モチベーションについてのあれこれ
先週末にお客さんとの打ち合わせで、僕のnoteを読んでくれていて、めちゃ愉しみにしているという熱烈な声を頂いた。読んでくれてる人はいても、次のを愉しみにしている、なんて人がいるとは思ってもなくて、社交辞令だとしてもとても嬉しかった。単純なので早速書いてみる。
─*─
社員にはできればモチベーション高く働いてもらいたい。
たまに組織についての講演をしたりもするけど、その時にも、僕は、組織づくりにおいては「モチベーションを重要視してる」と話してる。
ただ、この話をする時には、必ず、モチベーションが高い社員が沢山いたら、業績が良いのか、会社がうまくいくのかどうかは分からない、ということも付け加えてる。
実際に、本当に分からないからだ。
(モチベーションなんてものが本当に「ある」のかどうかも怪しいわけですが、そんなこと言い出すと大変なので、とりあえず、ここではそれらしきものは「ある」んだという前提で話を進めます)
でも、単純に、モチベーションが高い人たちと仕事できるほうが楽しいんじゃないかとは思ってる。白けてる人や、やる気がない人、何事も他人や周りのせいにしてしまう人、そんな人たちの割合が多いと、僕なんかはやっぱり自分のやる気も削がれてしまう。というか、やる気を出し難くなる。
だから、モチベーション高い人ばかりじゃなくてもいいけど、モチベーション低い人が沢山いるとか、そういう人がやたら目立ってしまうとか、そういう組織にはしたくない。
ただし、だからといって、社員のモチベーション創出のために、会社が何か手ほどきをする、というのも、ちょっと違うと思ってる。特に、外発的動機付けによるモチベーション創発というのは、麻薬みたいなもので、どんどん強い刺激が必要になる。
会社として社員のモチベーション領域に何かできることがあるとすれば、それは次の二つじゃないかなと思う。
一つは、モチベーションを下げてしまうことを極力排除すること。もう一つは、仕事に「自己決定感」と「自分事化」を持てるような仕組みや環境、文化づくり、だ。
モチベーションを下げないようにする?
モチベーションを下げないようにすると言っても、社員の機嫌を常に伺うことではない。基本は「自分の機嫌は自分で取ろう」ってのが前提にはあっての話だ。
稀に、「そんなこと言われたらモチベーション下がる!」「そんなことされたらモチベーションが下がる!」と会社側に色々主張してくる人がいるが、モチベーション下がることを主張してくる人の要求は、僕は正直あまり正面から取り扱わない。モチベーションを何かの交渉材料にする人のモチベーションってどうなの?とも思ってるから。
モチベーションを下げないというのは、僕の中では、理不尽なことはしない、させないということだ。
上記のnoteでも書いたけど、僕自身が過去の経験で1番モチベーション下がったのは理不尽な要求をされることだったりしたので、それはやりたくないし、させたくないと思ってる。
理不尽を無くすというのは、これは意識して取り組んでいけば出来ることだと思うので、ちゃんと取り組んでいきたい。
例えば、理不尽な要求してくるお客さんの仕事を断れるような状況を作っていくとか。理不尽な要求を飲まざるを得ないのは、そのお客さんに依存してしまってるからだったりするので、そこは経営課題として改善していくべきだ。
会社のルールにせよ、制度にせよ、「理不尽」は極力排除したいと思ってる。勿論、それはそう簡単なことではない。今のうちの会社にも理不尽は色々ある。ただ、それはきちんと改善したい、補正していきたいという意思はある。
「自己決定感」「自分事化」の重要性
もう一つ、モチベーションで大事なのは、僕は「自己決定感」と「自分事化」だと思っている。
自分事化という言葉も、最近、やたら使われてるけれど、この二つは、僕の中ではほぼ同じ意味だ。
要は、自分で何かを決めている、判断しているという感覚を持てるかどうか。その仕事へのオーナーシップ感が持てるかどうか。
この自己決定感や、自分事化というものは、命令や指示で持てるものでもない。上司が部下に、お前、自己決定感持てよ、と命令しても、言われれば言われるほど、自己決定感から遠ざかっていく。
これらはルールや制度でどうにかなるような種類のものではなく(一部はあるけど)、どちらかというと組織文化とか他の社員の考え方や、その関係性みたいなものからしか生まれ得ないのではないか、と思っている。
あ、あと、よく勘違いされるけれど、これらを「自由」という言葉と同義で見られ、何でも自分の好きなようにできるのは良いね、そんな組織ありえない、みたいなことを言われることがあるけど、自己決定感や自分事化は、「自由」とは違う。
「自由」が何かを定義しだすと、それだけでも長くなるので、ここではあまり深入りしないのだけれど、「自己決定感」や「自分事化」には、むしろ「不自由さ」が前提としてある、と僕は思ってる。
何をするにも自分の思い通りにはなかなか行かない。他の人もなかなか理解してくれない。そんな不自由さは前提としてありながらも、その状況の中で、いかに自分自身が主体的に、行為や発言に納得感や理由を付与できるか、自分が選択したことへの覚悟を持てるか、ポジティブな未来をイメージできるか。自己決定感や自分事化という言葉には、そういう不自由さとの向き合い方や、乗り越えようという意思が備わってるんじゃないか?
自己決定感や自分事化できる文化をどう作るか?
そんな方法が確立されてるなら、教えてもらいたい。僕も試行錯誤してる。
こんなことを言っては身も蓋もないのだけれど、その言葉のまま「自分で決める」「自分で責任を持つ」、これが前提にはなると思う。意思決定の粒度や範囲の問題はあるにせよ、どんな立場や位置の人にも、自分で考えて決める、という領域を用意することは可能だと思うし、経営としては用意しなけ
ればならない、と思ってる。
当然、何かしらの指示命令は、仕事にはつきものだ。ただし、必ずその指示命令の中に、自分(達)で考えなければいけない領域が残されているべきだと思う。すべてがマニュアルに記載されいて、自分が考える領域がほぼない、という状況では、当然、自己決定感は持てないし、仕事を自分事化するのは難しいんじゃないだろうか。
僕らが、自己申告型制度みたいなちょっと変わった制度を導入したのも、別に奇を衒ったわけではない。この制度は個々人に強烈に自律を求める。他人がどう、会社がどう、ではなく、自分はどうするのかどう考えるのかをまず問われるから。自分で自分の仕事やその価値を考え、そこにコミットして行く。仕事だから当たり前だと言われそうだけど、会社側から何か指針やフレームや触手定義や必要能力を提示してるんけではなく、基本自分でそれを考えないといけないという過酷さは、この制度ならではだろうし、実際、この制度に変えてから、社員の積極性や主体性はものすごく上がったと思う。
あと、これは文化や環境という話ではないけど、どんな仕事にも依頼者や依頼内容を超えるリターンを返そうと試みる、というのも良いかもしれない。
期待以上のものを返そうとすると、そこには必ず「相手の期待レベルを考える」ことと、「それをどうしたら上回れるかを考えること」、この2つの思考が必要になる。他者が驚いたり、喜んだりする姿を想像する、自分がやることの価値を考える、どちらもモチベーションには良い影響をもたらすだろうと思う。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?