わたしの値段

もらっている給料(報酬)が「私の値段」。

この考え方からどうにも抜け出せない。

私の人間としての価値もこれだけ。

ある意味ではそうだ。私の働く市場では、私の価値はこれ。いやもちろん、高級取りが全員素晴らしい人間だと思ってはないが(全くない。給料が良くてもコイツ・・・ってやつは何人もいた。てか無限にいる)、なぜか自分についてだけはこう思ってしまうのだ。

私の手取り額は、外国人留学生が法定時間内(28時間/週)で深夜バイトで必死に頑張った額とほとんど同じ。

だから税金も(フルタイムで働く人たちと比べたら)あまり納めなくていい。
国や自治体からしたら、一人世帯、独身、子どもも産んでいない、少子高齢化の権化みたいな存在だ。女性だから男性より長く生きる。高コストでリスキー。

この先、生活がどう変わっても、常に一人で生きていけるようにしていたい。何があるかわからない。自立していたい。

職業選択の自由はあるから、仕事を変えてもいい。
今の仕事でもっと長く働くことも可能だ。
そうすれば給料は増える。

しかし今の私はそれを選んでいない。理由はいろいろあるけど。
そうするとやっぱり現状の私に値段つけると、これだけ・・・。
これが私の「末路」なのかなあと。

怠けてるだけ。
そうなのだろう。
フルタイムで共働きで、みんな必死に頑張っているのだ。

でもそんなに「拘束」って重要なのだろうか。
いくつかの事業所でサラリーマンをやったが、常々「1か所に拘束され(てそれほど意味があるとは思えない仕事をす)ること」に「安定した対価が払われる」んだなーと思ってきた。

仕事さえ終わったら帰っていい、という今の勤務形態は、ずっと学校に拘束される勤務形態(プラス、担任として様々な仕事も任される)より、総額の給料が安い。
それは「プラス」の仕事に対する対価だとわかっている。

・・・でも「やっぱり、帰りたい!」と思ってしまう。。知らない人と一緒にいたくない!(笑) いろんな仕事もしてみたいけど、ずっとそこにいなくちゃいけない、というプレッシャー。。。

非常勤は、面倒な人間関係もないし、仕事だけの付き合いがラクでいい。仕事も準備も「意味が分からないこと」はほとんどない。どうしてするのかがわかる。
この2点で、会社でフルタイム勤務をしていた頃より、精神的にはすごくラクになった。職場のストレスチェックも、以前の職場なら「要注意」ばかり出ていたが、「大丈夫」になった。

それはつまり「ラクしてる」ということなのかもしれない。

罰なのか。ラクしてる罰。

・・・なのに私は、割はいいが日本語業界と関係ないバイトを辞めて、学校勤務を増やす。
手取りは減る。
拘束時間が減るからだ。
でも大変さは増す。
バイトは事前準備が何もいらず、とにかくその日行って拘束時間中いればいい。でも学校は授業時間外で準備がいる。それは無給。仕事に必要な準備だけど無給。学生のためだしそれは当然のこと。私だって学生はかわいい。がんばってほしい。せめて効率的に準備したい。それは手を抜くこととは違う(手を抜く→学生の評価が下がる→給料も下がる。後で自分の首を絞めることになる)。

授業中も、自分の給料が、時給が、頭から離れないのでかなりキテるとは思う。

学生は私を「おかねもちの日本人の先生」だと思っている。とんでもない。学生のほうが稼いでいる可能性もある。

別に給料が少なくても、充分幸せだけど、不安。
それは私が「お金がないと暮らせない」都市生活者だからなのだが、いきなり田舎で自給自足生活もできない。。
貧乏でも別に今は困ってないけど、なんか悲しい。

この負の思考ループを変えたい。どうにか抜けだしたい。
この業界の給料があまり上がらないのは、日本語学校が学生の授業料を主な収入源としているためだと思われる。たぶん。
学生たちからそんなに高額な授業料を取ることはできない。ビルや設備維持に莫大なお金がかかる。私が給料を上げろと思うことは、学生からとるお金を上げろということになるだろう。
そんなひどいことを思うなんて。。。
また負のループだ。

せめてシラスへの課金は続けたい。
貧すれば鈍する。せめて鈍くなるスピードを落としたい。


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