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ハマスホイについて—不穏なる連続性


思えば「本展はフェルメール展ではありません」と大きく美術館の入口に注意書きがしてあった本邦最初のハマスホイ展(当時は”ハンマースホイ”と表記されていた)でなぜかとりわけ強く印象に残ったのはこの修業時代のデッサンだった。

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ふと思うところがあり、今になって、その時の印象を元手にしつつ、久しぶりにその2008年の展覧会の図録をめくりつつ、実のところ特に凄く好きというわけでもないハマスホイの絵について改めて考えてみた。近年の爆発的とも言える(ポスト若冲=フェルメール的な)その人気ぶりに対し、どういうことなのかということを考えてみたくなったというのもあった。

ポスト印象主義からフォーヴ、キュビスム、抽象という怒濤の絵画の革命が起きて来る19世紀末から20世紀の初頭においてその「革命」に背を向け自閉的にアカデミー絵画ベースの絵世界を護り通した画家の(あり方は大きく異なるがその時代の革新に背を向けた自閉性、ある種の変態性のようなところで同世代のヴァロットンと相通ずる面があると思える)ひとつの明瞭な大きな特徴を為すものとして、「トーン」ということがあり、修業時代の石膏像素描においての耽溺とかフェティシズム的という言葉の似つかわしいようなトーン(明暗諧調)への偏愛、それが一貫したハマスホイ絵画の特質となっているように思えるのだった。

そのハマスホイにおけるトーンへの偏愛というものを考えた際、それこそフェルメールとの対比でいえば、近づいてみると存外に荒いディテールを持つフェルメールとは対照的にハマスホイのありかたは視覚的というよりは触覚的であり、愛撫を思わせる描く事自体への執着というものを感じさせる。ハマスホイ自身の気質的なものが19世紀アカデミー絵画のひとつの柱であるところの滑らかに連続したトーンの護持へとつながっているように思えるのだった。

ハマスホイの描く、ことごとく低彩度(白黒茶グレーからなる)の油彩画において、描かれた事物はトーンへの偏愛に応じて「重い」。恍惚老人が撫でるがごとくに丁寧にトーンを施された壁、床、テーブル、椅子、そして人物はことごとく重く、総体的に稠密な空間の重力が生じる。空虚な室内空間の豊かなる「重さ」と言えばいいのだろうか。「所有」ということを思わせる視線の触覚性/タッチが室内の「物」の実在性を産み、そのぶんいっそう不在感が際立つ。そこに人物が配されているとしても、たいていそれは後ろ向きであり、あるいは俯いており、かつ中心からはずれて、絵の主役という感じはしない。その主役の不在における事物=空間の不穏なまでの「重さ」がシュルレアリスティックですらある。 実際、2008年に初めて観たハマスホイの絵に対し「シュルレアリスムの一歩手前」という印象を受けたのではあった。

死後、忘却されたのち20世紀末に再評価が起きるというハマスホイ絵画の成り行きはそのまま、モダンアートの興隆において「悪役」としてあったアカデミー絵画の20世紀末のリヴァイヴァルと通じ合うに違いない。20世紀の前衛絵画のその後衛に誰がいたのか、20世紀末から21世紀にかけてようやくそこにスポットライトが当たるという成り行きはヴァロットンの再評価とも繋がるはずだ。印象主義及びポスト印象主義により、アカデミー絵画の不能ということが 起こってきたとき、ハマスホイの行き方は当時、従来のアカデミー絵画からすれば異色であったにしても、連続したトーンや線的遠近法は堅持され、空間の解体作業には手をつけなかったわけである(ヴァロットンの場合はゴーギャン/ナビ派的な色面構成ー平面性へのアプローチがあり、そこはハマスホイと大いに異なる)。

ハマスホイについて考えているうちにもう一人、アンドリュー・ワイエスのことが脳裏に浮かんできた。時代は大きく異なるものの、世界からの隔絶を保った狂気を孕んだような孤独、自閉的傾向、その画面が湛えた抒情性と広く大衆的な人気という点でワイエスとハマスホイは多く通じ合う気がする。ただワイエスにおいてはテンペラというメディウムの特性が大いに関係するというのもあるだろうが、ハマスホイとは「トーン」の感覚が著しく異なる。ワイエスの描く事物にはフェルメールとはまた違った仕方で「重さ」がないと私には感じられる。ひょっとしてワイエスにはトーンの概念がないのではないかと思わせるほどにその画面はヨーロッパ的な、アカデミー的(スムースな)明暗諧調から隔たっている。

ハマスホイに戻れば、その世界はワイエス的な荒々しいウィルダネスとは無縁の「丁寧な暮らし」というフレーズを彷彿とさせる上質な生活世界だとも言える。おそらくハマスホイの爆発的な受容には北欧家具というか北欧インテリアを好むような層も多く係わっているのではないかなどとも思ってみる。そのヨーロッパ的に連続したトーンに裏打ちされた「インテリア画(室内画)」は、洗練された不穏な安定、陰鬱にして上質の安寧というようなアンビヴァレントな世界観を示しているかのようだ。極端な気候変動と不況とに支配された極度に細分化された、即ち細切れのSNS的日常において、ハマスホイ絵画の不穏な連続性(トーン)、あるべきものの不在と不安に満ちた安定性がある種の逆説を孕んだ”癒し”として機能しているように思えるのだった。

そしてパンデミックである。欧州パンデミックのピークにおいて、SNSのタイムライン上において、人物像を消し去った西洋名画のパロディをしばしば見かけることがあった。それはロックダウンによって人がいなくなった街、あるいは観光名所の写真とも通じるのだが、ルネサンス以来の「人間中心主義」の後ろ盾によって描かれてきた華やかなあるいは荘厳なる人物群像が消し去られて、空虚な舞台だけがそこにあるというそのパンデミック絵画ともいうべきパロディがハマスホイのことに人影のまったくない風景画を彷彿とさせたのだ。そして、そもそもハマスホイの絵が「パンデミック絵画」であるかのようにすら見えてくるのだった。そう思うとあるいはその室内画は "stay home "のフレーズが似つかわしくも見えてくる。もっともハマスホイの室内画にあってはそう呼びかけられるまでもないのであろうが。

ハマスホイの絵が内包する陰鬱さ、不穏な感覚はその滑らかな連続性と安定性の代償であるかのようである。そこには主役は存在せず、安全をかき乱す他者もいない。その絵画は西洋大航海時代以来400年来の「人間」が主役(ユマニテ)の時代/文明期の果てを思わせる。ハマスホイの活動期間、19世紀末から1910年代はアヴァンギャルドたちがそれぞれの仕方で(少なくとも見かけの上では)アカデミーの約束事を破棄し、ルネサンス以来の西洋近代文明の果てを描出したのであるが、ハマスホイはアカデミー絵画の語法を手放さないままの、その果てを描いたといい得るのかもしれない。その連続性は安全にして不穏に満ちている。


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