイダン革命のことも知らなかった。
コロナの最中にシラス/ゲンロンに出会った。ロシア語に出会った。
そして、ロシアがウクライナに侵攻した。
マイダン革命の動画をNetflixで見た。
ロズニッツァを知って「ドンバス」を見た。
学校にウクライナ学生が来て、シラス/ゲンロンとそこからの関連で知ったことを反芻しながら彼らに授業をした。
といっても、「地雷」に触れないように必死だったし、日本語を教えることにも必死だったし(今も)、どこまで私が「ゲンロンならでは」感を出せたのかは分からない。
▼6 特別ではない
この論稿(ウクライナと新しい戦時下)の最初の方には東さんの深い落胆が書かれている。
「ウクライナがまだ戦争をしているということ、それじたいが忘れられているように思われた」
少なくとも、私にとってこの戦争は、隣の隣くらいにある。
学校に行けばウクライナ学生がいる。
親元を離れ、たった一人で、見ず知らずの極東・日本で生活している。
それを思うと「なんということだろう」と思う。
でも同時に、ウクライナ学生も人間だ。
クラスの人間関係で悩んだり、漢字に苦しんだり(非漢字圏の人間にとって漢字は苦行・・・)、授業で指されたら他の学生と同じように答えたり。休みの日には運動したり、K-POPショップに行ったり。病気になったら病院に行って、アルバイトもして。
担任の先生たちは、他の学生と全く変わらない態度でウクライナ学生に接している。自然である。
私はいつもためらってしまう。口ごもってしまう。変に考えてしまう。
ベテランの先生に言われた。
「どの国も(政治的な)事情を抱えています」
私はやはりウクライナを変に「特別視」してしまっているのだろうか。
それは差別なのだろうか。
こうも思う。
「私は”自己実現”のために、日本語教師をしていないだろうか」
▼7 何気ない話
▼ 終わりに
たぶん私以外には、全然意味のない、まとまりのない文章になってしまったと思うが、今はこれしか出てこない。
これ以降も何も出てこないかもしれない。
私の教養・経験・記憶はあまりに乏しい。
私は偏見と誤解と差別に満ちているのかもしれない。
でもウクライナの学生を見ていて、素朴に思う。
どうして自分の生まれ育った国で、家族と一緒に生活できないのだろう?
そして、彼らが日本に来たことは、彼らの人生にとって良かったのだろうか?
「生まれた時から使っている言語が、戦争によって使えなくなる」ことが起きている。
とにかくゲンロン/シラスには感謝している。
ウクライナについて、ロシアについて教えてくれたことに。
東さんと上田さんが戦時下のウクライナへ行ってくれたことに。
それを私たちに伝えてくれたことに。
ベテランの先生が言っていた「ウクライナだけじゃない」。
今も各地で内戦があり、戦争がある。
でもその全部を受け止めることは、私にはできない。現実的に無理だ。
このような私にせめてできることは、
・・・何なんだろう。
「ウクライナについて関心を持ち続けること」
それすらもやり通せるか自信がない。
ただ1点、私は、ウクライナ学生を受け入れているときに、ゲンロン/シラスがあって良かったと思う。
私がゲンロンを知っていたからと言って何か彼らにできたわけではないし、戦争も止められないし、戦争で傷ついた人たちに何かできるわけでもない。
自己満足なのかもしれない。きっとそうだろう。
これまで数名を受け入れた後、1名はウクライナに帰国、もう1名もこの春帰国することになった。学生側の希望である。
彼らに言えることなど何もなくて、ただ私は知っている限りの日本語の知識と、日本の文化や日本人のこと、私のことをただ話しただけだった。
これからまたウクライナ学生をもし担当しても、多分同じことしかできないだろう。
戦争はたくさんの言葉を人々に飲み込ませる。
東さんがこの論稿を日本語で書いてくれたこと発表してくれたこと、私が感じたたくさんの居心地の悪い「モヤ・・・」を、私は覚えていようと思う。
▼ ウクライナと新しい戦時下を読む方法
▼ 補足(シラス)
『ウクライナと新しい戦時下』をより詳しく理解するお供に、これらのシラスもオススメです。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?