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拗ねる人は何を恐れているのか?

こんなことを呟いたら、予想だにしなかった反応があった。

随分、昔、「拗ねる人」がいた。

打合せの場で、いつもとは明らかに違った態度を取っている。会議の場でも一言も喋らないし、明らかに不機嫌そうだ。周りのメンバーも彼に気を遣ってる様子が伺える。彼が何にそんな態度を取ってるのか、皆、分からない。

会議後に彼を呼び出して「その態度は何なの?」と聞いてみるも、「別に」と、これまたやる気のない、いかにも鬱陶しそうな返答。

僕もイラっとして「なんか文句あんの? 文句なるなら言えよ」と語気を荒めてしまう。彼は、ますます不遜な態度を取る。

後々知ったのだけど、彼のその「拗ねた」態度は、その会議に出席していたある別の人物の言動によってもたらされたものだった。

その理由は色々あるし、どちらが正しい/正しくないみたいなこともあるんだろうけど、いずれにしてもだ。その人物に腹を立てて、その人物へのあてつけであろうと、複数人が参加する会議でそういう態度を取るってのはあまりにも幼稚だ。

周りも気を遣わないといけない、場の空気は悪くなるし、何一つ良いことはない。拗ねる云々の前に、そういう態度が周りの人をどういう気分にするかということに想像力が及ばないのが、悲しかったりする。

何かの反発や批判に、あるいは自身が気分を害してることをアピールする手法に「拗ねる」という態度を取る人は、ほんとに幼稚だ。

「拗ねる」って凄く卑怯なコミュニケーション手法だと、僕は思ってる。

不満や批判の対象者へ、直接、自身の考えを明らかにして、訴えるのではなく、それっぽい態度で匂わせ、相手に気付かせる、相手を不安にさせる。

これって、コミュニケーションの方法や手法をそんなに持ち合わせていない「子供」が取る方法だと思う。相手を説得できるような技法も話法も持ってない、経験もない子供が、「拗ねる」ことで、相手を攻撃するというのは理解できる。でも、大人なんだから。

僕はコミュニケーションは究極的には挫折するという前提を持っている。誤解されそうだけど、あくまでも「究極的には」と言う話だ。

でも、挫折するなら別に無理して理解し合おうとする必要はないと厭世主義的に振る舞うのか、挫折するかもしれないけど、それでもどこかで分かり合えるところはあるんじゃないかと希望を持って前向きに「分かり合えなさ」も含めて、分かり合おうと働きかけられるのか。僕は後者でありたいし、後者の考えを持つ人と付き合いたいなと思っている。(前提が「分かり合える」と自信満々な人も正直苦手ではある)

拗ねるって、実は「分かり合える」前提で取ってる態度なんだと思う。「分かり合える」というより、相手が自分のことを理解してくれるのが当たり前だと思っている。ところが、相手が自分の思うような行動や発言や態度や判断をしてくれないことがある。それに対して憤る。

でも、その相手が理解してくれない、自分の思い通りにならないことに対して、自分から積極的に相手に働きかけて分かり合おうとはしない。多分、コミュニケーションの挫折を恐れてるんだと思う。

だから、遠くの場所から、いざという時に自分はいつで逃げられるようリスクを回避しながら、不遜な態度で相手に自分の不機嫌さを理解しろ、慮れと伝える。自身の不機嫌に気づいては欲しいが、自分から積極的にその不機嫌の理由を取り除くための行動は取りたくない。自分から「分かり合おう」と働きかけるのが怖い。挫折したくないのだ。だから、相手にそれとなく気づかせて不安にさせて、勝手に相手が自分の不機嫌を慮るべきだ。そんな我儘さを内包したコミュニケーション手法なんだと思う。

拗ねるなら、まず、分かり合えないことに挫折する恐怖に苛まれたとしても、まず、分かり合おうと自分から働きかけるようにして欲しい。拗ねたところで、相手も不安になるだけだし、ビジネスの場で拗ねる人は、周りからも「そういう人だ」というレッテルを貼られるだけだ。あの人は拗ねるというコミュニケーション手法を取る人だ、と認知されると、周りの人たちも最終的にはその人に働きかけていこうとはしなくなる。関わらないでおこうという気になってしまう。

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