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にゅうがくれき

以前から思っていたんですが、
受験産業が便宜的に名付けた
MARCHとか関関同立とか
複数の大学を一括にした呼称を
さも突破ラインや階層であるかのように
価値としていることが
とても引っかかります。

「MARCHに入れました」みたいな
ドヤ顔が見えるような書き込みを読むと

「うっ、気持ち悪い」と感じます。

これは学歴ではなく「入学歴」重視の
反知性主義的価値観そのものである、
私はそう思います。

それぞれの大学が同じ学部名であっても
特色も教える人も違うそれぞれのスタンスで
学問の場を提供しています。

それを偏差値みたいなもんでひとくくりにし、
何を学ぶのかではなく
入学と卒業の履歴しか見ない。
学問だけでなく人物さえまともに見ようとしない。

そんなアホ社会のアホ価値観の象徴が
「入学歴重視」だと思っています。
高校なんてさらに「入学歴重視」なんて
無意味なのに、それをプライドにしている
生徒や保護者がいる。

本末転倒も甚だしいと思います。

「いい学校」の価値とは
その教育内容や校風によって
生徒が形成・成長した事実にこそあるわけで、
「そこで何をしたか・どうなったか」
のみが価値であるにもかかわらず、
入学したこと一点でドヤるなぞ愚の骨頂です。

そこで何をしたか、何を身に着けたのかが
語れないような輩が、
学校名を軽々しく出すなよと思います。
面汚しだから。

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私は自分の母校(中学・高校一貫)に
誇りを持っています。
卒業後32年。今でも心に宿っているのは、

 ・多様性と個性を尊重し、違いを排除しないこと
 ・生徒への抑圧がなく、自主性を重んじる教育
 ・他人の大人(教師)から愛された経験
 ・あくまで個別・個人が主体でその集まりが全体であること
 ・本質を重んじ、見栄などはかっこ悪いものである

これらがゆるぎなく自分の根っこにあるので、
学び場づくりにそのまま反映されています。

私の中高生時代、学校には在日朝鮮人の子もゲイの子もいました。
彼らはそれを公言していたし、いじめも記憶がありません。
そして生徒を一人の人間として扱い、向き合う教師がいました。

ここで身につけたものが私の教育観の根幹になっています。私の歴史であり文化であるとも言えます。

だから率直に言えば、
公立中学・高校で学び、公立中学の教員だった人の
文化や歴史とは大きく違うだろうと思います。
もちろん個人の価値観とはまた別の話ですが、
全体主義・みんな一緒・悪い意味での平等という価値観が支配する場所に身をおいていたことは間違いないでしょうから。

さらに個人的な感覚として幼少期から、
マジョリティに属している・属したいと思ったことがないこともあり、
それが掛け算となり学び場の雰囲気に大きく影響していると思います。

だから中学高校の支配的な価値観や教員と合わない”少数派”がのびのび学ぶことができるはずのオルタナティブな教育の場で、またイケてる多数派とそうでない少数派を形成するような場作りをする同業には強い嫌悪感を感じるのです。だから本質とかけ離れた「入学歴」を、さも大切な価値のように扱うことに納得がいかないのです。

人それぞれ、多様性、
と言われてしまえばそれまでですが、
「入学歴」を大切にする価値観は
世の中では多数派だから正しいのだ、
という社会をそろそろ変えたほうがいい。
だから声を上げよう、と思うのです。

私は人間が幸せに生きていくための方法として
「本末転倒しないような選択をして生きていく」
事が大切だと考えています。
だからこそ、学びも仕事も
「そもそも何のために」を考えることが大切で、
自分の意思で人生の選択、自分が身を置く場所の
選択が大切なんです。
このことについてはまた詳しく書こうと思います。

なぜ私が「入学歴」に引っかかるかというお話でした。

それじゃあまたね。

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