烏の破片

トレンドに小僧寿しが乗っていて、なんだかとても懐かしい気分になった。
のぶ代ドラのあの時代、ドラえもん型のケースに入った寿司を私は食べていた。未就学時代の話だ。小僧が小僧寿しを笑顔で食べていたわけだ。

だが暫くして、大好きな小僧寿しが潰れた。その跡地にできたのは同じような寿司のデリバリーだった。味の違いがわかる位に舌が肥えている訳ではないから、ただ「ドラえもんのいない寿司屋」になったという印象しかなかった。
その寿司屋もすぐに潰れた。(と思う。正直記憶にない)
その時分に出来上がった綺麗な家も今では汚れ、融雪管から出る水に地面は赤茶けてしまっている。

小僧寿しという単語からここまで思い返してみたが、改めて、やはり時間はかなり経ってしまったと思わざるを得ない。
20年。私が小僧寿しで寿司を食べていた小僧時代に産まれた赤ん坊は今すでに成人している計算だ。気が狂う。

小僧寿しは今思えば「寿司」という高級品の廉価版としての走りだったのだろう。
そして、値段としては確かに廉価版かもしれないが、まだ回転寿司もスーパーでの寿司も少なかった中では「寿司」というご馳走にはそれだけで価値があった。特に私が住んでいた秋田では。たが今はどうだろう。
スーパーには様々な種類の寿司が売っているし、なんなら街のコンビニにも多種多様な寿司が陳列されている。

酔った親父がべろべろでお土産の寿司を買って帰る時代は遠くなり、家族で小僧寿しに出かける時代も終わり、寿司は誰もがすぐそこで買えるファストフードには先祖返りしたと言えるのではないだろうか。

だが私は「ご馳走だ」と主張してくるような寿司が好きだ。値段は関係ない。寿司という存在には付加価値が確かにあった。
ドラえもんのケースにウソ800の数倍の密度で詰め込まれたあの400円の寿司はご馳走だった。誰がなんと言おうと、絶対にご馳走だった。

今の世間はそれぞれ別のものを買って、好きなときに好きなように食べられる。
便利で素晴らしい。
新たな市場にこぞって参入した小売店が寿司のごちそう感を殺したのは間違いないと思う。もちろんそれ自体はビジネス的に間違っていないし、寿司を手頃なものにした功績は何物にも変え難い。

だが、それでも、私はそうした参入者を烏と考えてしまう。

新たな市場に群がる烏が、何重にも重なって付加価値を殺したのだ、と。
今残っているのは豊かさを私達に与えてくれた、大企業という卑しい烏が残していった利便さだ。
私たちは数多ある利便性と合理化だけが進んだ卑しい烏の破片から豊かさを享受している。

そんな時代だからこそ心躍る400円のごちそうが恋しくなったりしてしまうが、400円の寿司で心躍ることはもうないだろう。

年を取っただけではない。
きっと、ときめきと利便さを自覚なく天秤にかけ、利便さを取ってしまったから。

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